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Fall(2)

 その異変が起きたのは、リックが謝った正にその時であった。先頭を行く荷馬車から人の悲鳴が聞こえたのだ。

「――ッ!」

 その悲鳴は段々と、リックのいる荷馬車へと――最後尾の荷馬車へと近づいていった。スラムの人間たちは皆一様に肩を震わせ、怯えきっていた。だがリックは怯えると同時に、不思議なことに気がついた。

 それ自体はっきりと聞き取れるのに、悲鳴は一つしか聞こえてこなかったのだ。

 風を切るような音が聞こえて、考え込んでいたリックが顔を上げる。その視界に、馬に座っていた御者が横から来た何かに吹き飛ばされていくのが見えた。

 馬と荷台の間に降り立つようにして、驚きのあまり唖然としている人間たちの前に突如やって来た『それ』――頭からフードつきの茶色いローブをすっぽりと被った、人間の形をした『それ』は、間髪入れずに片手を振り下ろして馬と荷台を繋ぐロープを切断した。刃物を使ったようには見えなかった。制御を失った馬が何処かへと駆けていく。

「行け」

 シュルシュルと何かを巻き取る音をローブの中から立てながら、『それ』が目の前の人間たちに促す。

「ここから西に行った所に小さな町がある。差別のない安全な所だ。早く行け!」

 急かすようなその言葉を受け、突然の展開を前に停止していた脳にスイッチが入る。スラムの人間たちは皆一様に荷台から飛び降りて、言われた通り西へと逃げ去っていった。

 やがて全ての人間が消え去った後も、リックは逃げなかった。たった一人でその場に座ったまま、じっと『それ』を見つめていた。その声に聞き覚えがあったからだ。

「お前は行かないのか?」

「行かないよ。君を置いて行けるわけない」

「……やっぱりわかるのか」

「わかるよミーア。声だけでわかる」

 目に涙を浮かべながらリックが最愛の人の名前を呼ぶ。だがミーアと呼ばれた『それ』がローブ越しに手前に突き出し、近づこうとするリックを制する。

「え、どうしたの?」

「いや、その、その前に……見てほしい物があるんだ。とても大切なことだ」

「?」

「……驚かないでくれよ」

「う、うん」

 やけに神妙に呟いた『それ』の言葉に、リックが気圧されるように頷く。そして『それ』が意を決したようにローブを脱ぎ捨てる。

 姿を露わにした『それ』を見て、リックが息をのんだ。

「それって……!」

「……ごめん」


 異形だった。ミーアの形をした異形だった。

 浅黒く染まった肌。色素の抜け落ちた長い髪。尖った耳。金色に光る瞳。袖の長い真っ赤な革製の服に足首まで覆う赤のフレアスカート。そして服の右袖は肩口から破け、スカートの右側にも腰まで届く深いスリットがあったが、それには理由があった。

 本来生えているべき右腕と右足のかわりに、肩口からは指二本を横に並べたくらいの太さを持つ触手が五本、股関節の辺りからは腕程の太さを持った触手が何本も、から絡み合うようにしてそれぞれ生えていたのだった。そしてそれらは一本一本が自我を持つかのように、絡み合う中で不気味に蠢いていた。そして左手には、背中から生えた何十本もの触手が蔦のように絡んでいた。

「今の所は、体半分で許してくれた」

 右手の代わりに生えている触手たちを左手で撫でながら、ミーア――だったものが自虐的に笑う。

「ローパー、って言うらしい。これ」

「うそ……それ……」

「ああ……魔物になった。正確には合体した、という所か。これ自体に意識は無いって、あいつは言ってたけど」

 いずれ完全に同化する。その魔物の言葉を聞いて、熱に浮かされたようにリックが荷台から降りる。両目は目の前の魔物を凝視していたが、口は何を言ったらいいかわからない風で半開きのまま硬直していた。

 魔物は今すぐにでも逃げ出したかった。大好きなリックに、これ以上自分の醜い姿を曝け出したくは無かった。

「もうちょっとマシな格好になるかと思ったんだけどさ、実際はこの様だよ。酷い話だよな」

 右腕を形成していた触手を解き、宙に浮かせたそれを蛇のようにくねらせる。そして威嚇するように先端をリックに向けながら、物悲しげにその魔物が言った。

「……嫌だよね。好きな人がこんな化け物になっちゃったら。こんな汚らしい姿になっちゃったらさ……」

「ミーア……」

「嫌なら嫌って、言ってもいいんだからな?私はただ、お前を助けたかっただけなんだ」

 同情なんていらない。魔物が笑う。涙を流しながら、無理やり笑顔を作り出す。悲壮な決意に満ちた、痛ましい微笑み。それを目の当たりにした時、いや、彼女に出会ったその時から、リックの肚は決まっていた。

「お、おい」

 リックが一歩、前に踏み出す。意志と覚悟を以て、しっかりと大地を踏みしめる。その迷いのない一歩に、思わず魔物が怯み上がる。

「待て。ちゃんと考えるんだ」

「逃げないで」

 一歩。また一歩。曇りのない眼で魔物の姿を捉えながら、リックがぐんぐん距離を縮めていく。

「いいのか?本当にいいのか?」

 来ないでくれ。魔物が後ずさる。

 ふざけるな。リックが躊躇うことなく距離を詰める。

 やがてリックが魔物の真正面に立つ。魔物はもう後退することを諦めていた。リックの眼差しが魔物の目に突き刺さる。

「ミーア」

 呼びかけると同時に、最後の一歩を踏み出す。

「――ッ!」

 次の瞬間、リックは魔物を抱きしめていた。体を歓喜で震わせながら、しっかりとその体を抱きしめる。

「リック……」

「良かった……また会えた……また……」

 胸元に顔を押し付け、すすり泣く声でリックが呟く。どうしていいかわからず、両手を宙に浮かせたままの状態で魔物が言った。

「本当に、嫌じゃないのか?」

「ぐす……どうして?」

「……私は、魔物なんだぞ?」

 顔を上げて、涙で腫れた目でまっすぐ魔物を見つめながらリックが言った。

「君はミィちゃんだよ」

「!」

「僕の大好きなミィちゃん」

「――リック!」

 溜め込んでいた感情が爆発する。全ての触手をその背中に巻きつけるようにして、ミーアがリックを全力で抱きしめる。リックはそれを拒絶しなかった。後頭部、首筋、背中、腕や足に次々と絡みつく触手を前に、彼は微動だにしなかった。それがミーアには嬉しくて、ますます強くリックを抱きしめていった。

「リック!ありがとう!リック!」

「ミーア……ミーア!ミーア!」

 これまで言えなかった分を全て清算していくように、二人は抱き合ったまま、狂ったように互いの名前を叫び合う。

 もう離れない。どこまでも一緒。

 それを体現するように、やがて二人の影は一つに重なっていった。

 もう彼らの恋路を邪魔する者は誰も居ない。

 愛が成就した瞬間であった。


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