13.かすかな痛み
もしも、槇野の言うことが真実だったら。
正清さまに本当に、他に女君がいらして、その方が男の子を儲けられて 。
嫡男のご生母として、正室として迎えられるのだとしたら。
私はどうするのかしら?
やっぱり、つらくて悲しいと感じるのかな……。
頭の中で、赤子を抱いて微笑む美しい女性と、その傍らに寄り添って幸せそうに赤子の顔を覗きこむ正清さまのお姿を想像してみた。
胸がキュッと締めつけられるように痛んだ。
けれど、それも一瞬のことで。
正直、あまり現実感がなかった。
確かに正清さまが他にご正室を迎えられて、もう二度とお会い出来ないのだとしたら。
それは確かに悲しくて寂しいだろう。
けれど。
だからと言って槇野が大騒ぎするほどに、身も世もなく悲嘆に暮れるほどに悲しいのかと言われれば、そこまでの感情は今のところ湧いてこなくて。
私の代わりに槇野が盛大に泣いてくれてしまっているせいもあるのかもしれないけれど。
槇野は今も大柄な体を丸めて、牛のように声を放って泣いている。
『牛』
と思った瞬間、こんな状況なのに笑いがこみ上げてきて。
慌ててそれを隠そうと、私は口元を覆って顔を背けた。
それを泣いていると勘違いしたのだろう。
それまで石のように黙りこくっていた七平太がたまりかねたように口を開いた。
「御方さま!殿は決して御方さまを疎かには思っておられませぬ!そんな、他の女性に心を移されて御方さまをお打ち捨てになるなど…そんな事ある筈がございません」
泣いていた楓も負けじと身を乗り出す。
「そうですわ。姫さま。正清さまはお優しい御方です。決して姫さまをお見捨てになるような、そんな……」
そこまで言って、また涙で言葉をつまらせて顔を覆う。
うーん…。なんというか……。
皆、私を思って言ってくれてるのは分かるんだけど。
そこまで言われると、正清さまに他に女君がいて、そちらにご嫡男たる男子が生まれるっていうのがもう既成の事実のような気がしてきて逆に気が滅入ってくるんですけど。
とりあえず、この重苦しい雰囲気を変えないと。
私はわざと袖で顔を隠すようにしたまま、
「いいのよ。初めからこのご縁は父上同士が決めたもの。あの方に他に御心に秘めた方がいらっしゃるのは知っているわ」
芝居がかって言うと、果たしてそれまでどんよりと重くなっていた場の雰囲気は一変した。
「そそそそそ…っ!それは、誠にございますかっ!姫さまっ!」
突っ伏して号泣していた槇野がガバッと起き上がって私に詰め寄る。
楓も七平太も、驚愕の表情で、凍りついたようにこちらを見ている。
「そ、それはどちらの女君でございますっ!そのような御方がありながら姫さまとそ知らぬ顔でご結婚なさるなど……大殿や北の方はこの事をご存知なのでございますかっ!!」
槇野の顔は、涙でお化粧が崩れて、髪は乱れて頬にふりかかり、昔物語に聞く『安達ヶ原の鬼婆』とはこの事かというほどの凄まじい形相になっている。
その槇野に肩を掴まれて、ぐらんぐらんと揺すぶられながら私は堪えきれずに声をたてて笑い出した。
それを見て楓が真っ青になって縋りついてくる。
「ひ、姫さま。どうかお気を確かに!」
「あはは。やあね、楓ったら。冗談よ、冗談。ちょっとふざけてみただけ。ほら、前によくやったでしょ?物語のなかの女君ごっこ」
『源氏物語』の葵の上以来、恋物語のなかで主人公の北の方っていうのは、家柄も美貌も申し分のない素晴らしい女性なのに、なぜかあまり愛されなくて、主人公には心に秘めた真の恋人がいる……っていうのが、もはや定番みたいになってるのよね。
ちょっとそれになりきって遊んでみたのだけれど、雰囲気を変えようとした効果は思ったよりも絶大だったみたいで。
槇野は拍子抜けしたようにぺたりと座り込み。
そして次の瞬間には、たちまち真っ赤になって目を吊り上げ、般若のような顔になった。
「姫さまっ!!!!おふざけになられるのも大概になさいませっ!!!」
「だって……」
「だってじゃございませんっ!私は本当に、本当に姫さまの事を思ってご心配申し上げているのですよっ!それをこんな風に茶化してばかりで……いったいどういうおつもりなのですかっ!!」
槇野はまたバーーーーンと床を両手で叩いた。
「この槇野は、もし、もしもよその女君が殿の御子を先に儲け、姫さまがその方の風下に生涯おかれるようなことになったら…。それどころか、このまま殿にお見捨てになられるようなことがあったらと…そう考えただけで口惜しくて腹立たしくて、今もこう、涙が溢れてくるほどですのに…っ!」
「泣くくらいなら、そんなこと考えなきゃいいでしょう?」
私は、しみじみため息をついた。
「姫さまはこんな時によくも、そんなにのほほんとしたお顔をしていらっしゃれますわね!
もし本当に殿がこのまま京にも呼んで下さらず、おいでにもならず、二度とお目にかかれない、ということになったらいったい、いかがなさるおつもりですのっ!?」
「そうなったら……」
私は言葉を切って視線を宙にさ迷わせた。
そうなったら。
私は本当にどうするのかな。
胸が塞がるような気持ちに蓋をして、私はにっこりと微笑んだ。
「そうなったら七平太の北の方にでもして貰おうかしら」
「えっ!!」
いきなり名を出されて、部屋の隅で恐る恐る成り行きを見守っていた七平太がシャックリのような声を上げた。
「そ、それがしの……っ」
「駄目かしら?」
小首を傾げてみせると、たちまち七平太の顔色が槇野とはまた違った意味合いで真っ赤になる。
「それがしなどそんなっ…あまりにもったいない…その…」
支離滅裂になって口ごもる声を掻き消すようにして槇野が鼻息も荒く立ち上がった。
「またそのような戯言をっ!もう槇野は知りませぬっ。勝手になさいませっ!!」
そのまま足音も荒く退室していく。
「よ、よろしいのでございますか……?」
それを見送った七平太が、まだ頬を染めたままおずおずと尋ねる。
「いいのよ。槇野の言うことを聞いてたらキリがないんだから」
槇野が私を想って言ってくれているのは分かってる。
その気持ちは本当にありがたいとも思って感謝もしている。
でも、なんて言われても、私はまだ起きてもいないことであんな風に、泣いたり大騒ぎしたり出来ないのだから仕方がない。
「それに……」
私は小さく呟く。
「槇野の言うことを真面目に聞いてると、その心配が全部本当のことになってしまうような気がして怖いの」
「御方さま…」
七平太が目を見開く。
「だからあんな風に茶化して話を逸らしてしまったの。巻き込んでごめんなさいね」
「いえ……そのような…」
七平太は、困ったような顔をしてしばらく俯いていたけれど。
やがてキッと顔をあげて言った。
「御方さま。殿は本当に御方さまを大切に想っていらっしゃいます。俺なんかが言っても信じていただけないかもしれないけど、でも……」
いつもの「それがし」が「俺」になっていて、七平太がそれだけ一生懸命言ってくれているのが分かる。
胸の中の不安や、もやもやした気持ちはまだ残っていたけれど。
みんなの気持ちが嬉しくて、私はにっこりと微笑んだ。
「分かってるわ。ありがとう」
待ちわびた知らせがようやく届いたのは、それから半時ほど経った八月も終わりのことだった。




