第二話 恋との約束により、愛にきたけもの。1-2
祝日という甘美な天使は去っていき、残るのは月曜日という微笑む悪魔だ。
ちなみに悪魔の顔は祐一で構成されていた。
昨日は好きなプロ野球の視聴を楽しむ予定だったのが、ゲーム機の本体まで持参して現れた祐一の意向で、結局はカンナを含めた三人で深夜まで遊んでいたのが原因か、弘樹は酷く疲れていた。
左右に身体を揺らすと、コキコキと良い音がなった。
時計の方向に目を向けると、まだ朝の六時である。
しかし今日はカンナが朝の日直だ。彼女は中等部の時も日直がある日には決まっていつもより早く弘樹の家に赴いていた。それは高等部になっても、どうやら変わらないらしい。
まだ寝ているというのにカンナは、
「――わん!」
というかけ声と共にガシッ! と、弘樹に突撃して抱きついてくる。こういう時は常に犬みたいなカンナであった。
「何やってんだお前! って! まだ六時半だろうが!」
「あたし、今日は朝の日直だよ! 一緒にきてくれる約束!」
「してねえ!」
――そして『ニャハハッ』と、人懐っこい笑顔を浮かべて必ずとぼけるのだ。カンナは。
「――イツツッ!」
突然、頭の芯に響く鈍痛が弘樹を襲う。
――それに何を言ってるんだ? カンナはそんなことをする奴じゃないのに……。
弘樹は頭を左右に振り、少し早いが階段を降りて洗面台に向かい、顔を洗うことにした。
ついでに歯磨きも済ましていると、チャイムが響く。急いで口をすすぎ洗面所から玄関に直行して覗き窓から覗くと、そこには黒と群青色で彩られたチェックのスカートに、胸元の薄い赤とキャラメル色の混ざったリボンが特徴の、御浜北学園の制服を着用している美剣カンナが立っていた。
透き通るような白い肌と美を追求して表現されたような整った目鼻立ち。さらにブロンドの鮮やかな長髪に、長く整えられた綺麗な睫。そして至極キラキラと輝いている――宝石のような碧色の瞳。
美人だ。男ならほぼ間違いなくという枠を超え、男女共に誰もが一度は振り向くような神々しいまでのオーラを放っていた。
急いで弘樹は玄関のドアを開けると、丁度カンナと見つめ合う形になる。
「ひ……!」
しばらくカンナは海のように澄んだ碧色の瞳をぱちくりさせていたが、非常に近い位置に弘樹の姿があるのを認識すると、猫のような俊敏な動作で彼から距離をとった刹那、二人の間の地面から大剣が突きだす。
「のわあ!」
慌てて弘樹が叫び声と共にあとずさった。
「ひっ、ヒロ……様……!」
一本の大剣を合図にして元々そこに刺さっていたかのように、カンナの体内から溢れでた神剣や神槍、神斧といったものが弘樹の家に同化、それにより中と外を神器で埋め尽くし、さながらファンタジーに存在する武器屋の風貌に弘樹は唖然となった。
「だっ、大丈夫ですヒロ様! わたくしの〝身体と心〟にヒロ様を傷つけるようなものは一切ありません! ど――どうかご安心を!」
「いや……、そんな心配はしてないから、とにかく武器をしまえよ」
「あ、ひゃい! 誠に申し訳ありません! ですが、おっ、落ち着くまでは、もう――自分では制御ができません!」
興奮して右目の『Σ.シグマ』と、左目の『Χ.キー』が鮮明に写ったカンナの両目を見れば、理由などわからなくとも弘樹は納得できた。
――彼女だけは違う。俺達とは異なる人種。選ばれた『人間』。
「じゃあ、落ち着け」
弘樹が放つ、たった四文字の言葉がカンナにとっては甘美な呪詛のように響き渡り、彼女の身体へと浸透していく。
「はい、仰せのままに」
当然のように、カンナは平静を取り戻した。
雲すらない晴天で、空が泣く様子は皆無だ。
両手の指と指を絡ませて、カンナが上目遣いで――うっとりと弘樹を見やる。
「ヒロ様、早朝から申し訳ありません。あの……今日はわたくし日直でして、朝食の支度を早めに……と、もしよろしければ、お家にあがらせて頂きたく――」
カンナの行動に弘樹もさすがに呆れてしまう。
「あのな、いくら家が隣だからって、日直の時まで朝飯をつくりにこなくてもいいんだけど…………」
「そんな……。わたくし、あの――今までの行為がもしヒロ様にとってご迷惑でしたら……その、申し訳ありませんでした……」
シュン……と、カンナがせつない顔をして、さらに頭までさげてそんなことを言うのだから、弘樹も軽々とは断れない。
「いや……、カンナさえ良ければ断る理由はないけどさ」
弘樹の了解を得た瞬間、カンナの顔に極上の笑顔がはじける。
「あっ、ありがとうございます!」
そのままカンナは、ダンサーのようにくるりくるりと優雅に踊りながら喜びを身体全体で表現していた。
そしてようやく抑えきれなかった喜びをどうにか鎮めると、カンナは早速、弘樹の朝食の準備に入った。
白米に味噌汁、それから玉子焼きに焼き鮭。味噌汁は弘樹の身体に考慮して減塩だが、昆布と煮干のダシがよく聞いていて実に美味い。彼には到底つくれない完璧な朝食だ。
結局その日も弘樹は日直のカンナにつき合い、一緒に登校するのであった。
カンナはよく弘樹の姿を、自分の顔を赤くしてポーッと眺めている。その顔は凄く幸せに満ちていた。
「うおっす!」
二人で登校していると、元気の良い声と共に祐一が現れた。
「ユウ! お前、登校するの三時間ほど早くないか?」
「三時間だったらさすがに遅刻ですから!」
弘樹のボケに、すかさず祐一が突っ込みを入れた。
カンナは弘樹と二人だけで登校がしたかったので、その光景に面白くない顔をしていたが、祐一は気づきながらも知らないふりをして口を開いた。
「いやー、今日は珍しく早起きしちまってさ。姉貴より早く起きるのなんて十年ぶりぐらいかもな。結構マジでな! そんでちんたら家でぼけっとしてるのもなんだかなーっと思って、ちっと早めに登校してみれば、お二人さんを発見ってところだ」
祐一が、この時間に登校している理由を簡潔に説明する。
「ってなわけで、おはようさん。ヒロ! それに……カンナ」
「ええ……。おはようございます。祐一さん」
祐一の説明の間カンナは指の先端を両手に合わせると、その全ての指を順番にくるくるとまわしていたが、彼から挨拶をされると普通に反応し、きちんと挨拶を交わした。
早起きの理由を聞いていた弘樹も、祐一に軽く手をふる。
「ああ、おはよう。って、さすがに葵はいないか?」
「んあー、もう起きてるとは思うけどな。さすがにまだ登校はしてねえだろ」
弘樹達と祐一が、お互い簡単な挨拶を済ませて一緒に歩き始めたが……。
「そうだった! マジ世界観が変わる問題を仕入れたんだった! お前にも教えてやるよヒロ!本当に世界が広く感じるようになるからさ!」
三人で歩いているのもつかの間、突然祐一は身体全体で思い出した事柄を表現し、テレビで仕入れた知識を披露する。
「んーこほん。俺はお前に赤、青、緑と三つの箱を用意した。お前はその三つの箱の中に一つだけ入ってる飴を当てなければならない! さあっ! 何色か選べ、ヒロ!」
「…………じゃあ赤で」
「わかった、赤だな。それじゃーお前は赤の箱を選んだ。んで、俺は大親友のお前だからこそ、青の箱を開けてやるんだ」
ここで祐一は、もったいぶって間をあけ――そして息を一回、大きく吸った。
「なんと青の箱には飴が入っていなかった! 残る箱は二つ! となると、どっちかに必ず飴はあるよな! そしてお前にもう一度――箱を選ばせてやるんだよ! 赤か!? 緑か!?」
祐一の鼻息が荒くなる。
「さあ、ここで問題! 果たして緑に選び直すか! または赤のままファイナルアンサーか!一体どちらの方が確率的に得になるんだ!? これはわからなーい!」
テンションが最高潮の祐一とは対照的に、弘樹はまったく考える仕草を見せず、一瞬で回答を導き出した。
「選び直した方が得だと思うけど、そのまま赤で良いよ。別に今は飴いらないし」
無関心な弘樹の回答に、祐一が大袈裟なリアクションをとる。
「ちょっとちょっとー! 奥さん、現代っ子だよ! この子凄まじく冷めた現代っ子だよ!」
「いや、そういうことじゃなくてさ。これ、モンティ・ホール問題って奴だろ」
「なっ! 俺がこの世に産声をあげて十五年! 今まで一切耳にしなかった言葉をお前はどこから――!?」
「祐一さん。あなたの頭の中では、どこにキャンディが入っていたのですか?」
そこでついに、カンナが冷静な横槍を入れた。
「えっ? あー赤……かな」
「じゃあ、ヒロ様の勝ちですね。それで満足でしょう、祐一さん」
「お……おう……」
さらにカンナは祐一に助言をする。
「それに補足しておきますと、あなたは〝必ず一回〟ヒロ様の選んでいない、尚且つ〝外れの箱〟を開けなければならない。そしてヒロ様がキャンディ入りの箱を選んでいた場合、あなたは〝等しい確率〟でキャンディの入っていない箱を一つ選ぶ。最初の前提として、この二つが明記されていなかったら、数学的には赤も緑も箱の確率は変わりませんよ」
「えっ? お、おう……?」
祐一が十秒ほど頭を抱えて唸っていた。
「それに……、もしヒロ様がキャンディをご所望でしたなら、わたくしはヒロ様がおっしゃった箱色の方にキャンディを移し替えます」
凍えるような畏怖の念を含んだ声が、その場を包んだ。
「うん……。せやな! 俺も飴ぐらい自分で買うし、どっちでも良いよな! さあ、学校にいこうぜ!」
どうやら祐一は思考を放棄したようだった。
「そういえば、カンナ」
「はい、なんでしょうか?」
弘樹はここで祐一と挨拶を交わした際に、カンナが指の先端を両手に合わせ、器用に全ての指を、くるくるとまわしていたことを問う。
「カンナがやってる、その指をくるくるまわしてるのって癖なのか?」
「――!」
一瞬目を見開いてカンナは驚くが、すぐに弘樹の質問に答える。
「あ……あの、これはですね。頭がよくなる……、とっておきの裏技です」
これは幼い頃、カンナと弘樹が一緒に遊んでいた時に、彼から頭がよくなると教えてもらった、とっておきの裏技である指の体操だ。
そしてカンナは、少なくとも彼女にだけは百万個の宝石よりも価値がある、この指の体操を以後ずっと続けていた。
「うおっ! なんだこれ!? 結構むずかしいじゃねえか! 薬指と小指が一緒に動くぞ!」
弘樹とカンナの会話を聞いていた祐一が、さっそく試していた。
祐一が楽しそうにやる姿を見て、弘樹も挑戦してみることにしたが、これが中々に難しい。
親指から中指までは楽にクリアできたが、やはり薬指がやっかいで、薬指をまわそうとすると小指までもが動いてしまうのだ。
「ええと……こういう感じです。ヒロ様」
弘樹が苦戦するような姿を注視していたカンナは――もう一度、指の形をまったく崩さず器用に、薬指だけをまわして見せた。
カンナの手本を見ながら頑張って続けていると、ついには彼女が弘樹の指に直接ふれて指導をしてくれる。
「あの、こういうふうに……。えっ!? あっ! その……申し訳ありません。ついお手を……」
カンナは弘樹の手を離すと慌てて謝りだすが、彼にはその意味がよくわからなかったので、そのまま彼女に教えてもらおうと口を開いた。
「本当に難しいんだな。カンナ、よかったら教えてくれないか?」
「――!」
弘樹のこの言葉にカンナは顔を桃のように染めて、彼の要望に応える。
「わたくしなどでよかったら! あ、あの……それではお手を拝借させていただきます」
おずおずといった感じでカンナは、弘樹の手をとりながらコツを教えてくれた。
弘樹は飲み込みが早いらしく、案外すぐにできるようになった。
またカンナも弘樹が薬指を単独でまわせるようになると、まるで自分のことのように喜んでくれる。
「凄いですヒロ様! さすがです!」
「そうか? でもこれって、慣れると頭に刺激がくる感じがして良いな」
その弘樹の言葉にカンナも、フランス人形のような顔が極上の笑顔によって、その輝きをさらに増すのであった。
「はい! それにヒロ様の手。大きくて、温かいです……。わたくし――今日は幸せです」
「……………………」
弘樹とカンナのラブラブなシーンを見せつけられて、もう一寸たりとも二人の輪に入り込めない祐一だった。