二重生活
「……いってらっしゃい、パパ」
そう言って、お気に入りのピンク色のランドセルを背負った愛娘が、隆の腰に抱きつく。
隆はどこにでもある、絵に描いたような「幸せな父親」の顔で微笑み、その頭を撫でていた。
――その様子を、私はスマートフォンに映る、彼の妻のSNSアカウント越しに眺めている。
午前六時:日影薫としての「泥」
カチリ。
安ライターの火が、今日も私の指先を熱く焦がす。
吐き出した煙の向こうで、六畳間の「地層」は、あの日から何一つ変わっていない。腐りかけたコンビニ容器も、カビ臭い万年床も。
ただ一つだけ、劇的に変わってしまったもの。
それは、私の身体だ。
「……はぁ」
ため息をつきながら、私はスウェットの首元から手を差し入れ、自分の胸元に触れる。
そこにあるのは、ゴツゴツとした男の、45歳の枯れかけた皮膚だ。無精髭を撫でれば、チクチクとした不快な感触が手のひらに戻ってくる。
だが、その皮膚のすぐ下で、何かが(・・・)脈打っている。
熱く、甘く、どろどろとした魔性の血が、私の意志で解き放たれるその瞬間を、今か今かと待ち侘びている。
「……隆」
あの日、私の目の前で、魂を抜かれた抜け殻のように膝をついた親友。
彼は今、何もなかったかのように「日常」に戻っている。
私がそう望んだからだ。私の声で、「このことは全部夢だった。お前はただ、薫に会いに行き、留守だったから帰っただけだ」と囁いたから。
彼は私の都合の良い「家畜」であり、同時に、私の美しさを現実世界で証明するための「生け贄」だ。
彼がSNSに「家族の幸せ」を投稿するたび、私の喉の奥がヒリヒリと狂おしく疼く。
(……もっと、壊してやりたい)
(その綺麗な家庭も、お前のまっとうな理性も、私の指先一つでドロドロに溶かしてあげられるのに)
そう思うだけで、昼間の、この薄汚れた男の肉体すらも、甘美な「前奏曲」のように思えてくるから不思議だ。
窓の外が、じわじわと血のような夕陽に染まり始める。
この時間になると、私の身体の中で「変化」の予兆がパチパチと音を立てて鳴り響く。
骨が軋み、肉が融解を始める合図だ。
私は、あの日から勝手に、しかし確実に私と世界を繋ぐようになった配信用PCの前に座る。
ネットの向こうでは、すでに無数の「飢えた獣たち」が、私の登場を待っている。
あの突撃配信者がどうなったかって?
あの日、私の部屋を覗こうとした彼のスマートフォンは、私の「姿」を映した瞬間に爆発的なアクセスを記録した。そして、彼は今、私の熱狂的な信者の一人として、狂ったようにスパチャを投げ続けている。
「……さあ、今日も始めようか」
私は、スマートフォンのインカメラを起動した。
液晶画面に映る、45歳の醜い男の顔。
それが、夕闇の訪れとともに、ゆっくりと「反転」していく。
「――こんばんは、私の可愛い迷子たち(フォロワー)」
スピーカーから響くのは、鼓膜を直接、甘い毒で濡らすような少女の声。
漆黒の髪。毛先に滲む、妖艶な紫。
額から生えた、夜を切り裂く一対の角。
そして、すべてを視線だけで従わせる、ルビーの瞳。
日影薫の残骸は消え失せ、そこには魔性の美少女「カルロッテ」が佇んでいる。
「今日も、私のために、たくさん『絶望』を溜めてきてくれた?」
カメラの向こうで、コメント欄が、狂気的な速度で流れ始める。
『カルロッテ様……! 今日も美しい……!』
『俺の人生、全部あなたに捧げます』
『声を聞くだけで頭がおかしくなりそう』
『あの、伝説の変態ニートを特定しようとしてた配信、あれカルロッテ様が仕組んだ神演出だったんですね!』
「ふふ……」
私は、陶器のような白い指先で、画面を愛撫するようになぞる。
彼らは何も知らない。
彼らが狂信的に崇拝し、性的な視線を浴びせ、金を貢いでいるこの「究極の美少女」の正体が、彼らが一番見下し、嘲笑っていた「45歳の引きこもりニート」の中身そのものであるということを。
この歪んだ優越感。
かつて私を地獄へ突き落とした「視線」が、今は私の肉体を形作る血肉となり、魔力へと変換されていく。
「ねえ、そこのあなた」
私は画面をじっと見つめ、一人のアカウント名を呼ぶ。
それは、かつて中学時代、私の頭に「雨」を降らせた主犯格の男に、よく似たアイコンだった。
「私だけを見て。私以外の光を、全部忘れてしまいなさい」
画面の向こうで、男が、魂を差し出す音が聞こえた気がした。
昼は、世界から見捨てられた影として這いずり回り。
夜は、世界を足元に跪かせる光として君臨する。
「……あは。本当に、最高の人生だわ」
カルロッテの赤い唇から、一筋の甘い、銀色の唾液がこぼれ落ちた。




