鳥羽院崩御
年明けて久寿三年(1156年)、春。
鬼武者さまは十。竜王さまは五つ。絢姫さまは三つになられた。
由良の方さまは絢姫さまの袴着のお支度を進められていた。
袴着というのは、「着袴の儀」ともいって子どもが初めて袴を着ける儀式である。
たいてい三歳から七歳くらいの間に行われて、それまでの成長を寿ぐほかにその子の存在を周囲にお披露目する意味合いもあった。
そして、それとは別にお邸の内に澱んでいる暗い空気を一層しようという思いもおありになるのだと思う。
昨年の八月。
為義さまの次男、義賢さまが武蔵の国で義朝さまのご長男、義平さまに討たれるという事件があった。世に言う大蔵合戦である。義朝さまは武蔵国から届けられた義賢さまの御首を、こともあろうにこちらのお邸の南庭でお改めになられた。
私はその日、正清さまに決してお邸に上がってはならぬと念を押されて家にいた。
だから、あとから聞いた話なのだけれど、お邸──とりわけ義朝さまのお住まいである寝殿付きの女房たちのなかには、只ならぬ雰囲気の恐ろしさに泣き出したり、卒倒した者もいたらしい。
私も、義賢さまには遠巻きながら六条のお邸でお目にかかったことがあったので聞いた時は震えが止まらなかった。
その後、女房の間で暇を願い出る者が続出した。
寝殿付きの女房がほとんどだったが、若君がたの東の対や、絢姫さま付きの西の対からも辞める者が何人か出た。
浅茅さまは、
「辞めたいものは辞めれば良い。何です。だらしのない」
と憤っていらしたけれど、御方さまはそれについては何も仰らなかった。
けれどやはり、女房たちの間に流れる不安や怯えを気遣っていらしたのだと思う。
「鬼武者と竜王のときのお支度もありますけれど。やはり初めての姫ですものね。ぐっと愛らしく、華やいだものにしたいわね」
派手なことを好まれない御方さまには珍しく、強いて浮き立ったようなご様子で袴着の火のお衣装や調度のお支度をお命じになられた。
私も仕立物や、当日の招待客の方の接待など精一杯お手伝いをさせていただくことになった。
「それで、良い機会なので悠を姫さまのお側に上げてはどうかって仰って下さっているのです」
ある日、お帰りになった正清さまに申し上げると
「悠はまだ五つになったばかりだぞ」
意外そうに眉をちょっと上げられた。
「ええ。ですから三つにおなりになる姫さまのお相手としてはちょうど良いのではないかと」
「おまえはどう思うのだ」
私は考えながら口を開いた。
「この先、お邸勤めをするにせよ、嫁いで家に入るにせよ三条坊門のお邸のような場所で行儀作法をきちんと教えていただくのはとても良いことだと思います」
「そなたがそう思うのなら好きにせよ」
正清さまはあっさりと言われた。
悠に関心がないというわけではなくて、単純に女の子の育て方については何の意見もこだわりもないので任せるといった感じだった。
四月になった。
昨年の暮れ頃から病の床に伏していらっしゃる鳥羽の院のご快復を祈願して元号が改められた。新しい元号は「保元」という。
改元の効もなく、院のご病状はますます重くなっていくばかりだった。
五月の半ば過ぎからは一切食事がとれない状態になり、果物や重湯のようなものもわずかにしか受けつけなくなった。
五月の三十日には「御万歳の沙汰」があった。
御万歳とは、貴人の逝去を意味する言葉であり、「御万歳の沙汰」とは院の崩御を前提としてさまざまな措置がとられることであった。
その一環として、鳥羽の離宮と今上(後白河天皇)の里内裏となっている高松殿に警護の武士たちが集められた。
義朝さまは、ご一族の源義康さまと一緒に高松殿内裏に参上された。
六月の十一日には、それまで片時も院の枕辺を離れずに、ご看病をされていた美福門院さまが御髪を下ろされた。
出家された女院の懸命のご祈念の甲斐もなく七月の二日。鳥羽の院は崩御あそばされた。御年五十四歳。
ご愛子の近衛の院のご崩御からわずか一年の後のことだった。
院のご葬儀は、崩御されたその日の酉の刻(午後六時頃)から鳥羽の離宮において行われた。
すべてを取り仕切られたのは、院の近臣であられた左大将藤原公教さまと、今上帝の乳父である信西入道だった。
ご葬儀のあと、ご危篤の父院を見舞われようと新院が、院のご意志でご面会ならず追い返されたという噂が流れてきた。
鳥羽の院と新院の御父子の仲があまりよろしくないというのは以前から言われていたことだったが、長く世の中を治めていらした治天の君の訃報の最中に流れてきたその知らせは、世の中に漂っていた不穏な空気をより一層掻き立てた。
ご葬儀から三日後の七月五日。
「上皇、左府同心して軍をおこし、国家を傾け奉らんとの動きあり」との風聞があるということで、検非違使らが招集され、都へと続く街道や諸国の関を閉ざすようにとの勅命が出された。
翌六日には、宇治から前左大臣頼長さまのもとへ参集しようとした源親治という武士が捕らえられた。
いまや、世の中は帝の乳父である信西入道によって動かされていた。
信西殿は、「新院、左府方にはせ参じようとする者は誰であれ直ちに引っ捕らえよ。抵抗するならばその場で討て」という命令を下したそうだ。
捕らわれた親治以下十二名は、獄につながれ帝の御前で厳しい尋問を受けた。
帝はたいそうご機嫌麗しく、親治らを捕らえた安芸守清盛さまの次郎君、基盛さまを正五位下に叙されたという。
正清さまは、
「これからは洛中の往来も物騒になる。俺も家を空けることが多くなるし邸の警護にもそんなに人数を残してやれないから」
と仰って私と悠にしばらく三条坊門のお邸に身を寄せるようにと言われた。
「あちらには常にまとまった人数がいる。殿や、義康どのも今、お身内を呼び寄せられているからそこにいてくれた方が俺も安心だ」
私は由良の方さまにお伺いをたてたうえで、その日のうちに七平太に供をして貰って悠と一緒に坊門のお邸に移った。
「まあ、佳穂たちが一緒にいてくれれば楽しいし心強いわ」
御方さまはにこやかに請け合って下さった。
「ちょうど人手がいくらあっても足りない折ですしね。こちらから、しばらく手伝いに来てくれるよう頼もうかと思っていたくらいだったのでちょうど良かったわ」
邸中があちらこちらから集まって来た義朝さま配下の武者たちでごった返しているなかで、少ない侍女たちの差配に頭を痛めていたという浅茅さまも、喜んで迎えてくださった。
「早速だけれど寝殿の方を手伝ってちょうだい。日頃でさえむさ苦しかったものが、今はもう野盗の寝ぐらか何かのようになってしまって行きたがる者が佳穂どのくらいしかいないのよ」
私だって別に行きたいわけではないのだけれど、ただお世話になるよりもやることがある方が有難かった。
正清さまが言われた通り、お邸の内には義康さまの北の方である御方さまの姪の篠姫さまとをはじめご一門の妻妾の方々も多く移ってきていた。私のように、家臣の身内の方々もいた。
その方々は皆、西の対屋へと入られていた。
私と悠は御方さまのご厚意で北の対の一角にお部屋をいただいた。
本来ならば若君がたのお居間にあてられている東の対には、今は隙間なく郎党の方々が宿直していらっしゃるので、鬼武者さまと竜王さまも北の対に移ってきていらした。
「そうだわ。西北の対屋の方も佳穂にお願い出来ないかしら」
由良の方さまがふと思いついたように言われた。
「まあ、あちらはもう他の者を割り振ってありますけれど……」
浅茅さまが言われるのに、笑って首を振られた。
「私付きの女房が相手では、きっと気詰まりでいらっしゃるわ。正清ならばあちらの方もよくご存じだと思うし。その妻の佳穂がお世話をするといえばその片が気楽でいらっしゃるのではないかしら」
「そこまで北の方さまがお気を遣われる必要はないように思いますけれど……」
「殿の大切な御客人ですもの。少しでも快適に過ごしていただけるようにしたいのよ。ねえ、佳穂」
そう言って由良の方さまは、その「お客人」の御名を口にされた。
私は目を見開いた。
「お願いしても良いかしら、佳穂?」
小首を傾げるようにして尋ねられる御方さまに、私はまだ驚いた顔のまま、
「は、はい。もちろんでございます」
とお答えしてその場に平伏した。




