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人獣見聞録 猿の転生・Ⅰ 猿猴が月に愛を成す  作者: 蓑谷 春泥
第1章 サウンド・オブ・サンダー
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第4話 城下

「ずいぶんげっそりしてきましたねー」


 俺の幾分こけた頬を眺めてリリが言う。この診療所に逃げ込んでから数日。霊安室で惨殺死体とルームシェアし続けていれば、嫌でも疲弊してくる。無精髭がじょりじょりと乾いた音を立てた。


「なあドクター、そろそろ外に出してくれないか? もう闇雲に森に突撃するつもりは無いよ。それよりまずはこの世界のこととか、魔法使いの噂とか、情報を集めて回りたいんだ」


 俺は提案した。リリはやや不満そうに口を開いた。


「そうですねー、そろそろ頃合いですか。もう少し、衰弱していくましら君を観察したかったんですが……」

「……それは、医学的興味……だよな?」


 リリは菩薩のような微笑みを湛えて俺の質問を黙殺した。もしかして俺は軟禁されていたのか? 俺はぶるぶると頭を振った。今の言葉は忘れよう。


「やっぱり活きが良いのが一番ですからねー。分かりました、外に出られるように計らいましょう」


 なんだか釣られた魚みたいな気分だった。


 リリは木目調の黒いキャビネットから目立たないローブを取りだし、俺に着せかけた。フードを深くかぶると顔まですっぽりと隠れる。濃紺、紅緋(べにひ)に鼠色、若草色、墨色、白、白、白、白……。戸棚には色とりどりの外套やローブが並べられていた。


「随分揃えてるな……。お洒落か?」


「この診療所、猿族の患者さんもいらっしゃるから、いくつか用意してあるんですよ。目立たずに通院したいっていう方が多くて。私は白衣ばかり着てますがねー」


 たしかに白衣だけで四着はあった。


 外に出ると久々の太陽に目がくらむ。灰になってしまいそうだ。だが新鮮な空気が肺に満ちると、活力がみなぎってくる気がした。この世界の空気は、都会の汚れに染まっていなくて清々しい。


「自然は良いなあ。心なしか気が湧いてきた気がするよ。猿の血が広い大地を求めていたのかもしれない」

「あら、それは私の『力』ですよ。元気になってきたでしょう?」


 リリは俺の肩に手を置いて言った。力? 比喩か何かだろうか。


 俺は庭の一画に目を止めた。


「なあ、あれが前に言ってた薬草か?」


 診療所のぐるりにはちょっとした菜園が続いており、色とりどりの植物が咲き乱れていた。よく整備されている。


「自家栽培ってやつだな」


 俺は一輪の薄緑の花を摘まんだ。花弁まで緑なんて珍しい花だ。


「ええ。森から採ってきても良いんですけど、希少な薬草もありますからねー。大陸から持ち込んだ種もあります」

「大陸……、前にも言ってたな。こことは別の場所なんだよな?」

「ええ。海の向こうの大陸です。文明国で、この島国よりずっと進歩してるんですよ。十代の頃は、ずっとあっちに住んでました」

「こっちの世界で言うとこの、洋行ってわけだな」


 俺は感心して呟きながら、茎のあたりをしげしげと眺める。なんだか指先が痺れてきた。


「それ、鱗粉に毒があるから気を付けてくださいねー」

「インテリなら、手遅れという言葉は知っているな?」


 井戸の水で右手をよくすすぎ、俺達は診療所を後にした。リリのやつ、わざと忠告しなかったとしか思えない。あれでけっこう悪戯っぽいから困る。


 街は中世崩れのような洋風の趣だった。煉瓦造りの二階建ての家屋があちこちに立ち並んでいる。粘土質が俺の世界とは違うのか、青みがかっていた。家には丸い枠に薄緑の硝子がはまっており、道路に面した部分にごく短い煙突のような突起、というか四角い穴が開いて煙を吐いていた。屋根は平たく、背の低い植物が繁茂し、大きな葉を茂らせていた。畑でもあるのだろうか。その間を天井部分から壁際に沿って木製の雨樋が地面まで通っている。地下水道まであるみたいだ。当然だが、現実の中世の文明レベルとは微妙な相違があるようだった。


 リリは俺を市場に連れて行った。この世界の住人の暮らしを理解するのに都合よく、聞き込みにも適している。「お客相手なら、話を聞かせてくれますよ」麻袋を渡しながら彼女は言った。中を覗くとビー玉サイズの銅色の玉が詰まっていた。多分貨幣だろう。大きさが微妙に統一されていないところを見ると、重さでやり取りするタイプだろうか。なんだかお遣いを任された子供の気分だ。というより年齢を考えると、ヒモに近いのか……。


「やあ」


 俺は近くの露店の主人に声をかけた。木の蔓が編みこまれた帆のようなものが天幕のように張られ、いくつもの大きな籠に平たい果実のようなものが並んでいる。


 亭主は俺をじろりと見た。俺は笑いかける。相変わらず無言である。俺が麻袋を掲げるとようやく相好を崩した。


「やあ、お客さん。何をお探しで?」

「ああ……」


 俺はちらりとリリの方を窺う……、が、いない。俺は一瞬焦ったが、遠くに銀髪が見えた。他の店を見に行ったのか、ともかく目の届く範囲には居るようだ。置き去りにされたわけではなさそうだ。


 仕方がない、自分の力で交渉する他なさそうだ。


「すまないが、俺は旅人でね」


 俺は肩をすくめて店主に言った。まあ、嘘ではない。


「この辺の文化には疎いんだ。どれがお薦めだい?」

「そうさな……、何処から来なすった?」


 亭主はその辺の商品をかき分けながら尋ねた


「あー……大陸の方だ」

 

俺は聞きかじった言葉を唱えた。


「ほう、大陸か。そいつは偉い。猿族だと思って甘く見てたが、案外根性あるな」


 俺は曖昧にうなづいた。亭主は果実を一房もぎって掲げた。


「支払いはどうすれば良い?」

「こっちの秤に載せてくれ。商品によって重さが決まってる」


 俺は受け皿が袋状になっている天秤の片方に、適当な量の貨幣を放り込んだ。そのうちつり合いがとれた。念のため隣の店の客を盗み見てみる。モノクルを掛け、フードを目深にかぶった雰囲気のある男……よく見ると黒毛の猿だ。それと紳士然とした初老の人間との二人連れ。同じように支払いをしている。


 俺は商品の果実を受け取る。中からたぷたぷと音がする。意外な感触だ。俺は再び隣の紳士たちを盗み見る。彼らは細長い果実の茎のような部分を引き抜き、その穴に口をあてがって上品に果汁を飲み干していた。


 食い物だとばかり思っていたが、飲料だったわけか。俺は不器用に平たい果実の皮をちぎり、墨汁のような液体を口に含んだ。


「悪くない味だな」

「あんた、そいつはインクだ」

嘔吐。


 隣の店の飲物をもらってうがいをしていると、さっきの紳士たちが怪訝な顔でこちらを見ている。まあ、口元を真っ黒にした猿が道端でえずいていたら嫌でも目立つ。俺はリリの姿を横目で探した。路地の端から白衣の裾が覗いていた。今の痴態は恐らく、見られていない……、そう願いたい。


「大丈夫ですかな」


 初老の人間紳士の方が声をかけてきた。ギリシアの哲人のような布の羽織り方をしている。背中をさすってくれた。


「やあ、これは、どうもご親切に」


 俺は冷や汗を拭いなが礼を言う。


「珍しい御髪の色ですが、旅の方で?」

「ああ、そうだ。あー……『大陸』から来た」

「……ほう」


 紳士の目つきが鋭くなる。背中をさする手が止まり、ぐっと力を込められた気がした。なぜだろう、拭った傍から冷や汗が玉のように浮き出てくる。


「私の勘違いですかな……、思い返してみると、先ほどからこちらに視線を走らせていましたね?」


 老人はいかにもついでといった感じで、しかし油断の無い眼で尋ねる。この受け答えに自身の進退が握られている、俺はそう直感した。


「……ああ。何分買い物の仕方も不案内でね。俺のいた所じゃ、秤量貨幣なんて珍しいものだから」

「……そのようですな。こちらにはおひとりで?」


 否、と答えようと思った。この男に下手な嘘を吐くのはまずい。しかし……、リリのことが気がかりだった。こいつが何者かは分からないが、分からないからこそ彼女を遠ざけておくべきだと俺は判断した。


「そうだ。一人で来た」

「成る程、成る程」


 男はにこにこと肯いた。「独りね」俺の返答を反芻し、ゆったりと背後に回りこむ。「誰の差し金です?」


 男の声は低く、尖っていた。

「待て、話を聞け」「もちろん話してもらいますよ。あなたが望まなくともね。で、後ろには誰が付いているのです? 北面の外典派か、はたまた軍警(けびいし)(いぬ)共か……」

「ボアソナード」


 男の追求が止まる。露店の蔭から、さっきのモノクルの猿が腕組してこちらを見ていた。


「離してやれ。そいつは敵じゃない」

「しかし、彼は嘘を……」

「かまうな。猿族なら素性の明かせない者もいる。それに……」彼は既に品定めを終えたというような目で俺を眺めた。「間諜ならば、こう迂遠な目立ち方はしない。気を引きたければ騒ぎを起こすからな」

「左様で……」


 初老の男は恭しくモノクルに頭を下げた。それからこちらを向いて片目をつぶる。


「連れが粗相をしたな」


 モノクルはこちらに軽く手を振った。


「なに、気にしちゃいない」


 俺は努めて冷静に答えた。彼は口角を上げて微笑した。


「城下を楽しむと良い。猿族が宿をとるならモルグ亭で……、ああ」


 モノクルは立ち去りながらぼそりと呟いた。「彼らは死んだんだったな」


「死んだのは細君の方だけですよ」


 初老の紳士は悠然とモノクルの後を追いながら訂正した。


「目的をお忘れですか、僧督殿」


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