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人獣見聞録 猿の転生・Ⅰ 猿猴が月に愛を成す  作者: 蓑谷 春泥
第1章 サウンド・オブ・サンダー
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第2話 異世界風景

「ちょっと、待ってください」

 彼女が俺の肩に手を添えた。反射的に俺はベッドを飛び降りていた。横に並んだリリと目が合う。立ち並ぶと目線が同じ高さになった。

「どこへいくつもりです? まだ動き出していい状態じゃありませんよ」

「いや、でも、猿が……」

「……猿?」

 俺は外を指さした。リリも視線を追って窓を見る。……そこには黒々とした夜の闇が口を開いているばかりだった。

「ああ……、窓に映ったわけですね。光の加減で」

 リリは何か得心の行ったような表情で答えた。蝋燭の灯りは既に元通りになっていた。隙間風がまた微かに灯を揺らして、通り過ぎていく。

「ささ、ベッドに戻ってください。もう少し安静にしていなければなりませんよ」

「あ、うん。…………いや」

 俺は彼女の手を押し戻して答えた。「もう行くよ」

 リリは俺の言葉に初めて強い反応を示した。「もう行く? どういう意味ですか」

「せっかくの好意だけど……、おかげで今の状況も元の世界の手掛かりも掴めた。樹海に戻って、もう一度その樹海の魔法使いを探してみるよ。案外事情を話せば帰してくれるかも……」

「楽天的ですね。闇雲に探すには、樹海はいささか深すぎますよ。おまけに夜明け前ですし。それに禁則地の周辺には軍警も見張っていて、そう簡単には踏み込めません。第一」リリが押し返すように俺の胸を人差し指で小突いた。「そんなおぼつかない足取りで、どこへ行けるというんですか」

「多少の無茶は慣れてる。向こうの世界じゃ16連勤とかしてたしな……。正直異世界見物には興味あるけど、どうしても帰らなきゃならないんでね」

「なぜ?」

「『なぜ』?」

 俺は虚を突かれてリリの顔を見た。リリは真っすぐな瞳でこちらを見つめている。「誰か帰りを待つ人が居るんですか?」

「……いや、特別そういう人は……」

「向こうでやり残したことが?」

「有っ……たかもしれないが、大した未練はないな」

 家族は既に他界している。近頃は恋人らしい恋人もいなければ、知り合いとも久しく疎遠になっている。なぜ? そう言われると言葉に困る。なぜ帰らなければならないのか。それなりに親しい人間はいる。アパートの隣人とはたまにどちらかの部屋で宅飲みしているし、インターン先の美人の先輩には色々と面倒を見てもらっていた。それから身辺整理をしたばかりの部屋に読みさしの本がいくつかあったし、来週最終回のアニメも二本くらいあった。でもそれらが今の自分を引き留めるほど強い心残りかと聞かれれば、そうとも言えなかった。

 何か大事なことを忘れている。それは約束だった気もするし、単に自分に課した使命だったかもしれない。あるいは誰かの暗示か……。

 『君は英雄になるんだ』。……そういえば、夢枕に誰かが言っていた気がする。若い女の声だったような気もするし、禿げた丸顔の老人が言っていた気もする。

 英雄? 今日日(きょうび)流行らない言葉だ。何のことかもさっぱり分からない。それに、何の確証もない他人の言葉だ。

 ……。だが……「英雄」。「特別」な響きだ。

「……自分の世界に帰るのに理由なんていらない。助けてくれたのには感謝してる。だが後のことは好きにさせてくれ。一人で何とかする」

 俺はふらつく足で彼女の横を通り抜けようとした。リリはむっとした表情をして俺の脇に両腕を差し込んでいた。「……! ドクター?」

「寂しいじゃないですか……、一人にしてほしいなんて」

 肩の中でリリが呟いた。抱き止められたのだと思った。なかなか大胆な行動だ。世間ではこういう男女の機微を、「脈あり」とかなんとか言うらしいが……。

「……ドクター……」

 言い終える前に、俺の通俗的な解釈は速やかに打ち砕かれた。俺は足を払われ、あっという間に床の上に組み敷かれていた。「な……⁉」変な方向にねじれた腕が彼女の手の中でぎりぎりと封じられている。無駄のない実に精妙な絞め技だ。護身術でも鍛えていたのか……などと他人事のように感心している俺をリリはさらに強く締め上げた。田舎の蛙みたいな頓狂な悲鳴が喉の奥から飛び出る。

「少々手荒ですが、実力で止めさせてもらいますよ。医者として見過ごすわけにも、いきませんからねー。悪く思わないでください?」

 俺はリリの腕を二回叩く。……彼女の手は緩まない。そうか、ここではギブアップのサインも通じないのか。それにしても強引なドクター・ストップだ。むしろ怪我人が増えるんじゃないだろうか? このやり方…………。



 目が覚めると俺は石造りの冷たい寝台の上にいた。あたりは真っ暗だが、蝋燭の頼りない灯りで、部屋の壁や床も同じ石で出来ていると分かる。窓はなく、頑丈そうな鉄の扉の取っ手には古びた鎖が巻き付いている。天井からは時折水滴が落ちていて、部屋全体がじめじめとしている。周囲にはどう見ても棺にしか見えない木の箱が並んでおり、俺もその一つに転がされていた。ここは病院と言っていたから、多分霊安室か、解剖室か、手術室だろう。あるいはそのすべてを兼ねているのかもしれなかった。

隣の棺桶の中で、恐らく永遠の眠りについている女を覗き込む。もちろんリリではない。首元を触ってみる。「脈無し」だ。

外の様子は分からないが、おそらく朝だろう。冷気がうっすら肌を包んでいる。俺は寒さと薄気味悪さで身震いした。

 ふと、隅の棚に立てかけられた鏡が目に入った。それは金属を研磨して作った原始的な鏡で、所々歪んでいるものの、ちゃんと部屋の模様を反射させていた。傷の具合でも確かめるかと、鏡の前に立った。

 俺は思わず悲鳴を上げた。

 また例の、あいつだ。川の水面で見かけた、あの白猿。あいつが再び、鏡の中に写り込んでいたのだ。

 慌てて部屋を見渡すも、当然猿の影はなかった。猿人類の霊にでも、憑りつかれているのか知らん。俺は深呼吸し、心の準備を整えて再び鏡に向き直った。

 相も変わらず、そいつの顔は鏡に浮かんでいた。よく見ると、猿というよりは原始人に近い姿で、体の毛も思ったほど深くない。特に顔回りなど、光の加減によっては、目を細めて遠めに見れば、彫りの深いだけの人間とそう違いなかった。精悍な顔つきで、肉体などギリシア彫刻のように引き締まっている。霊にしては、いやに生命力に満ちているやつだ。苦笑いする。と、猿の方も口角を上げてみせた。

 嫌な予感がした。俺は恐る恐る右手を顎に向かって伸ばしてみた。すると猿の方も同時に、向かって右の手を顎に添えた。

 俺は呻いて目を閉じた。そして、見たくないと思いながらも両手を眼前に掲げ、瞼を開いた。

 俺の手は猿の毛皮に覆われていた。

 俺はがっくりと毛深い膝を床に付いた。なんとなく、勘付いてはいた。気づくのが遅すぎたくらいだ。随分と目まぐるしい状況の変化ではっきりとは意識していなかったが、どうもずっと身体に違和感があったのだ。

 どうやら樹海の魔法使いは、俺の魂の容れ物として、「猿の肉体」を選んだらしい。

 鍵の回る音がした。

「おはようございます、ましらくん」リリが和やかな調子で扉を開けてきた。「お加減いかがですか? 遺体安置室にノックして入るのは初めてですよ。……おや。どうしたんですか、打ちひしがれて。棺の寝心地がそんなに悪かったです?」

 たしかに寝心地は最悪だが……。

「いや、ね。ちょっと現実に打ちのめされていただけ……。まさか猿として生活する日が来るとは、思わなかったからな」

 首を傾げるリリに、俺は説明する。「前世では人間だったんだ」

「ああ、成る程……。それは興味深いですね。……あなたの世界には、野風(やふう)の方々は?」

「野風?」

「さっき、『猿』という言葉を使っていたでしょう。私達の世界では、今のあなたの種族のことを、猿族とか、『野風』と呼ぶんです」

「へえ」

 俺は改めて鏡をまじまじ見つめた。

「猿……は居たな。もう少し毛深くて、獣らしいけどね。それにこんな風に、言葉を話したりもしない」

「知性を持つ種族は、人間だけ?」

「そうだね」

 俺は答えて、肩を回す。

「……それにしても、ずいぶんと心地いいベッドだったよ。あまりにも肩凝りがひどくて、死後硬直が始まったかと思った」

「急拵えですから、何分(なにぶん)。しかし、何事も慣れですよ。慣れ」

「慣れるほど長く、ここへ寝泊まりさせる気なのか……?」

 リリはにっこりと笑って俺の質問を黙殺し、軽く肩に触れた。

「少し……、冷えててますねー」

 彼女は俺の腕に手を滑らせ、脈を測りながら言った。

「あなたが流れてきた川を見に行きますか? 少し歩きますが、体をほぐし、日の光で体を温めましょう」


 外には薄呆けた2つの太陽が、煌々と黄金の暈を広げていた。朝霧がようやっと晴れてきたところのようで、冷たく心地よい微風が流れていた。遠くに水晶宮のような光の山並みが見える。あれが昨晩迷い込んだ「硝子の樹海」だろう。間近で見ても壮麗な景色だったが、俯瞰で眺めると、表面にオーロラを塗り込めた氷塊のようだった。何にせよ非現実的な景色である。

「ああ、やっぱりここは、別天地なんだな」

 俺はしみじみと呟く。

「やはり違いますか」

「うん、一目でわかる。あの樹海もそうだが……」指さした俺の目の前を翅の生えた青いザリガニがすぅっと飛んでいく。「大概のものが」

 俺はリリの横について、澄み切った細い支流のほとりを歩いた。川の水は現世と特に変わらないように見える。水辺の生き物はさして相違ないのかと思った矢先、黒い鶏のような鳥が、ペンギンのようなフォームで泳いで来た。それに追い立てられるように、鱗でなく毛皮の生えた小魚たちが、目にも止まらぬ速さで遡上していく。

「すごい勢いだな。河の流れに逆らって、あんな速さで泳げるのか」

「あれは托卵性の魚類の一種ですね」

 興味深そうな俺の表情を見てか、リリが解説する。

「托卵魚は、外敵から身を守るために物凄い速さで泳ぐんですが、それ故に生まれたばかりの稚魚が()いていくことができないんです。それを補うための托卵、と、言われています」

「面白いな、俺のいた世界だと、托卵するのは鳥だった。郭公とかいうやつがいてね」

 俺は空を見上げた。「そういえば、あまり鳥を見かけない気がするが……」

と、灰色の影が目の前に急降下してきた。蝙蝠のような顔つきの、小型の翼竜めいた生き物だった。俺は思わず大声を出して飛びのいた。「あら」リリも少し驚いたように目を見張る。

 俺の叫び声に翼竜擬きは慌てた素振で飛び退った。近くの毬のような木の上に降り立ち、先程のザリガニ風の飛翔生物を咥えてバリバリと啄む。俺はバクバクと動悸する心臓を抑えながら、奇妙に伸びあがった姿勢をごまかすようにストレッチをするふりをした

「大丈夫ですか? びっくりしましたねー」

「え? あー、そういえばいたなー、何か。気づかなかったわ。体動かしてて気づかんかった、うん」

 木の枝に青い甲殻の破片が散らばる。こちらの樹木は幾らか現世の木に近い配色だったが、幹が存在せず、根を起点に放射状に延びたいくつもの枝が弧状にしなり、メレンゲのように大きな球体を形作っているのが特徴的だった。

「有翼竜はけっこう珍しい種なんですよ。鳥も捕食されないように大きいのがけっこういます。八咫烏とかね。小さい鳥は伝書鳩のように保護されているものも」

「まぁー、見るからに凶暴そうだものな、あの翼竜。……とって食われたりしないか?」

 俺は、いつでも木の毬に逃げ込めるように密かに腰を浮かせて、尋ねる。

「調教されていれば別ですが……、警戒心が強いので、人間や野風(やふう)を襲うことは稀です。さっきのはたまたま餌の通り道に我々が居たんでしょう。聴覚が敏感なので、大きな音を出せば逃げていきますよー」

 リリは静かに歩み寄って行って、突然ぱんと柏手を打った。翼竜擬きはびくっと体を震わせて飛んでいった。

「ね、怖くないでしょう?」

「意外と大人しい生き物なんだな」

 俺は内心胸を撫でおろす。

「ですねぇ。この辺で気を付ける必要があるとすれば……、あ」

 リリが俺の横の斜面に目を向けた。小さな地響きがする。振り向くと、木々の間を縫って、ヒトの背丈を上回る大きさのイガ栗のような無数の球体が、赤い枯葉を巻き上げて勢いよく転がってきたところだった。俺の頭は真っ白になった。

「わァ……、ぁ……!」

 俺はがむしゃらに手を打ち鳴らした。「それ万能じゃないですよ!」リリが慌てて俺の首根っこを掴んで藪に放り込んだ。俺たちのいた場所を球体が転がり去っていく。うち一つが突き出た岩に激突して、停止した。球体はむくむくと起き上がった。それはアルマジロのように体を丸めた小熊だった。ハリネズミのように毛皮が尖っており、黄色と灰色の縞模様が入っていた。

「こっちに来るだろうか?」

 藪に埋もれたまま尋ねる。木の上に腕を持たせかけたリリは俺の頭についた葉っぱを軽く払って答えた。

「草食動物ですから、危険はありませんよ……。ですが時々、今みたく回転移動に巻き込まれる事故が起こるので、気を付けてくださいね。この時期は冬眠前の大移動で、数も多いんですよ」

 俺は肝に銘じた。自動車みたいな連中だ。轢かれたらまたしても転生しかねない。

 少し歩いて、俺が流されてきたという大きな河川に辿り着いた。樹海を突き抜けて城下の南端を通過する長い川らしい。緩やかな流れだ。このまま下っていくと黒葉に覆われた広い森があり、その先に「人外魔境(スラム・フライデー)」と呼ばれる、猿族たちの集住する貧民街があるそうだ。

「仲間に入れてくれって言ったら住まわせてくれるかな?」

 ちょっと歩いただけでこの様だ。「悪い魔法使い」を捕まえるためには腕っぷしの強い仲間がいる。幸いというか怪我の功名というべきか、今の俺の肉体は猿のそれだ。彼らの協力を仰ぐことができるかもしれない。

「どうですかねー。ましらくんの体はちょっと『特殊』ですし……。向こうでは目立つかもしれませんね。それに彼らの『教義』にも合うかどうか……」

「? 『特殊』?」

「会ってみれば分かりますよ。それよりも、くれぐれも一人で『魔境(スラム)』に向かおうとしないでくださいね? 貧民街との境にある『烏羽玉(うばたま)の森』は、王都近郊の犯罪者を収容する監獄のある場所です。うっかり迷い込んだら、お縄ですよ」

 どうやらこの世界にも警察機構のようなものがあるらしい。俺はこの世界の異分子だ。官警に見つかったら、どういう扱いを受けるか分からない。未知の世界を闇雲に動き回る危険性は、もう理解したつもりだ。誓って一人では向かわないと、俺は宣誓した。

「それは結構。あなたの死体を解剖するのは、御免ですからねー」

 水面越しに反射する俺の顔を眺めて言いながら、リリは、くるりと踵を返した。「さて、そろそろ戻りましょうか」

「もうか?」

 まだ目的の川岸に着いたばかりだ。大した手掛かりがあるとも思わないが、自分がここに着いた時の状況を確かめておきたかった。

「約束があるんですよ」

 リリはこちらを振り返って悪戯っぽく微笑んだ。「警察隊の皆さんが来てるんです」


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