パッセとアヴニール
十一、パッセとアヴニール
両親を失って数年、アヴニールは相変わらず暗い侭で他者ともあまり関わり合わずに暮らしていた。村人を恨もうにも、復讐を実行するほどの気持ちも湧かず、日毎増していくのは己の無力感とこの世界への諦観ばかり。
生きていながらに死んでいる、まさに其の言葉がしっくりと来るような暮らしをアヴニールは続けていた。
其の日もアヴニールは職である教師の仕事が終わり学校から帰る途中だった。春から夏に季節が移り変わる頃である。突然空の雲行きが怪しくなったかと思えば、ぴしゃり雷が遠い空に落ち強い雨が降り始めた。
仕方なく近くの木で雨宿りをしようと辺りで一番大きな木の下へ赴いたそこに、そいつは居た。
薄汚れた服、擦り切れだらけの体、一見ボロ雑巾のようだったけれど、中々どうして服は良いものを着ているように見える。
アヴニールはそれを見止めると、しばし諮詢する。それから雨が降っているというのに今見たことはすっかりなかったことにして、別の木の下へ移ろうと歩き出そうとした。したのだが。
「………」
見ていた。それはアヴニールの足を無言で掴んで視線だけで自分に何かを訴えかけている。
振り払ってしまおうか、とアヴニールは思った。こんな奴、拾った途端に絶対に面倒なことになるに決まっているのだ。
気がつけばアヴニールはその少年が着ていた服を風呂場でじゃぶやぶと洗っていた。少年には代わりにに自分が昔着ていた服を引っ張り出して着せてやった。その少年はと言えば、今はよっぽど疲れていたのだろう。アヴニールのベッドですやすやと眠っている。
服には血がたくさんついていた。
何なら彼の体自体が傷だらけだった。火傷の跡、青痣、切り傷、よくもまぁこれだけの種類の傷跡を揃えたものだと感心してしまう程に彼は傷だらけだった。子供らしい擦り傷なんて、ほんの膝小僧にだけ。其の他はそんじょそこらで付くような傷では無い。
「虐待、かな」
じゃぶ、と。破れた服を洗う手を止め少年の方へ視線を送る。
街の方では偶にそういった事もあると噂に聞いていた。別に自分には関係のない遠い世界の話だと思っていたのに、その遠い世界のお話がなんの数奇か今此処に舞い込んできてしまった。本当に自分の人生というのはそういうものですと言われている様な気がして、アヴニールは思わずため息を漏らす。
服も洗い終わり乾かすため家の中の適当なところにぶら下げて、アヴニールはベッドサイドへ向かって歩き出した。其の途中納戸から椅子を一脚取り出して、それをベッドサイドに置いた。
椅子に座り、少年の額に触れる。熱は無いようだから疲れていただけだろう。あとは傷跡、生々しいものが多いから恐らくほとんどは最近付けられたものなのだろう。
起きてからというのも面倒だし、アヴニールは少年が寝ている間に傷の手当をしてしまう事にした。
服を脱がす。勿論パンツだけは履かせたまま。まずは傷口の消毒、火傷と青痣には塗り薬、あとは適当に包帯を巻いて出来上がり。何とも簡易的な治療ではあるが今のアヴニールの手持ちでは精々それが精一杯だ。まあ、何もしないよりは少しはマシだろう。
都合よく少年はその間一切起き上がることもなく治療はスムーズに終えることが出来た。
これだけ触られて起きないなんて、よっぽど疲れていたのだろうな。アヴニールは少年に再び服を着せてから、元通りに布団をかけてやった。
「さてと」
アヴニールが立ち上がろうとした其の時だった。
急に少年は苦悶の表情を浮かべたかと思うと、「うわぁぁ!」と突然大声を上げ手足をばたつかせ暴れ出した。
「ちょっと………!」
起きたのかと思ったが、そうではなかった。しかし絹を裂くような叫び声と共に全身全霊で少年は暴れている。悪夢でも見ているのだろうか。
アヴニールはしばし呆然とする。そして愕然とした。
この少年は、無意識にこれほどまでにもがかなければならないほどの、そんな環境で生きていたのか。
気がつけば、アヴニールは兎に角必死で少年を抱きしめようと体が動いていた。かなり殴られたし、爪でたくさんひっかかれた。勿論痛い。しかし此の侭暴れられてはまた少年にいらぬ傷口が増えてしまう。そう思ったら、勝手に体が動いていた。
漸く少年を腕の中で落ち着かせ、アヴニールはほっと一息吐くと少年の頭を自然と撫でてやっていた。すると不思議なことに少年からはまた規則正しい寝息が聞こえてきた。
「よしよし」
落ち着いたことを確認すると、アヴニールは再び少年を布団へ寝かしつけた。それから明日学校で教える授業の予習でもしようと立ち上がる。
其の瞬間、再び響く外の雨よりも激しい叫び声が。
「――――あぁもう、やっぱり面倒なことになった」
アヴニールはその瞬間に思った。自分は怪獣を拾ったのだ、これはもう怪獣以外の何者でもない。こんにちは怪獣、おはようございます怪獣。今日も元気で寝覚めが悪い、そうなのか、そうなんだろう怪獣。
アヴニールは「あぁもう!」とがしがし頭をかいてから、覚悟を決めて腕まくりをし、いざ少年の体に手をかける。
傷が増えていく、だがしかしここで負けるわけにはいかない。先程と同じくらいの苦労をかけて、アヴニールは少年を抱きしめることに成功し、その動きを塞ぐ。それから頭を撫でて宥めてやって、寝息が聞こえたところで寝かしつけ、寝付いたと思い離れようとすればまた暴れ出し、ため息を吐いて再び取り押さえる。結局アヴニールはそれを朝まで繰り返し繰り返し、気がつけば朝日に照らされた体は、少年と見紛う程に傷だらけになってしまっていた。
「………ううん」
朝日が完全に昇った頃、雨はもう止んでいた。ベッドの脇の窓からは眩しすぎるほどの朝日が舞い込み、驚くほどの青い空が見える。
その眩しさに少年は目をこすりながら起き上がった。そして何か、布団ではないものに自分が包まれていることに気がつき、少年は横を向く。
「!?」
少年は心臓が止まるかと本気で思った。横を向いた直ぐ鼻の先に、見知らぬ女の顔があったからだ。その人は顔にいくつも傷がついていて、そしてすうすうと寝息を立てて眠っていた。
其の腕が、自分をしっかりと抱きしめている。
少年は女の寝息が頬に当たるのを感じながら、けれども動いたら女が起きてしまう気がしてぴくりとも動くことが出来なかった。
とにかく動かないように、まるで人形にでもなったような心持ちだ。少年とは言えその状況にはドキドキ嫌になるくらい心臓が高鳴っている。
パッセは女の顔をもう一度ちらり、盗み見る。
傷だらけのその顔を、少年は何故だかとても綺麗だと、思った。
それは朝日に照らされて輝いているように見えたからかもしれないし、それはこんな状況だから心理的にそう思ってしまっただけかもしれない。
それでも少年は、自分を強く抱きしめてくれている心地よさと、女性特有のなんとも言えぬ柔らかく暖かな温もりと、そして香ってくる女の微かな芳香に、気がつけば心溶かされるように、涙が一筋、頬を伝っていた。
少年は結局、アヴニールが目覚めるまで寝た振りをしてやり過ごした。アヴニールは案外少年が目覚めてから直ぐに目を覚まし、少年が寝た振りをしているのにすっかり騙されて、「よく寝る子供ね」と言い残しさっさとキッチンへと行ってしまった。
少年はそれからほっと胸を撫で下ろし、さてどのように起き上がろうかと思案を始めた。しかしやがてキッチンから香りだした毒かと見紛う程の悪臭を嗅ぎ付けた途端、気がつけば「おええ!」と大声を上げてしまっていた。
「おや、起きたのー?」
その声を聞きつけてアヴニールはキッチンから少年に声をかける。
少年は未だ咳き込みながら何とか起き上がりベッドから降りると、鼻を強くしっかりと摘み匂いのする方、キッチンへと歩き出した。
「今朝ご飯出来るから」
少年は目が飛び出るのでは無いかというくらいに驚愕した。
まさかこの匂いのもとが朝ご飯だとでも言うのか、嘘だと思いたい。けれど彼女が焼いているものから明らかに、そして確かにこの匂いは発生している。
少年はごくりと息を呑んだ。僕はここで死ぬのかと。
「あの」
もう恥ずかしがってはいられなかった。生き残る為だ。第一少年は生きるためにこんな辺境まで逃げてきたのだ、ここで訳の分からない食事に倒れる訳にはいかない。
思い切って話しかけると、アヴニールは「なあに?」と本当に自然に返事をした。
その自然体な態度に、少年は少しだけ拍子抜けした。それが何故拍子抜けしたのかは分からない、けれど自分自身が一切緊張感を持たないように、この人は他人にも緊張させない雰囲気を持っている人なのだと、そう思った。
「僕が、お礼に作ります。なんというかその………それは焦げちゃってるし」
フライパンの上には黒い墨が乗っていた。それに何をしたらこの匂いになるのかは分からない、或いはもともと食材が腐っていたのかもしれない。
「いいわよ、そんなの」
「いいえ是非やらせてくださいお願いします」
少年は半ば無理やりアヴニールからフライパンを奪い取ると、上に乗っていたものをくず籠に捨てる。それからキッチンの籠に入れられていたいくつかの野菜を切って、炒め始めた。その手つきはこなれているのか手際がよく、出来上がっていくものも何とも言えずおいしそうで、アヴニールはその匂いに不意に懐かしさを覚えた。
「何だか、お母さんの料理の匂いがする」
気がつけば、アヴニールはそう言って懐かしそうに微笑んでいた。
少年はその表情を見止めると、ほんの少しだけ嬉しい気持ちになる。自分が作る料理で誰かが喜んでくれているのが、何やらくすぐったく感じた。
程なくして出来上がった料理を持って、二人は食卓に着く。
一脚しかなかった椅子は、いつの間にか二脚用意されていた。
「それじゃあ、いただきます」
そう言ってアヴニールが手を合わせるのを、少年はただ眺めていた。それを見たアヴニールは顔をしかめ、「貴方もやるのよ」と呆れたように言う。しかし少年はそう言われても、不思議そうに小首をかしげ、きょとんとした顔をした。
「手を合わせて、いただきますって言うのよ」
アヴニールは言ってもう一度お手本のように自分が手を合わせて見せた。
言われた少年は始めは戸惑ったが、たどたどしい様子でアヴニールと同じように手を合わせる。それからもう一度アヴニールが「いただきます」と言って、少年も続いて「いただきます」と言った。
「よく出来ました。よーしそれじゃあ」
アヴニールは少しだけはしゃいだようにフォークを持つと、野菜炒めを嬉々として食べ始めた。少年はその様子を伺うように見つめている。
「うん、おいしいじゃないの」
そしてアヴニールが満足そうに野菜炒めを食すのを見て、少年はほっと安心したように胸を撫で下ろした。
アヴニールはそんな他人の行動や様子を伺うように見ては安著する少年を何とはなしに見ていたし、少年は何かと他人を伺う自分の様子を見ては何ともなさそうにしているアヴニールに不思議な感覚を覚えていた。
やがて二人は野菜炒めを食べ終わり、少年は「お礼」と立ち上がると食器を洗い始めた。
アヴニールも今日の授業の予習を少しでもやっておきたかった為その好意を喜んで受け取り、教科書を取り出して読み始める。
皿を洗い終え、少年はアヴニールが読んでいる教科書を物珍しそうに遠巻きに見つめた。その視線に気がついたアヴニールは、教科書を閉じると「そこに座って」と少年を先程座っていた自分の真正面の椅子に座るよう施した。
そして少年が座ったのを確認して、アヴニールは話し出した。
「私はそろそろ学校に行かないといけないから家を出ます。貴方もそこに昨日着ていた服が乾かしてあるから、それを………」
言ってアヴニールは少年の服を指差したが、その服があんまりにも破れておんぼろなのを見止めるや否や、「それを着て私が帰る前には出て行くように」という言葉を思わず呑みこんでしまっていた。
「………あの棚に裁縫道具があるから自分でなんとか直しておきなさい。まぁ、どうしても無理なら帰ってきて私がやってあげるけど………」
少年は驚いた顔をしたが、やはりほっとしたように「ありがとうございます」と頭を下げた。アヴニールはそんな少年に罰が悪そうに頭をかく。
失敗したなと、アヴニールは思った。ここで情けをかければ更に追い出しにくくなってしまう。だがしかし言ってしまったものを撤回するのはもっと気分が悪い、アヴニールは一度ため息を吐いて立ち上がると、「それじゃあいってきます」と荷物を持って玄関へと向かった。
「あ、はい」
少年は自分も椅子から立ち上がり一応アヴニールの見送りをしてくれるようだ。しかし少年はただじっとアヴニールを見つめている。
先程も思ったが、やはりこの少年には自分が知っている“当たり前”が抜けているところがある。アヴニールは思いながら昨夜の彼の傷跡を思い出した。
「いってきます」
少年はアヴニールを見ている。だからアヴニールはまた頭をかくと、一度ため息を吐き少年に視線をやった。
急に見つめられて少年は少しだけ驚いたように目を見開く。
「いってきますと言われたら、見送る方はいってらっしゃいと言いなさい」
それからアヴニールは改めて、「いってきます」と扉に手をかけた。
「あ、あ………いって、らっしゃい」
扉を開け出て行く直前、何ともぎこちなく少年は言った。
すると扉が閉まるその向こうで、アヴニールが微かに微笑んでいるのが見えた。
パタンと、扉が閉まる。
少年は、残された家の中でアヴニールのその笑顔を、何度も、何度も思い出した。
家の前、アヴニールはコトコトと聞こえる音と湯気と共に香ってくる匂いに何とも渋い顔で立ち止まっていた。
作っている、これは完全に。アヴニールは思わず顔に手を当てて溜息を吐く。
それでも言わなければ、早く出て行きなさいと。自分の家に帰れとは言わない、けれども何時までもだらだら居られても困る。
そうだ、困るのだ。
アヴニールは持っていた鞄を握り締めると、覚悟を決めたように扉を開けた。
「ただいま」
少年はやはり、キッチンに立っていた。
「あ、この場合は何て言えばいいんですか?」
それから、少しだけ遠慮がちにアヴニールに尋ねる。
「おかえりなさい、よ」
少年はアヴニールの答えに嬉しそうに「じゃあ、おかえりなさい」と笑った。その無邪気な笑顔にアヴニールの気持ちはぐらりと揺らぐ。だが駄目だ、もう決めたのだ。
今度こそは、ちゃんと言わなければ。
「えっと、シチューを作ったんです、どうぞ食べてください」
アヴニールが鞄を置いて髪をほどくと、少年はテーブルに出来たてのシチューを並べた。だが少年はアヴニールの分だけを置いて、自分はテーブルの横に立ち尽くしている。
アヴニールはそれを見ると、今度は自分がキッチンへと向かい皿を持った。少年はその様子を不思議そうに眺めている。アヴニールは皿にシチューを盛り付けて、それを自分の目の前の席に置くと、「座りなさい」と少年に言った。
「いいんですか………?」
「いいから座りなさい」
アヴニールは席に着く。少年も、戸惑いながらおずおずと席に着いた。
途端、アヴニールの腹から大変愉快な音が響き渡る。
澄ました顔をしていたアヴニールの顔はその音で微かに赤く染まった。
「そ、それじゃあいただきます!」
「いた、い、いただ………いたっ」
「笑うなら笑いなさい!」
少年は必死で笑いをこらえていたが、アヴニールがそう怒鳴ると堰を切ったように笑い出した。ひとしきり涙が出るほど少年は笑った。
「気は済んだの?」
「あ、はは………ご、ごめんなさい」
少年はまた気まずそうにアヴニールを伺う。アヴニールはむすりとした顔で「別に」とシチューをひと掬いする。
そして、乱暴に口の中に放り込んで――――広がったその味に、アヴニールは一瞬動きを止めた。
「あ、あの………お口に合いませんでしたか?」
アヴニールの手は震えていた。それほどまずかっただろうかと少年も急いでシチューを頬張ったが、いつも通りの味付けで、それはちっともまずくなかった。
少年は怪訝そうに眉を潜めもう一度アヴニールを見やる。
そして、ぎょっとした。
「あ、あの………」
アヴニールの両目から、ぽろぽろと。
「うるさい!」
アヴニールは自分を見て驚いている少年をそう一喝すると、泣きながらシチューを次々に口に運んでいった。
そんなにおいしかったんだろうかと少年は困惑する。しかし「おかわり!」と皿を差し出され、少年はほんの少しだけおかしくて、苦笑した。
「はい、どうぞ」
おかわりを持ってくると、アヴニールはまたがつがつとシチューを頬張っていく。それが何だか嬉しくて、少年はしばらく其の様子を眺めていた。
結局アヴニールはシチューを三杯食べた。そして二人とも食事を終えると、何も言わずに少年が食器を片し始める。
アヴニールはそんな少年の背中を見つめながら、不意に表情を苦しげに歪めた。
言わなければいけない、出て行くようにと。けれどもそれを、寂しく思う自分が既に自分の中に居る。
アヴニールには、それが怖かった。
たったこれだけで、もう寂しいと思ってしまっている自分が怖い。これ以上、彼と仲良くすることは、あってはならない。
シチューは、母の味がした。だから余計にあの辛さが思い出されて、ズキズキと胸が痛み出してしまったのだ。
自分はこの苦しみから逃れるために、人と関わることを最低限で止めていたのに。自分の感情に鈍くなれば、何も考えなければ苦しまなくて済んだから。それなのに、この少年との触れ合いでアヴニールの心に忘れていた気持ちがまた思い出されてしまっている。
アヴニールは唇を噛んだ。
もう二度と、あんな悲しみはご免なのだ。
皿を洗い終え、少年はまだテーブルに座っているアヴニールを不思議に思いテーブルへやって来る。するとアヴニールは淡白に「座って」とだけ言った。
言われた通りに椅子に座った少年は、不思議そうにアヴニールを見つめる。
けれど少年は彼女がこれから何と言うか、何となく分かっていたし、それを受け入れる準備も出来ていた。
だから静かにアヴニールの瞳を見つめる。
「シチューありがとう、とてもおいしかった。だけど貴方を助けたお礼はこれで十分すぎるほどもらったわ。服も綺麗に直せたみたいで良かった」
アヴニールは少年と視線を合わせない。俯いた侭やはり淡白に言い切った。
それから唇を開き言葉を続けようとするが、中々次の言葉が出てこなくて、膝に置いていた手を握り締めた。
思い出される父と母との思い出と、父と母を失った記憶。アヴニールはこれでもかと言うくらい眉間に皺を寄せていた。その様子を少年はほんの僅かに驚いたように見つめる。
アヴニールの手は震えていた。
唇も、震えていた。
けっして目は合わせずに、俯いた侭アヴニールは遂に口を開く。
「出て行って、頂戴」
それだけを、搾り出すように言った。
沈黙が降りた。しばらくして、少年は立ち上がった。
それから玄関へと歩いていく。その間もアヴニールは俯いて少年を見ようとはしなかった。そんなアヴニールの様子に少年は少しだけ寂しそうに目を伏せる
しかし少年は最後に扉に手をかけて、微笑んで言った。
「ありがとうございました、さようなら」
ぱたりと扉が閉まった音がして、アヴニールはそれでも暫く顔を上げられないでいた。
ほどなくしてアヴニールはゆっくりと顔を上げる。
扉の前には勿論誰もいない。部屋の中にだって勿論、自分以外には誰もいない。
静かだった。そしてまた家を広く感じた。静か過ぎて耳が痛い。がらんとした部屋はどうしようもなく居心地が悪い。
こんな気持ち、もうずっと忘れていられたのに。
少年はアヴニールの家を出た。さて、この先どうしようか。
振り返ると、家からは暖かな光が漏れている。
この中に先程まで自分が居たのかと思うと、何やら夢のように思えた。
あんなに家の中が暖かかったのは、生まれて初めてだった。
あんな風に他人と寄り添って寝たのも、自分の料理であんなに誰かが喜んだのも、当たり前のことを当たり前に教えてくれる人が、居ることも。
出て行く覚悟は出来ていたし、そのつもりだった。
それなのに少年の足はどうしても、家の前をそれ以上離れることが、出来なかった。
少年は拳を握り締める。
悪い事とは分かっていたが、最後にもう一度だけあの人の姿を目に焼き付けておきたいと思った。それだけで、自分はこの先ひとりでも頑張れる気がした。
少年は覚悟を決めると、玄関の脇の窓からそっと家の中を覗き込んだ。
「!」
そして少年は、目を見開く。
アヴニールは泣いていた。何度も何度も、涙を拭う動作をしている。
少年は戸惑った。何故、あの人は泣いているのだろうと。
気がつけばその様子に、少年の瞳からも涙が零れ落ちていた。
あの人は、泣いているのだ。
きっと、僕の為に。
其の日はどうやって寝たのか覚えていない。とにかく目覚めればベッドに居て、朝日が眩しくて目を眇めた。
起き上がり顔を洗う。朝ご飯は作る気になれず今日の授業の予習を始めた。それから時間になったので立ち上がり、荷物を用意して玄関へ行く。
扉を開き、外に出た。
「いってらっしゃい」
途端に、聞こえてきたその声にアヴニールは驚いて振り返る。
少年は扉の横で蹲って座っていた。
「なっ………」
「家は出て行ったんだし、文句は無いでしょう?」
少年は立ち上がる。それからアヴニールの持っていた鞄をするりと器用に奪い取って、「さあ行こう」とまたにっこりと笑った。
「何を、言ってるの………?」
「僕、学校に興味があるんだ。連れて行ってくれませんか? 先生」
少年は、笑顔だった。満面と言っても良いくらいの笑顔。アヴニールはそれを見て引きつったような複雑怪奇な表情を浮かべた。
この気持ちは何だろう、してやられた悔しさとか、この少年の思いのほか姑息な性格とか、昨日の自分の情けなさとか、そこに居てくれた事への、安心感とか。
「分かりました、連れて行けばいいんでしょう!?」
「ありがとうございます、先生」
アヴニールは歩き出す。少年も其の横に付いて歩き出す。
「まったくあんたって子は………!」
「あんたじゃないよ、僕の名前は“パッセ”って言うんだ」
学校への道のり、歩きながらパッセは言った。
「先生の名前は?」
「………アヴニールよ」
「え?」
少しだけ言い辛そうにアヴニールは言った。それを聞いてパッセは驚いて目を見開くと、思わず「凄い、運命だね!」と叫び喜色満面の笑みを浮かべる。
対してアヴニールは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「過去と未来だよ? 僕たちきっと良いコンビになれると思わない?」
「思わない。第一あんまり馴れ馴れしく話しかけて来ないで欲しいわ」
「まぁまぁアヴニール、昨日僕がいなくなって泣いてたじゃないか、僕見てたよ」
「な……っ! 泣いてない! 断じて泣いてない! あと軽々しく名前で呼ばないで!」
「いいじゃない、アヴニール。可愛い名前じゃないか」
「そういう問題じゃない!」
瞬間パッセの頭にアヴニールの拳が唸った。急に殴られたものだからパッセの目の前には星が飛ぶ。けれど思いのほか、其の拳は痛くはなくて。
頭をさすりながら、それすら嬉しいパッセは、気がつけばにやにやと笑っていた。
「殴られて笑ってるなんて気色悪いわよ」
「うるさいなぁ」
気がつけば二人の歩幅はぴたりと揃っていた。同じ速さで二人は学校へ向かう。
そして其の日から、パッセが居座る形で二人の生活は始まった。
アヴニールは色々なことを教師としてパッセに教えたし、パッセはアヴニールが苦手な家事全般をこなした。
季節が過ぎるごとに、二人の思い出はどんどん増えていく。日を重ねるごとに、二人の心は近づいていった。
いつしかアヴニールにとってパッセが居ることは当たり前になり、パッセにとってアヴニールが居ることが当たり前になる。
あの日偶然に出会って以来、二人の日々は、同じ早さで時を刻み始めた。




