牢獄
十二、牢獄
「アヴニールの馬鹿ぁ! 記憶喪失とか馬鹿ぁ!」
「急に子供っぽくならないの! だから子供って言われるのよ!? お馬鹿!」
「馬鹿って言うなよぉ!」
「泣き虫だけは本当に治らないわねぇ、あんたは」
先ほど自分が彼を思い出してから、一向に泣き止まないパッセの頭を乱暴に撫で繰り回しながら、アヴニールは呆れたように大きな溜息を吐いた。
「記憶喪失だったのは謝る。あんたの事だけは覚えててあげるべきだったわね。でも、だからってそんなに泣くことないでしょうに」
パッセはごしごしと目を擦りながら涙を拭うと、「うるさいなぁ」とアヴニールを見上げた。それからいかにも不満げに頬を膨らます。
「なんだよ、さっきまではもうちょっと可愛かった癖に」
言うと、今度はアヴニールが頬を真っ赤に染め上げた。記憶を失っていたとは言え、自分は半ばわが子か弟のように暮らした彼に、何て思いを抱いてしまっていたのだろう。恥ずかしすぎてアヴニールの顔はさらにみるみる赤くなり、遂には耳まで赤く染まった。
「何でそんなに赤くなってるの?」
分かっているのかいないのか、パッセはにやにやと厭らしい顔をしている。
「そ、そんなことより! あんたの事も思い出したことだし早く此処から出ましょう」
アヴニールは半ばやけでそう大声を出すと、一階の屋敷、突き当たりにあったたいそう豪勢な扉へとズカズカ大股で歩き出した。
「あ、アヴニール!」
そんなアヴニールにパッセも後ろから急いで付いて行ったが、その表情はどこか不安げで微かに眉根を寄せている。
「あれ?」
そして扉に辿り着いたアヴニールは、ドアノブに手を掛けガチャガチャとそれを押しては引き押しては引き。
しかし、扉は鍵もついていないのに、一向に開く様子が無い。
「何で開かないの?」
やけになって蹴ってみたが、今度は足を痛めただけで牢獄のようには開いてくれなかった。そしてアヴニールは大きく溜息を吐く。
「仕方ない、他の出入り口を探しましょうか」
踵を返し歩き出そうとしたアヴニールの手を、パッセが不意に掴んだ。
急に手を握られたものだから、アヴニールは心臓がドキリとして「何!?」と大袈裟なほど大声を出してその顔を微かに赤くした。
振り返ったパッセは、けれどそんなアヴニールとは真逆で、至極真面目な顔をしてアヴニールを見つめていた。
「どうしたの、パッセ?」
その表情にアヴニールは首を傾げる。
「アヴニールは、どうしても此処から出たいよね?」
その声は、子供だ子供だと思っていたのに―――まるで大人の男のように、低く、重く、耳に響いた。
「あ、当たり前じゃない。こんなところ長居は無用だわ」
心臓がうるさく鳴り出した。何故だろう、不安が胸に押し寄せている。その不安はいったいどこから来るのだろう、アヴニールは困惑していた。
「そうだね、ここから出よう。絶対に、必ず、此処から出るんだ。いいね?」
まるで先程まで泣きじゃくっていたパッセとは別人だった。瞳はどこまでも真剣にアヴニールの瞳を捉え、その瞳をアヴニールは怖いとすら思った。
「約束だよ、アヴニール」
握られた手の力が強くなる。それは痛いほどに強く、程なくして離された後も、その感触がはっきりと残るほどに、強い力だった。
「当たり前なことばっかり、馬鹿ね」
アヴニールは湧き上がった不安を拭うように、強がりを言ってみせた。それから今度は自分から、パッセの手を縋るように握り締めた。
「勿論、パッセと一緒に此処から出るわよ」
そして、アヴニールは不安げな瞳でじっとパッセを見つめた。その瞳に、パッセは驚いたように目を見開く。そしてひどく優しく、まるで彼女を宥めるように、微笑んだ。
「当たり前だよ、アヴニール」
その笑顔で漸く、アヴニールは安著に胸を撫で下ろす。
それからパッセの手を握った侭、「どこから探そうか」と当てもなく歩き出したので、パッセが慌てて「待って待って!」と引き止める。
「ちょ、なになにどうしたの?」
「ずっと気になってたんだけどさ、アヴニール僕がお願いしたもの牢獄で取って来てくれた?」
パッセは疑っていた。誰が見ても疑った顔をしていた。それにアヴニールは澄ました顔のまま気づけば頬を一筋汗が伝う。
忘れていた。
「――――それが、行ったんだけど何のことか分からなくてね」
「目が泳いでるけど」
嘘を吐く時、アヴニールは分かりやすく目が泳ぐ癖がある。パッセはそれを見た途端に、わざと大仰に溜息を吐いてみせた。
「取りに行くよ、今から」
「えぇぇ」
「えぇじゃないんだよ! 此処を出る為に絶対に必要なの!」
嫌がるアヴニールにパッセは珍しく本気で怒る。眉間に皺を寄せながら睨まれてしまっては、さすがのアヴニールも承諾せざるを得ないというもの。
「分かりました、それにしても何を取りに行くの?」
「アヴニールが自分で言ってたんじゃないか。聖水だよ」
「聖水?」
そのまるでエクソシストでもやるのかという単語に、以前自分が言っていたとは謂えアヴニールは明らかに訝しげな顔をしてみせた。
「そんな顔すると思ったよ。でも聖水は絶対に必要なんだよ、それがないと“あいつ”を倒すことが出来ないんだ。あいつはさっきは去って行ったみたいだけど、絶対にまた襲ってくる。そしてその十字架だけじゃ、あいつを倒すことは出来ないんだ」
やけにスラスラと話すパッセに、アヴニールは「変にくわしいのね」と納得いかない顔をしてみせた。
「アヴニールがいない間に色々と調べたんだよ。あいつを倒さない限り、ここからは出られない。とにかくそれだけは確かなんだ」
言うが早いか、繋いだままだった手を引いてパッセは礼拝堂に向けて歩き出した。
それに慌ててアヴニールも歩き出す。
「何だか本当に物騒な話になって来たわね。倒すとか、出られないとか」
礼拝堂に向かう途中、アヴニールは自分たちが置かれた現状のあまりの突飛さに思わず溜息を吐いた。数奇な人生ではあると思っていたが、此処まできたらむしろ傑作だ。
「そうだね、でも僕ちょっとだけ楽しいよ」
パッセは言ったとおり、わくわくしたような顔をしていた。
「男の子ねぇ」
「うーん、と言うよりさ、アヴニールが傍に居るからだよ」
パッセは振り返って笑った。アヴニールは突然そんなことを言われたものだから、自然と頬が赤くなり、顔が緩みそうになるのを堪える為に仏頂面になる。
「そ、そう? 光栄に思いなさいよ」
「勿論ですお姫様」
パッセは笑っていた。本当に嬉しそうに笑っている。アヴニールもそれを見ていたら意地を張っているのが馬鹿らしくなり、ふっと笑みが零れる。
「私も、パッセが居れば何だって楽しい気がするよ」
そしてアヴニールはパッセの手を強く握り締めた。
パッセは目を見開いた、それからどこか噛み締めるように眉を寄せると、アヴニールにその顔を見られたくなくて心なしか少し前を歩く。それからパッセはぎゅっとアヴニールの手を握り返した。アヴニールはそれに嬉しそうに微笑む。
細い簡素な通路を抜け、豪勢な部屋を通り回廊へ戻る。
少しずつ寒くなってきたかと思えば、ステンドグラスの割れた礼拝堂が見えてくる。礼拝堂はいつの間にか雪まみれになってしまっていた。その光景にパッセは一瞬驚いていたが、「行こう」とキリスト像の後ろの扉へ向かう。
「ここの蝋燭をもらっていこう」
そしてパッセは入り口近くにあった蝋燭を手に取った。
ひとつひとつ、階段を降りながらパッセは燭台を見つける度に火を灯しながら下へ降りて行く。
その後ろに、アヴニールも続いた。
少しずつ、少しずつ、灯りを共に二人は階段を降りて行く。
そして遂に、階段を下り切った場所にあの牢獄はあった。辿り着いて直ぐに、パッセは牢獄の壁に設置された燭台ひとつひとつに丁寧に火を灯していく。
徐々に徐々に明るくなる牢獄。明るくしてみれば、そこはそれほど広くはなくて、ふたつの牢獄と看守達が逗留する為の部屋、そして恐らく――――拷問をする為の、部屋。
アヴニールはその拷問部屋が照らし出されたと同時に顔を歪めた。
そして真正面の壁に設置された燭台に火を灯し、牢獄は全て照らし出される。
全てに火を灯し終えた所で、パッセは持っていた蝋燭の火を消してアヴニールのもとへと戻りその手を勇気付けるようにぎゅっと握った。
「見て」
そして、拷問部屋のある方を差し示す。
「あそこにあるのが、聖水だよ」
パッセが指差した先に、確かにそれは、垂れていた。
自分が最初に聞いたあの水音はこの音だったのだ。アヴニールは天井から垂れるその水の下へと恐る恐る歩き出す。パッセが手を繋いでいてくれるので、何とか其の部屋に入ることが出来たけれど、もしひとりだったら恐らく、自分は動けなかっただろう。
それ程に恐ろしく、おぞましい部屋だった。
人を壁に括り付ける枷や、使い古された拷問道具の数々。見ているだけで気分が悪くなり、アヴニールは思わず口を塞ぐ。
その部屋の中央に、水は滴り落ちていた。天井からぽたりぽたりと、どこから漏れているのかとめどなく滴り落ちている。
誘われるように天井を見上げ、アヴニールはそこから目が離せなくなってしまった。
そこに描かれていたのは、聖母マリアだった。聖母マリアの瞳から、水はまるで涙のように滴っていたのである。
「聖母マリア様の、涙………」
アヴニールはその涙にそっと手を伸ばす。涙は、ひんやりと冷たかった。
「冷たい涙」
「アヴニール」
不意に、天井を見上げていたアヴニールの背にパッセが寄り添うように抱きついた。突然だったものだから、アヴニールは少しだけ驚いて「どうしたの?」とパッセを振り返りながら問いかける。
「アヴニールの心臓の音がする」
パッセは言いながら、更に強くアヴニールを抱きしめた。その力が少し苦しくて、アヴニールは不意に「パッセ、大きくなったね」と笑った。
「うん、アヴニールのおかげだよ。アヴニールのお陰で、僕はこうして大きくなれたんだ」
パッセが離れた。それから、パッセは自分の額をアヴニールの背にそっと付ける。
「貴方に出会えて、本当に幸せだった」
ぴちょり、聖母マリアの流す涙の音がする。
背中に付けられた額が更に強く、アヴニールの背中に押しつけられた。
「ありがとう………アヴニール」
アヴニールは、其の言葉を聞いて思わず眉間に皺を寄せた。
「パッセの、馬鹿………何でそんなこと、今言うのよ」
気がつけば、アブニールの両目からは涙が止め処なく溢れ出していた。
あとからあとから、どうしようもなく溢れるそれにアヴニールは思わず両手で顔を覆う。
あの日自分が離そうとした手を、それでも掴んでくれたのは、パッセだ。
自分こそ、パッセがいたから幸せだった。
自分こそが、パッセが居たから生きてこれたのだ。
お礼を言うのは自分の方だとアヴニールは思った。
けれども気恥ずかしくて、アヴニールはそんな事とても言えないのだ。
それならば、もし無事に此処を出られたら、自分もパッセに其の事を伝えよう。
背中に温もりを感じるほどに、アヴニールの涙は止まらなくなりそうだった。
だからアヴニールは半ば強引にパッセから離れると、「早く聖水を持って帰るわよ!」と自分を奮い立たすように大声を張り上げた。パッセは目を真っ赤に腫らしてそれでも強がろうとするアヴニールに苦笑すると、「じゃあ、はいこれ」とアヴニールにコップを手渡した。
「………え、なにこれ」
「コップだけど」
「いやだからなにこれ」
「だから」
「いやだから何でコップなの? 普通こういうのは瓶とか水筒とか、とにかくこう蓋が閉まるものに入れない?」
アヴニールはコップを握り締めながら力説した。しかしパッセは「アヴニール」と馬鹿にしたように両手を挙げて首を振る。
「そんなものがこの城のどこにあると思う?」
アヴニールは反論の言葉に詰まった。確かに、そんなものを探している方が時間が掛かるに決まっている。
「ちなみにこれは例の冬の部屋ですかさず僕がくすねてきた物です。部下が優秀で良かったですね、我が侭なお姫さいっだぁ!」
アヴニールは言葉の途中でパッセの頭を思い切り拳で殴りつけてから、仕方なくそのコップの半分ほどまで聖水を入れる。
そして零れないようにしっかりとコップを両手で持って、アヴニールはそんな自分の姿を俯瞰で想像し涙が出そうになった。
「勝てる気がしない」
「大丈夫大丈夫。アヴニールの拳はゴリラ並みだから」
コップを両手で持っているのを良いことに、パッセは先程殴られた仕返しなのか大層馬鹿にした顔でアヴニールを見た。
アヴニールは仕方が無いのでかかとでパッセの足を踏んだ。
「いったー!」
「さ、用は済んだしもう行くわよ」
そしてアヴニールは牢獄の出口へと向かい、パッセも文句を言いながら後を追った。そして牢獄から出て、階段を何段か登り始めたその時だった。
背後で凄まじい音が轟き、二人が驚いて振り返ったそこは、牢獄の天井が崩れたのだろうか………岩が雪崩れて、何もかもが塞がれてしまっていた。
「嘘………間一髪」
「そうだね、それに」
パッセはアヴニールが持っている聖水に視線を落とした。
「僕たちに与えられたチャンスは、その一度だけだ」
アヴニールとパッセは、コップの中で頼り無く揺れる聖水をじっと見つめ、沈黙した。




