6−37 サインをくれ
天使長の前に積まれた、8冊の「呪いの書」。先程までの始まりの物語を前にして、あからさまに場違いとしか思えない、青い瓦礫と見まごう物体に……いよいよ目眩がするのに抗い、とりあえず存在理由を尋ねてみる。
「そう言えば……何故、この小説がここにあるのでしょうか。こちらは、ルシフェル様のお目汚しになる気がしてならないのですが」
「えぇ〜? そんな事ないよ? 人間界の状態も、これを読んでもらえれば一発じゃない。ルシエルは例の“精霊化計画”についてかなり深入りしているんだし。愛のロンギヌスシリーズは、ルシエルの活動をまとめたものでもあるんだよ? 一応、さっき大まかな状態はルシフェル様に説明したんだけど。それに加えて……ここまで詳細な報告書があるんだから、読んでもらわない手はないって〜」
いつもの調子に戻ったミシェル様がカラリと仰る。その様子に……図らずとも、彼女を励ました事を後悔している自分がいた。
「ふむ……『あなたの肩に愛を預けて』までは読んだのだが。正直、かなり興味をそそられるものがある。この調子だと、あと5冊を読み切るのもあっという間だろう。……内容もだが、文章も中々よくできている。しかも、きちんと要点が抑えられているのだから、確かにこれ以上の報告書はないと思うぞ。……作者のマディエルにも、よろしく伝えておいてくれ」
「えぇ、かしこまりました。……さっきのお話があったばかりで申し訳ないのですけれど、私達がこうして協力し合えるようになったのも、きっかけはこの小説だったんです。そういう意味では、ルシエルの素敵な旦那様には感謝してもしきれないくらいだわ」
「……い、いえ……」
そんな風にラミュエル様は仰るが……。殊の外、小説を気に入ってしまったらしいルシフェル様の反応に、もはや不安しかない。先ほど「サインをくれ」と小説を寄越したのは……そういう理由だったのだと、恐ろしいほどに確信した。
「そうだぞ、ルシエル。お前の旦那様はこれ以上ないくらいに、素晴らしいお方なのだぞ!」
「ほぅ? そうなのか?」
オーディエル様まで、更にそんな事を言い出すものだから……益々、興味をそそられたらしいルシフェル様が目を丸くしている。
「はい。ハーヴェン様はルシエルを通じて、常々私達に惜しみない協力を下さるのです。……今日も彼の助力があって無事、魔界訪問の帰途に着けたのですが……そうそう、そう言えば! ラミュエルに、ミシェル! 私は今日、ハーヴェン様と手を繋いでいただいたぞ!」
「えっ、オーディエル、何それ⁉︎ どういう事⁉︎」
後半から妙な流れに行き着いたオーディエル様の言葉に、ミシェル様が前のめりになって食いつく。どうして……ハーヴェン絡みになると、いつも話が変な方向に逸れるのだろう。
「うむ。迷子になったらいけないからと、ルシエル了承の上で人差し指をお借りできてな。あちらのお姿のハーヴェン様は逞しさはもちろんだが、極上のベルベットのようにスベスベな毛皮で覆われ……しかも、指先には綺麗なピンクの肉球まで付いていて! あぁ、その握り心地たるや! 夢のようだった‼︎」
「オーディエル、超ズルイ! ボクもハーヴェン様の指ニギニギしたい! 肉球プニプニしたいぃ‼︎」
「私も……。あぁ、分かっていたこととは言え、お留守番するんじゃなかったわ……」
大天使様3名が先ほどの湿った空気を吹き飛ばすかのように、ハーヴェンの毛皮の話で盛り上がる。確かに、あっちのハーヴェンは肉球がかなりの癒しポイントだとは思うが。この状況で……そんな事で盛り上がったりしたら、ルシフェル様が黙っていない気がする。
「ウググ……お前ら、いい加減にしろ!」
(あ、やっぱり……)
「あっちのお姿って、どういう意味だ⁉︎ 私は若造のあの姿しか知らんぞ⁉︎」
(……はい?)
「ハーヴェン様は普段、人間のお姿で生活していらっしゃるのです。それはもう、超イケメンで! しっかも、優しくてお料理上手で! そんな素敵な旦那様を、ルシエルは人間界のお屋敷で独り占めにしているのです!」
ラミュエル様が明らかに誤解を与える受け答えをしている。イケメンも何も……あの顔立ちはハーヴェンが「ハール・ローヴェン」だった時のものらしい。だから、あちら側の方が元の姿になると思うのだが……。
「……料理上手?」
「昨晩、私達3人もハーヴェン様のお夕食を頂いて来まして。どれも涙が出るくらいに美味しくて、とても幸せな時間だったんですよ!」
その言葉を聞き終わった後、妙に真剣な顔をしたルシフェル様がこちらに向き直る。物凄く……不吉な予感がする。
「……ルシエル」
「は、はい……」
「さっきのサインの件だが。直接……若造に受け取りに行くぞ」
「え、あぁ……それは構いませんが……」
「それで、今晩は夕食も頂くぞ。異論はないな?」
やはり、そうなるよな。しかも、明らかに「No」は許さないとでもいうような勢いだ。
「……最近は食事も多めに作っていると言っていましたし……。大丈夫だと思います……」
「そうか! ならば、今日はそちらに参るぞ! いいな⁉︎」
「……かしこまりました。でしたら、あちらは今頃……夕食時でしょう。そろそろ、帰った方が良いかと」
「ふむ。ならば、今日はこの位にするか……。そういう事で、私はルシエルと一緒に人間界に行ってくる! 戻ったらキッチリお前達を絞る故、覚悟しておけ!」
最後に大天使様3名に釘を刺しつつ、妙に嬉しそうにしているルシフェル様に、不穏な空気を感じずにいられない。まさか、あの小説が……天使長にまで呪いをかけるほどの威力だとは、思いもしなかった。