常盤御前
義朝さまのご側室、常盤御前。
お名前だけは以前からよく伺っていたその人は今、三条坊門のお邸の西北の対屋に母君と、お二人の若君とご一緒に身を寄せておられた。
世情の物騒さを案じられた義朝さまが、こちらのお邸にお預けになられたのだ。
「義朝さまの乳母子、鎌田次郎正清の妻の佳穂と申します。夫がいつもお世話になっております。今日は御方さまがこちらにおいでになると伺い、ご挨拶に参上させて頂きました。よろしくお願い申し上げます」
部屋の隅に控えてご挨拶申し上げると、
「まあ。鎌田殿の」
やさしく甘やかなお声がした。
「こちらこそ、鎌田殿にはいつもお世話になっております。こちらへ移らせていただく際にも何かとお心配りをしていただいて……」
そう言うと常盤さまは、御自ら隔ての几帳を押しやられた。
事前に聞いている評判が高すぎると、実際に実物を見た時に「噂ほどのこともない」とがっかりすることが多いというけれど。
その御方に関してはそれはまったく当てはまらなかった。
「衣通姫や楊貴妃にも勝る美貌」
「千人のうちからたった一人選ばれた当代一の美女」
そんな評判をさんざん聞いていたにも関わらずそのあまりのお美しさに息を呑んだ。
ほっそりとした白い面輪に、露を含んだように瑞々しい黒い瞳。
薄紅色の頬に、桜の花びらのような愛らしい口元。
秋草の文様を織り出した明るい朽葉色の袿の上に、つややかな御髪が絹糸を縒りかけたかのようにさらりと流れている。
思いのほか、華奢で小柄でいらっしゃるのがまた、言いようもなく可憐でお美しい。
「佳穂さま、とおっしゃるの? どうぞよろしくお願い致します」
深々と頭を下げられて、それまで茫然と常盤さまのお姿に見惚れていた私は慌てて平伏した。
「い、いえ。こちらこそ。どうぞ、何か不自由がございましたら何くれとなく、私にお言いつけ下さいませ」
「まあ……ありがたいこと」
奥の間との境の障子の影から四十がらみの女性が顔を覗かせた。
「このような場所で鎌田殿の奥方にお目にかかれるとは……地獄に仏を見る思いだわ。やれ、ありがたや」
「母さまったら」
常盤さまが困ったように眉をひそめられる。
「そのような言い方。こちらの北の方さまに失礼ではありませぬか。せっかくご厚意でお部屋を貸して下さっているというのに」
「だって、いくら殿の仰せだからと言って急にこんなところへ連れて来られて。私みたいな者はどどんな顔をしていたら良いのか分かりはしないよ。こんなところ、周りじゅう北の方さまの家の者ばかりで敵だらけみたいなものじゃないか。女房たちばかりか、朝夕格子を上げにくる使用人たちまでツンケンして」
母君は緊張と警戒心を漲らせて言われた。
「だから、あなたが来てくれてほっとしてるんですよ。鎌田殿の奥方さまならば北の方さま付きの女房というわけではないものね」
私は苦笑した。
「いいえ、私もこちらの北の方さまにお仕えさせていただいております。北の方さまはとても素晴らしい御方ですよ。お優しくて思いやりがおありになって……」
「何だ、あなたも北の方さまのお味方ですか」
「そんな。敵味方だなんて。北の方さまはそんな方ではございませんわ。そもそも、こちらのお世話をさせていただくようにと私にお言いつけになられたのは北の方さまでいらっしゃるのですもの」
「何でまた」
母君はあからさまに不信感を見せて言った。
「こちらのお邸の女房よりも、私の方が御方さまや御母上さまが気安いと思し召されたのでございましょう。ですから私も、北の方さまの女房としてではなく、鎌田正清の妻としてお仕えさせて頂きます。どうぞお心やすく何でもお申しつけ下さいませ」
不承不承といった感じで頷かれた母君の横で、常盤さまが小さく頭を下げられた。
「まあ。ご親切に。ありがとうございます。佳穂さま、ふつつか者で何かとお世話をおかけすることが多いと思いますが、どうぞよろしくお願い致します」
か細く優しげなお声でそう言われて、ふわりと微笑まれて思わずドギマギしてしまう。
「お、御方さま。どうぞ私のことは佳穂、とお呼び捨て下さいませ。私へのお気遣いは無用にございます。何かございましたらいつでもお呼び下さい。今は私もこちらのお邸に寝泊まりしておりますので、お呼び下さればいつでも参上いたします」
「ありがとう。嬉しいわ」
小首をちょっと傾げて言われるそのたおやかさ、愛らしさ。
お顔立ちがお美しいのは勿論のこと、お声や物の仰りよう、ふとした仕草や物腰など、そのすべてがとにかく、なよらかでお可愛らしい。
凛とした気高さ、挙措の端々にまで漂う気品と優雅さは由良の方さまに及ぶべくもないけれど、女の私でも思わず手を差し伸べて守って差し上げたくなるような、頼りなげな可憐さ、いじらしさは由良の方さまにはないものだった。
こんなことを言ったら浅茅さまに引っ叩かれるだろうけれど、あの浮気性で飽き性の義朝さまがこと常盤さまに関してはもう何年も変わらず、お通いになり続けている理由がよく分かるような気がした。
北の対に戻ると、あたりにいた女房たちが我先にと話しかけてきた。
「ねえねえ、あちらの方にお目にかかってきたの?」
「お顔は見た?」
「本当にそんなにお美しいの?」
皆が皆、「都一の美女」と言われた常盤さまに並々ならぬ好奇心を抱いているみたいだった。
無理もない。
私だって最初、由良の方さまからお話を伺った時は楽しみに思ったもの。
「そうねえ。お綺麗な方だったわよ」
「ええ、本当に? こちらの御方さまよりも?」
「お話はしたの? どんな人だった? お高くとまってた?」
「あなた達、そんなところで何ゴチャゴチャ言ってるの! やることはいくらでもあるでしょう。さっさと仕事に戻りなさい!!」
浅茅さんの一喝が響いて場はあっという間にお開きになった。
あたふたと仕事に戻っていく皆の背中を睨んでから浅茅さまがこちらに向き直った。
「分かっているとは思うけれど、あなたも余計なお喋りはしないようにね、佳穂どの」
「心得ております。さてと、私も寝殿の方をお手伝いしてきます」
立ち去りかけた袖をはしっととらえられる。
「それで、どうでした?」
「え?」
「あちらの方ですよ。どういったご様子の方でした?」
そう問いかけられるお顔は真剣そのものである。
何のことはない。
このお邸のなかで一番、常盤さまの存在に神経を尖らせているのは浅茅さまなのだ。
「どうって、ですからお美しい方でしたわ。ほっそりと小柄でお可愛らしくて」
「殿のご寵愛をかさに着て、居丈高に振舞ったりなどは……」
「とんでもない。控えめでお優しそうな方でしたわ。私などにも丁寧にお話し下さって、逆にこちらが恐縮してしまいました」
見てきたままを言ったのだが、浅茅さまは不服そうな顔をされた。
「まったく殿も何でまたよりにもよって。他にお預けになる先がないわけでもないでしょうに」
「それだけ、北の方さまのことをご信頼なさっておいでなのでしょう」
取りなすように言ってみたが、浅茅さまは気が収まらないらしく険しいお顔をしていらっしゃる。
「ご信頼といえば聞こえは良いですが、殿は都合の良い時ばかり北の方さまに頼られて勝手が過ぎますわ。それをまた御方さまが快くお許しになるものだから調子に乗られて。だいたい、向こうの方も向こうの方だわ。いくら殿が仰せになられたからってお断りするのが普通でしょう?」
「まあ、でもうちの夫も申しておりましたけれどこのようなご時世ですし、何かと物騒ですから。あちらこちらのお邸に皆さまが分かれてお住まいになっておられるのも、お守りする側としたら大変でしょうし」
「そんなことは言われずとも分かっております! 私が腹を立てておるのは北の方さまがお優しく寛大なのをいいことに、殿とあちらの方が示し合わせてその御心を踏みにじるようなことをしていることです」
浅茅さまが仰るには、常盤さまがお移りになられたその日。
このところ、鳥羽の院御所や高松殿内裏、関白さまのお邸などの宿直でお忙しく、滅多にお渡りもなかった義朝さまがその日に限って、まだ日も暮れないうちからおみえになり、北の対にお顔を出されたのも束の間、その足ですぐに西北の対屋にお渡りになり、そのままお泊りになられたのだという。
「それは、あんまりでございます!」
憤慨して叫ぶと、
「そうでしょう?」
我が意を得たりとばかりに浅茅さまが力強く頷いた。
「殿のことはよろしいのです。もうそういう御方だということは私はよくよく存じておりますから。けれどね。問題なのはあちらの方ですよ。いくら殿がお渡りになったからとて、ご自分の立場を弁えていたら、のうのうと一晩殿をお泊めしたりはとても出来ないと思うのですけどね! 泣いてお縋りしてでも今日のところはお帰りになって、北の方さまのところへおいで下さいとお願いするのが筋というものではありませんか」
「まあ、でもそれでおいで下さっても御方さまは嬉しくないのでは……」
「当たり前です! 私が今、申しているのはそういうことではなくて、ただあちらの方の御心の持ちようというか、立場を弁えるべきだという話をしているのです!」
確かに義朝さまのなさりようはひどいし、浅茅さまがお怒りになるのも最もである。
私だって由良の方さまのお気持ちを考えたら許せないと思う。
けれど、それを常盤さまのせいにするのは、ちょっとどうかと思うのだけれど……。
私の微妙な表情を見て浅茅さまはますます声を荒げられた。
「なんです!? 私は何か間違ったことを言っていますか?」
「いいえ。でも、常盤さまにしてみたらどうしようもなかったのではないでしょうか。まさかお泊りになると申されているものを、お相撲みたいに無理やり押し出すわけにもいかないでしょうし」
「まあ、あなたはあちらの方の味方をするというのですか! 日頃あれだけ北の方さまにお世話になっておりながら」
「ですから敵味方のことではなくて……」
浅茅さまのお小言とも愚痴ともつかないお話はそれから小半刻ばかりも続いた。
戦乱の予感が渦巻いているのは、世間だけでなくこのお邸のなかでも一緒なのかもしれない。
由良の方さまも、常盤さまもどちらも良い方だけに、間に入って面倒なことに巻き込まれそうな気がして、私は小さくため息をついた。




