第14話 「処刑」の要求
オフィスは、静寂と焦燥に支配されていた。
大規模な経営統合に伴い、本社から派遣された新しい人事担当役員。その名は、花沢京子。
かつての幼馴染であり、俺の青春時代を支配した女王さまが、冷徹な「処刑人」として戻ってきた。
俺が補佐として個室に呼び出された時、彼女は優雅に足を組み、デスクの上に置かれたミネラルウォーターのボトルのラベルを指でなぞっていた。
「水道水? まさか、うちの会社の人事がそんな安っぽいものを出そうなんて思ってないでしょうね」
彼女は俺を一瞥もせず、氷のように冷たい声でそう言った。
10年前と同じだ。要求の背後に、相手を試す罠がある。俺は無言で、手元に用意しておいた最高級のミネラルウォーターをグラスに注ぎ、彼女の前に差し出した。
「失礼しました。ご要望のものを」
俺の完璧な動作に、花沢京子は微かに眉をひそめた。かつての、言いなりになるだけの情けない少年の面影を探しているのか。あるいは、今の俺の「隙のなさ」に苛立っているのか。
「……随分と、気が利くようになったわね」
彼女はグラスに口をつけることなく、一枚の書類を俺の前に投げた。
「これ、リストラ対象のリスト。……といっても、ただの叩き出しじゃないわ。旧経営陣と、統合に反対している古参の幹部たち。彼らをこの会社から完全に排除して」
それは、社内の実力者たちの名が連なる、爆弾のようなリストだった。
彼女の要求は明確だ。
「やり方は任せる。でも、結果が出なければ、あなたの首も飛ばすわよ」
花沢京子の言葉は、かつて俺に命じた「ジュースを買ってこい」という命令と同じ響きを持っている。しかし、重みは天と地ほど違う。
俺は深く礼をし、そのリストを受け取った。
「承知いたしました」
彼女の背後で、俺は静かに笑みを堪える。
リストラ? そんな粗っぽい手段は、ただの「素人」がすることだ。俺は歴史を学んだ。組織というシステムが、どのような要因で崩壊し、どのような要因で再編されるのか。
京子、あんたはまだ知らない。
あんたがかつて俺に教えた「支配のロジック」が、今やあんた自身を飲み込むための、完璧な包囲網になっているということを。
深夜のオフィスで、俺は一人、社内の組織図をモニターに広げていた。
花沢京子が求めた「排除リスト」。
単純に解雇すれば、彼らは反発し、不当解雇訴訟や労働組合のストライキといった形で組織を揺るがすだろう。それは「システム」の安定を損なう、最悪のバグだ。
俺は、大学で培った歴史分析の手法を用いた。
権力者が政敵を排除する際の手法――左遷、閑職への追い出し、あるいは、彼らが最も力を発揮できない場所に「栄転」という名目で幽閉する。
リストにある幹部たちの、過去の業績、現在の影響力、そして何より彼らが抱く「矜持」の所在を洗い出す。
彼らは「経営陣の威光」を笠に着ることで力を得ている。ならば、その威光の源泉を断てばいい。
俺は、彼らの能力を無力化するための再配置案を練り上げた。
ある者は、統合による複雑なシステム移行プロジェクトの「責任者」に任命する。そこは激務で、かつ成功すれば統合の立役者として称えられるが、失敗すれば自らの無能を露呈するしかない、まさに諸刃の剣の場所だ。
ある者は、遠方の支社への「出向」を命じ、本社という中央の権力から物理的に遮断する。
俺の作業は、チェスに近い。
敵の駒を盤上から取り去るのではなく、敵の駒が「自分の陣地を荒らせない場所」に、自らの意志で移動するように仕向けるのだ。
深夜三時。ようやく全資料が完成した。
俺はコーヒーを一口飲み、窓の外の夜景を見下ろす。
10年前、俺は彼女の顔色を窺い、機嫌を損ねないように必死だった。あの時培った「相手が何を求めているかを瞬時に察知する能力」が、今の俺には、敵の裏をかくための「予知能力」として機能している。
花沢京子のやり方は、相変わらず傲慢だ。しかし、その傲慢さの裏側にある「効率」という神聖な目的だけは理解できる。
だからこそ、俺は彼女の目的を、彼女以上に完璧な方法で達成してみせる。
それが、騎士としての、俺の矜持だ。
翌朝、花沢京子の個室。
俺は提出書類を彼女のデスクに置いた。
「排除のリストは作成しておりません。代わりに、組織最適化のための再配置案をご提案します」
京子は、興味なさげに書類を開いた。しかし、ページをめくるにつれて、彼女の表情が硬くなる。
彼女は、俺が作成した「配置換えマップ」の意図を、数秒で理解したはずだ。
彼らはクビにはならない。だが、本社での決定権を失い、俺の手が回る「外資の論理」という枠組みの中に、完璧に管理される。
彼らが反抗したくとも、その動機すら失うように設計されている。
完璧だ。
花沢京子は書類を閉じ、ゆっくりと椅子を回転させて俺の方を向いた。
その瞳には、かつて俺を追い詰めていたあの女王の、冷徹なまでの知性が宿っている。
「……面白いわね。これなら、労働争議のリスクをゼロに抑えながら、旧経営陣の息の根を止められるわ」
彼女は立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄る。
「ただ解雇するだけなら誰にでもできる。でも、相手に『納得』させて無力化するなんて……。ねえ、祐介。あんた、本当に『人の嫌がること』を見抜くのが上手くなったわね」
それは皮肉であり、最高の賞賛だった。
かつての俺を虐げていたあの女王が、今の俺を「有能な駒」として認めた瞬間だ。
「お褒めに預かり光栄です、花沢役員」
俺はあえて、役職で応じた。
京子は薄く笑い、俺の胸元に手をかけ、ネクタイを少しだけ整えた。
「期待しているわ。あんたが私の駒として、どこまで優秀に動き続けてくれるか」
彼女は去り際、わざとらしくボトルのミネラルウォーターを俺のデスクに置いた。
「……次は、もっと良い水を用意しておくことね」
背を向けて去っていく彼女の足音を聞きながら、俺は大きく息を吐いた。
戦いはまだ始まったばかりだ。
俺は、騎士として、この盤上で彼女を支配するための次の手を探す。
次に会う時、彼女が何を要求してくるのか。
その時こそ、俺は「女王」である花沢京子の王手を、システムで論理的に無効化してやる。
俺の、長い復讐と、そして愛着にも似た執着のゲームは、まだ終わらない。




