第13話 女王の帰還
人事部での日々は、予想以上に俺の肌に合っていた。
同期入社の中でも5年目で主任に昇格したのはわずか10名。俺はその第一選抜を勝ち抜いた。特別に優秀なわけではない。ただ、組織の中で何が求められ、誰がどのような動きをするのか。それを分析し、先回りして準備する。高校時代、あの女王さまに振り回されながら養った「察知能力」が、ビジネスの現場で皮肉にも最大限に活かされていたのだ。
そんなある日、会社を揺るがすニュースが飛び込んできた。
大規模な経営統合である。
世界的な外資系企業が、俺たちの会社を飲み込む。社内は激震した。これまで培ってきた年功序列のぬるま湯は消え、完全実力主義の風が吹き荒れることになる。現場は混乱し、中堅社員たちは明日の処遇を案じて顔を曇らせた。
そんな中、本社から送り込まれることになった「人事担当役員」の噂が、人事部の廊下を駆け巡った。
「冷徹な合理主義者だ」
「海外で数百人のリストラを断行したっていうぞ」
皆が恐怖する中、俺は静かに、しかし冷めた気持ちでその日を待っていた。どんなに過酷な変革であれ、会社が存続する以上、人は必要だ。俺は自分のやるべきことを全うするだけだ、と。
そして着任当日。
役員会議室の前で、俺は他の社員と共に深々と頭を下げていた。
重厚な扉が開き、社長と共にその女性が現れる。
ピンと伸びた背筋。洗練されたスーツ。そして、遠目からでも分かるほどのオーラ。
彼女が通り過ぎようとした瞬間、ふと足を止めた。そして、俺の顔を覗き込むようにして、皮肉な笑みを浮かべたのだ。
「……随分と地味なサラリーマンになったわね、松田くん」
その声を聞いた瞬間、俺の脳内で10年以上の歳月が霧散した。
花沢京子。あの、我がままで女王さまで、俺の人生をかき乱した幼馴染が、なぜここにいる。
「は、花沢さん……?」
周囲の役員たちが怪訝な顔をする。だが、京子は俺をじっと見据えたまま、昔と全く変わらない、あの勝ち誇ったような笑みを浮かべた。長い黒髪は、昔よりも大人びたスタイルでまとめられ、洗練された高級スーツに身を包んでいる。だが、その瞳だけは変わっていなかった。冷徹なまでの知性と、相手を試すような光。
彼女は、社長の後ろに控えていた俺の姿を認めた瞬間、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「……随分と地味なサラリーマンになったわね、松田くん」
その声を聞いた瞬間、俺の記憶は一気に十数年前まで巻き戻された。
俺の心臓が、早鐘を打つ。
周囲の役員たちが「知り合いか?」と怪訝な顔で見ている。だが、京子はそんな空気など意に介さない。
「あ、……花沢、さん?」
思わず昔の呼び方が出かかって、慌てて飲み込んだ。ここは会社だ。しかも、目の前の女は俺の上司であり、全社員の生殺与奪の権を握る役員だ。
「懐かしいわね。『花沢さん』なんて呼ばれるの、中学卒業以来かしら。今は、人事担当役員の花沢よ。よろしくね、主任さん」
彼女は俺の目の前まで歩み寄ると、ヒールの高さを活かして俺を上から覗き込んだ。その距離が近すぎる。昔と変わらない、甘い香水の匂いが鼻をくすぐった。
「あんた、相変わらず情けない顔してるわね。私の部下として働く覚悟はできてるの?」
「……命令ですか?」
「いいえ。期待よ」
彼女はそう言うと、俺の肩をポンと軽く叩いた。
その一撃は、かつて俺を言いなりにさせた時と同じ、支配の合図だった。
会議室に入っていく彼女の背中を、俺は呆然と見送るしかなかった。
その日の午後、俺は彼女の専属補佐として呼び出された。
机の上には、統合後の人員削減案が山積みになっている。
京子は俺に冷徹な視線を向けながら言った。
「まずはこのリストの整理から。それと、会社でのお茶は水道水じゃなくてミネラルウォーターにしてね。昔、あんたが持ってきた水道水、本当に不味かったから」
「……まだ覚えてたのか」
「当たり前でしょ。私の恨みは深いのよ」
彼女は悪戯っぽく笑った。
ああ、終わった。俺の平穏な社会人生活は、ここで終わりだ。
ここから先は、かつての「女王さま」との再戦。しかも今度は、家庭という閉鎖空間ではなく、会社という公的な戦場だ。
俺はリストを手に取り、深いため息を一つ吐いた。
けれど、不思議なことに、絶望感はなかった。むしろ、あの頃と同じように彼女の無茶振りに振り回されている今の状況に、少しだけ懐かしさを感じていたのかもしれない。
「何してるの? 早く始めなさいよ。私の時間は貴重なの」
「はいはい、分かってますよ。花沢役員」
俺はパソコンを開き、キーボードを叩き始めた。
かつての幼馴染が俺の生活を侵食していく。だが、この「再戦」には、彼女と俺しか知らない、特別なルールがあるはずだ。
俺は覚悟を決めた。
東大を出て、主任にまでなった。あの頃の、言いなりになるだけの子供じゃない。
女王さまが帰ってきたのなら、こちらは騎士として迎え撃つまでだ。
こうして、俺の、あるいは俺たちの、予測不可能な社会人編が幕を開けた。
これからの数年間が、今までで一番波乱に満ちたものになることは、疑いようもなかった。




