7−34 バラ色の息吹
緋色の髪をなびかせながら、上機嫌でご帰還された女帝の様子に……ハンスは物足りなさを感じていた。
彼女の機嫌がいいということは、八つ当たりをしてもらえないということであり、彼の中にある「虐めて欲しい」という、歪んだ願望を満たしてもらうことができなくなってしまう。
ハンス自身は色欲の悪魔の中でも、ナンバー2で通ってはいるものの。……彼らの序列は純粋な悪魔としての実力ではなく、アスモデウスの寵愛を得ているか否かで決まっているだけだったりする。それはハンスにしてみれば、いつでも簡単に序列が崩れてしまう不安が常に付きまとうということであり、上級悪魔として認識されているとは言え……他の上級悪魔と比較したら弱い部類に入る彼にとって、アスモデウスの八つ当たりを一身に受けるのは、またとない「アピール」の機会に他ならない。故に、彼女の機嫌がいいのは、ハンスにとって最大の不安材料でしかないのだ。
しかも、今日はあろうことか、真っ先に彼女を出迎えたジェイドに女帝様の話し相手役を取られてしまった。ほんのちょっと、出遅れただけなのに。その差で生まれるジェラシーは、計り知れないものがある。
「フフ、そうなのよ。マモンも天使ちゃんに骨抜きにされちゃったみたいで。もぅ、あいつの必死さったらなかったわ。あぁ……本当、面白かった」
「ヘェ〜、そりゃまた、随分と旨味のある内容ですね。あのマモン様が……アハ! 確かに、面白いっすね」
「でしょう? しっかも、マモンったら、冗談抜きで純情だったりするんだから〜。どうしたら天使ちゃんが他の奴に取られずに済むか、超真剣に悩んでいたみたいよ? 予防線になるかもって、ベルゼブブにマリッジリングまで作ってもらっちゃったりして〜。そんな事しても何にもならないし、ちょっとはつまみ食いされてもいいでしょうに」
リッテルを「つまみ食い」されるのが嫌だから、マモンは深く悩んでいたのだが。堕落的な恋愛脳の持ち主であるアスモデウスにとって、マモンの憂慮は瑣末な事にしかならない。
「ま、天使ちゃんは確かに、魔界では激レアだものね〜。しかも彼女、回復魔法を使えるらしいわよ? ……私も怪我したりしたら、治してもらおうかしら」
「あ、そうなんすか? 俺達は傷の治りも遅いし、それは利用価値もありそうっすね」
「そうそう、そうなのよ。超美人の優しい天使ちゃんに傷を癒してもらえるなーんて、魔界中に言いふらしたら……マモン、困るかしら? ウッフフフフフ……! まぁ〜、いいわね。それ、とっても楽しそう! あいつの苦労が目に浮かぶようだわ!」
かなり迷惑な内容を事も無げに、「楽しそう」だけで片付けた挙句に……愉快そうに腹を抱えて高笑いする女帝の様子が、ハンスにはとにかく不愉快でしかなかった。もちろん、ハンスの不愉快は何よりも愛するアスモデウスに対してではない。彼女の上機嫌を作る愉快な話題を提供しているマモンと、彼が囲っているらしい天使に対してだ。
「あ、そうそう。ハンス!」
「は、はい! 何でございましょう?」
「近いうちに、真祖の悪魔同士で会合を開くことになったの。ルシファーが神界に帰ったとかで、玉座が空っぽになっているんですって。私は空っぽなら、それはそれでいいと思うんだけど。一応、ちゃんと話し合わないとなんて、珍しくベルゼブブが言ってて。正式に日取りが決まったら、手紙を出すなんて聞いたのよ。で……久しぶりの会合なワケだし、お供を侍らせておかないと、格好がつかないでしょ? だから、お前を連れて行くことにするわ。いいこと? 何が何でも、私のために予定を空けておきなさいよ?」
「もっ、勿論です! 私はあなた様の忠実なる僕! 他の何を差し置いてでも、お供いたします!」
「フフ、やっぱりお前はよく分かっているわね。それでこそ……私のナンバー2だわ」
先ほどまでは蚊帳の外だと思って、つまらなさそうな顔をしていたのに。存外のお言葉をかけられて、ハンスの整った顔が喜びに赤く染まった。そうして彼女の足元に跪くと、恭しく彼女の靴に口付けをして……絶対服従の意志を、ハンスが改めて示して見せる。そんな聞き分けのいいナンバー2の様子を、満足そうに見下した表情で見つめるアスモデウス。
まだ昼だというのに……彼らの周囲の空気は、シットリとバラ色の息吹を纏い始めていた。




