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氷の城  作者: 壱百苑ライタ
12/14

天守(ドンジョン)

十三、天守ドンジョン


 アヴニールは聖水が零れないよう、その両手でしっかりとコップを持ちながらゆっくりと、細心の注意を払って螺旋階段へと向かっていた。

 その横を、パッセもまた慎重に歩く。アヴニールがよろけそうになればパッセが支え、先に行って扉を開き、二人は協力しながら聖水を持って、無事螺旋階段まで辿り着いた。

「まだ僕たちが行ってないのは、この上だけだ」

「そこに、“あいつ”は居るのかな」

「恐らく、此処に居る。それに“あいつ”は貴方を探している。必ず姿を現す筈だよ」

 言ってパッセは螺旋階段へと一歩踏み出した。それから「気をつけて」とアヴニールを先導し、一段一段、慎重に階段を登っていく。

一段、また一段と。

 しかし不思議なことに、いくら登っても何故か出口が見えて来ない。

「ねぇ、パッセ」

「気づいてるよ」

 アヴニールはパッセを見上げた。パッセは、何時に無い険しい顔で頬に一筋汗をかいていた。やはり、出口がなくなっているのだ。

「どうしよう」

 こんな場所で閉じ込められては、思わずアヴニールが俯いた、その視界に。

「…………っっ!」

 自分たちが居る螺旋の反対側、其処に確かに黒い影が通ったのをアヴニールは見た。

「見つけた!!!」

「え!?」

 アヴニールの叫びにパッセも急いでその視線を追う。

 そのパッセを見上げたアヴニールの視界、今度は螺旋階段の遥か頭上に、其の影が移動するのが見えた。

「違う、上!」

「え!?」

 しかし、パッセが見上げたときにはその黒い影はやはりもういなくなってしまっていた。

「くそうあの野郎っ………まるであの黒い害虫のようにちょこまかとぉ………!」

「アヴニール、顔が怖いから」

 積年の恨みから尋常でなく顔に皺を結集させたアヴニールの顔を見てパッセは真顔で言った。

「とにかく、あいつは居たんだね?」

「うん、階段をうろちょろしているみたい」

「仕方ない………追い詰めよう!」

 言うとパッセは急に服の袖口を破ると、アヴニールの持っていたコップの開いた口をその布で覆いぎゅっと縛りつけた。

「それは気休め、無いよりはあった方が動ける筈だよね。それじゃあ僕は上、アヴニールは下に移動しよう。そこから二人で此処に向かって歩いて来るんだ。そうすればどちらかが追い詰められるし、現れたら叫んでお互いに知らせる、てのはどう?」

 パッセの提案にアヴニールは頷いた。今二人で一緒に居ても、先程と同じようにおちょくられるだけだ。ならば二手に分かれた方が恐らく捕まえられる。それに、あいつの狙いはアヴニールなのだ。万が一にも危険になるのは自分だ、アヴニールはそれならとパッセの作戦に賛成する。

「よし、それじゃあ行こう!」

 そしてアヴニールは下へ、パッセは上へその声と同時に歩き出した。

 下へ下へ、螺旋階段を下って行く。しかし、どこまで行っても螺旋階段の終わりは見えてこなかった。やはりこの中に閉じ込められてしまったらしい。しかしアヴニールはこの程度ではもう驚きも焦りもしない。この城では、何が起こるか、分からないのだから。

「パッセー!切りが無いからそろそろ上に登るわよー!」

 アヴニールは適当な所まで降りると、上に居るであろうパッセに有りっ丈の大声で言った。

 しかし、しばらく待ってもパッセからの返事が、無い。

「パッセー!?」

 嫌な予感がした。アヴニールはその場に立ち止まりもう一度呼びかける。しかしやはり返事は無い。

 彼は上に登った筈だ、聞こえているなら、返事が返せる状況ならば、返事が無いのは絶対におかしい。

 アヴニールの心臓が嫌な予感に早鐘を打ち始める。

「パッセ! 返事をして! お願い!」

 しかし反響するのは自分の声ばかりで、パッセの声はやはり聞こえてはこなかった。

 アヴニールは走り出す。勿論、コップを持っているからそう早くは走れないが、それでも精一杯走った。

 息が切れる。足が少しずつ重くなってくる。足を引きずるような思いで登り続けた。

 それでも、登っても登ってもパッセはいない。

 やられた。とにかく、“奴”にやられたのだ。

 そう思った瞬間、アヴニールの心に急に不安が押し寄せてきた。隔離されただけならまだいいだろう。けれどももし、万が一にも、パッセが襲われていたら。

 そう思っただけでぞっとして体が震えた。しかし、自分が最後に対峙した奴はまるで“憎悪”の塊だった。それを思うと、けっして有り得ない話ではない。

 どうすれば、いい?

 アヴニールははっとした。それからカップを片手で持ち直し、空いた方の片手で胸の中の十字架を取り出す。

 気休めだけれど、今はやってみるしかない。

「お願い、パッセは何処なの!?」

 十字架を握り締め、祈る。強く強く祈る。此処が奴が作り出した幻想なら、この十字架で破れるかもしれない。

「お願い十字架、私をパッセの所に連れて行って!!!!」

 アヴニールが、そう力の限り叫んだ瞬間だった。

 目の前の世界が揺らぐ。まるでカーテンが落ちるように、自分が見ていた世界は落ちていき、その奥に同じような世界が広がる。そして自分が見ていた景色が全て消え去った、そこに。

「………っっ」

 奴は、居た。

 目の前に、居る。

 そして奴の背後に仰向けに倒れているパッセの姿を見止め、アヴニールから血の気が一瞬で引いた。

「パッセ!?」

 駆け寄ろうとしたが、それは誰でもない奴によって阻まれる。

 ただの闇だったそれは、少しずつ少しずつ形を成し始めていた。

「パッセに何をしたの!?」

 闇は人の形を成していく。やがてそれは少しずつ少しずつ見覚えのある形を細かく細かく形成する。

 それはまるで、アヴニールそのもの。

「………っ」

『 奴は邪魔だから、殺した 』

「………え?」

『 もう死んでいる、一足遅かったようだな 』

 頭の中で直接語りかけているような声だった。誰の声とも付かぬぼんやりとした声が反響する。

「何を、言ってるの………? 意味が分からない」

 アヴニールは言いながら手が震えていた。背後のパッセは動かない。ピクリとも、動かないのだ。

「パッセ! 起きて! 奴を追い詰めたわ! 早く起きて!」

 アヴニールは叫んだ。そして縋るようにパッセを見つめる。けれどもパッセは動かない。アヴニールはその光景に信じられないように顔を歪める。

「パッセ!!!!!!」

 アヴニールのその絶叫は、螺旋階段に響き渡った。

『 あはは、滑稽だな。別にいいじゃないか、あいつはもともと死んでいたんだ 』

 力ない瞳でアヴニールは奴を見つめた。そして眉を寄せる。それこそ、一体何を言っているのか分からないのだ。

 理解に苦しむことを、奴は言っている。

『 どうせあれはお前が作り出した幻想だ。本物はとっくに死んでいるじゃないか。まだ分からないのか? 』

 奴がずるりと、近づく。

 アヴニールはそんな“奴”をただ見つめていた。その表情は、まるで絶望を貼り付けたような恨みがましい恐ろしい形相をしている。

『 さぁ、私を受け入れる時が来た。呑み込んでやるから、その十字架と聖水を置いてこちらにおいで 』

 闇が手を広げる。

 しかしアヴニールはそんな言葉は聞こえていないように、ぼうっと自分の手を見つめた。

 右手には聖水。

 左手には十字架。

『 さぁ、おいで 』

 奴の言葉はさっぱり分からない。けれどもこの胸にある奴への憎悪だけはハッキリとしている。

 殺してやる。

 アヴニールはコップを握り締める。

 絶対に、殺してやる。

「殺してやる!!!!」

 アヴニールが叫ぶ。

 その叫びと共に、目の前にあったパッセの体がまるで宙に散っていくように、消えた。

「パッセ!?」

『 あはは、愉快だね。消えてしまったね 』

 闇は笑う。本当に楽しそうに笑う。

『 君の心が闇に染まれば、奴はこの世界に存在出来ない。あはは、実に愉快だ 』

「お前………っっ」

 アヴニールは闇を睨み付けた。その姿形は自分そのもの。まるで鏡の前に立ったように、自分自身が其処には居た。

「笑うな………」

 闇は笑っている。

「笑うな!!」

 自分が、笑っている。

「笑うなぁぁ!」

 絹を裂くような悲鳴を上げて、アヴニールは持っていた聖水を闇に向かってぶちまけた。だが、しかし。

 その水はただ奴の足元にびしゃりと散っただけで、肝心の奴は何とも無さそうに先程と変わらず笑っている。

「嘘………どうして………?」

 ずるり、奴がまた一歩アヴニールに近づく。

 アヴニールは後ずさった。

 瞬間、アヴニールの足が空を切る。

「あ」

 アヴニールは階段を踏み外し其の体はバランスを崩し背後へと投げ出された。

 体が宙に浮く。

アヴニールは無意識に何かを掴もうと両手を伸ばしていた。

 けれどもその両手は何も掴めない。

そして其の侭成す術も無く、アヴニールの体は階段を下へと落ちていく。




 雪の降る中、パッセとアヴニールは葬列に並んでいた。

 アヴニールが教える学び舎の、パッセとよく遊んでいた子供が流行病で亡くなったのだ。

 アヴニールは自分の横で泣きじゃくるパッセを心配そうに見つめた。

 まさか、うつってなどいないだろうか。

 万が一にも、うつってしまっていたら、どうしよう。

かつての友人にすがり付いて泣こうとしたパッセをアヴニールは必死で止めた。其の日は五月蝿いほどに手を洗わせ、遂にはその友人に関わるもの全て燃やした。

絶対にパッセに病気をうつすものか、アヴニールはただただその一心で、何もかもを燃やしていった。パッセがいくら泣いて喚いても、一切聞き耳など持たずに。

其の事にパッセは酷くショックを受け、そして二人は初めて本気で喧嘩をした。しかし一向に自分の言うことを聞き入れてはくれないアヴニールに、パッセは今まで見たこともない表情でアヴニールを睨み付けると、其の侭黙って家を出て行ってしまった。

一晩中、アヴニールはパッセを探した。けれど見つからない。寒い冬の日だった、コートも着ないで外に出て行ったパッセを、アヴニールは必死で探し続けた。

探し続けて、漸く見つけたパッセは友人の墓に倒れこむようにして、苦しげに息をしていた。

心臓が、止まるかと思ったのだ。

アヴニールはパッセを急いで抱き上げると、息がどれだけ切れようとも、冷たい空気で肺がどれだけ痛もうとも、何もかも構わず、家まで走り続けた。

家に着き、急いで布団に寝かせる。熱が高い。

濡れた布で額を冷やす。体をとにかく温める。夕飯の残りのスープを温めて飲ませた。水分も取らせる。けれども食べても、飲んでも、全てすぐに吐き出してしまう。

 パッセはうわ言のように寒い、寒いと訴える。そして友人の名前を呼んではその瞳から涙を流した。

 アヴニールは看病でずっと付き添って、その言葉を聞く度に後悔で胸が潰れてしまう程に痛んだ。

 明日になったら薬をもらいに行こう。

 しかし次の日、その冬一番の吹雪が吹き荒れ始めたのである。

 この地方の吹雪は二三日続く。

 アヴニールは絶望した。一晩経ってもパッセの容態は一向に良くならない。高熱は依然続いていたし、最早意識も無い状態で、この吹雪の中アヴニールが外に出て帰って来るまでの間すら、一人に出来ない状況だった。

 何も食べていないのに嘔吐が止まらない。

 どれだけ温かくしても寒さで震える。

 アヴニールはその症状に覚えがあった。

まるでそれは、父と母を奪ったあの病そのもの。

「パッセ………!」

 アヴニールはパッセの手を強く握り締める。

 そしてハっとして、アヴニールは父の十字架を持ち出した。

「お願いです神様、私がどうなったって構いません。私は一生自分の幸せを願ったりしない、人々の幸せを願い生きていきます、奉仕の心を持って生きます。どんなことでもします、どんな目にあっても構いません。だからお願いです神様、この子だけは、この子だけは奪わないで……っパッセだけは、連れて行かないでください………!」

 しかしアヴニールの努力も虚しく、三日三晩吹雪と、パッセの高熱は続いた。

 そして遂に、パッセの体に死の宣告が記される。

 パッセの体に、紫斑が浮かんだのだ。

 外はまだ吹雪だった。しかしアヴニールは一か八かその吹雪の中飛び出した。

 確か良く効く薬が出来たと聞いていた。その薬を飲めば助かる見込みがあるかもしれない。アヴニールは必死で村で唯一の薬屋を尋ねた。

「お願いします! 薬を売ってください! お願いします!」

 アヴニールの呼びかけに薬屋の灯りがついた。その瞬間アヴニールは驚喜する。これで助かるかもしれない。

「お願いです! ペストの薬を、お願いします!!」

 しかし、アヴニールは焦ったあまりに言ってしまったのだ。

 その、恐ろしい病気の名を。

 扉は開かなかった。

 やがて灯りは消えた。

 その後どれだけ叩いても、扉は決して開かなかったし、二度と灯りが点く事も、なかった。

 アヴニールは項垂れて家に辿り着いた。

 扉を開ける。

 ぴとん、ぴとんと。

 不意に音が聞こえてアヴニールはその音の方を向いた。

 サイドテーブルの上に置いていたコップが倒れ、中から水が零れている。

 アヴニールはそれを見止め考えるよりも先にベッドサイドへ走った。

 パッセがコップに手を伸ばしている。その先に、倒れたコップ、滴る水。

 パッセは手を伸ばした侭動かなかった。

「パッセ?」

 動かない。

 俯いた侭、パッセはぴくりとも動かない。

「パッセ………?」

 嘘だ。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……………




アヴニールは階段で仰向けに倒れていた。

 うわ言のように嘘だと繰り返し、目は虚ろに宙を見つめている。

 全て思い出した。自分はあの後、ナイフで腕を切ったのだ。

 思い出した途端、アヴニールの体からじわじわと赤い血が溢れ出す。

 やがてその血はアヴニールの周りに丸く広がる。

『 思い出したようだね 』

 闇がアヴニールを見下ろしていた。

『 さあ、私のもとへおいで。楽にしてあげるから 』

 闇がアヴニールに手を伸ばす。アヴニールは虚ろな視線をそれに向けると、言われる侭にその手を差し出した。

 楽しかったパッセとの日々を思い出す。

 そして最後に見た、自分を睨むパッセの顔。

 苦しみ続けるパッセの姿。

 もう動かない、パッセ。

「もうここから出ても、パッセはいないのね」

 それなのに、ここから出ようだなんて、馬鹿みたいだ。

「私を助けてくれたパッセも、全て幻」

 本当の、パッセなんかじゃなかった。

「馬鹿みたい………」

 闇の言う通り、それはとても滑稽だ。

「馬鹿みたいだ、私………」

 闇の手が伸びてくる。力なく、けれどもアヴニールは其の手に自分の手を差し伸べる。

 もう終わりにしよう。ここでの幻想も全て終わりだ。

 此処で自分自身が作り出したパッセも死んだ。

 現実へ戻っても、其処にはもうパッセはいない。

 だったら、いっそ自分も此の侭。

『 さぁ、絶望だよ。アヴニール 』




 闇とアヴニールの手が触れる寸前。

 突如、螺旋階段が大きな音をたてて揺れ始めた。

『 何だ? 』

 揺れが激しくなる。そしてその揺れは、大きく一度、左右に揺れた。

「え?」

 気がつけばアヴニールの体は欄干の隙間から螺旋階段の中央へと放り出されていた。

『 しまった………! 』

 そして其の侭アヴニールの体は下へと落ちる、かと思われたのに。

「何………?」

 胸に閉まっていた十字架が、アヴニールの目の前で光っている。その十字架が幻を晴らすように、アヴニールの足は螺旋階段の一番下の床を踏みしめていた。

 見上げた螺旋階段は、先程までの長い永い階段では無い。

 天井までよく見える、普通の螺旋階段に戻っていた。

『 くそ! 』

 闇はそう言い残しいつの間にか消えてしまった。

 そしてアヴニールは導かれるように頭上を見つめる。

 螺旋階段の最上階で、何かが光っている。

 その灯りは、今まで見た灯りの中で一番強く、強く光っていた。

 その光に導かれるようにアヴニールは階段を登る。

 一歩一歩着実に階段を踏みしめて、二階、三階、そして最上階に辿り着く。

 螺旋階段の頂上、少しだけ丸く膨らんだ小さな部屋。真ん中に、ランプを置く台。そこで、何かが強く強く光っている。

 その光にアヴニールは導かれるように手を触れた。




 気がつけば、目の前に先程消えた筈のパッセが、自分を見つめて立っていた。

 その姿は薄く透き通って、今にも消えてしまいそうだった。

「パッセ………」

 けれど、パッセではない。アヴニールは彼から視線を外し俯いた。

「思い出したんだね、アヴニール」

 パッセはアヴニールの瞳をじっと見つめている。どこか悲しげなその瞳は、それでもアヴニールの知るパッセそのもので、アヴニールはもう一度だけ、伺うようにパッセを見つめた。

 パッセは、優しく微笑んだ。

「貴方が思い出した通り、僕は貴方の記憶の中のパッセだ。現実に居る、本物のパッセはもういない」

 アヴニールは眉を苦しげにぎゅっと寄せた。その事実に、胸が潰れそうなくらいに苦しい。苦しくて、苦しくて、けれどその苦しみの果てにさえ、パッセはいない。

 自分があんな事をしなければ、パッセは出て行かなかったかもしれない。

 そうすればパッセは病に侵される事はなかったかもしれない。

 パッセを学校に通わせなければ。友達などいなければ。

 どうすればパッセは死なずに済んだのだろう。自分はどうすれば彼を救えたのだろう。

 ――――違う。自分が誰かを救うなんて、そもそも出来るわけがなかったのだ。


 そうだ、それならばやはりあの時彼を追い出すべきだったのだ。

 だって初めから出会ってさえいなければ、こんなことには。

 こんな、想いは。


「アヴニール!」

 ハっとした。呼ばれ見ればパッセの体が先程よりも薄くなって、あとほんの僅かで消えてなくなってしまいそうだ。

「パッセ!?」

 アヴニールは反射的に手を伸ばした。其の手を消えかけた手でパッセが掴む。

強く強く掴む。

「アヴニール………忘れないで」

 パッセはアヴニールを縋るような瞳で見つめた。

「貴方の中に居る僕を………どうか忘れないで。

僕は貴方の中で生きてる。

確かにパッセは死んだかもしれない。

それは貴方にとってとても耐え難い事だ。

だけど、貴方の中の僕まで、殺してしまわないで」

アヴニールは首を振った。

「だって本物のパッセは死んだわ! 貴方はパッセじゃない、貴方は私でしょう!?」

 パッセは首を振る。

「僕は、貴方の記憶だ」

 パッセはアヴニールの手を引いた。そしてその体を強く抱きしめる。

 アヴニールは感じる。

 その温もりを、アヴニールは感じる。


「僕は貴方の記憶の中の、僕だよ」

 

温もりが消えた。

 パッセの気配も消えた。

 残されたのは、やはりアヴニール。

 この広い城の中、気がつけばまたアヴニールはひとりぼっちになってしまった。

 パッセはもういない。

 パッセは、もう――――いない。


 だけど。


 アヴニールは前を向いた。

 それから胸の十字架を握り締め、一度大きく深呼吸をする。

「行こう」

 アヴニールは歩き出した。螺旋階段を下り、そしてぽっかりと開いた入り口を見つめる。そこはアヴニールがこの城で唯一、まだ足を踏み入れていない、二階への入り口。

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