第1話
大きなお屋敷の入口。
夜を切り取ったような黒髪と、氷のような眼差しを持つ男がわたしを見下ろしていた。
このとき、わたしはまだ知らなかった。
この人がわたしの全てを変えることを。
そして、とんでもない運命が待っていることを。
「入れ。飯にする」
ともかくこの一言が、わたしの人生を変えた。
◆
やっかいもの、と初めて呼ばれたのは、五つのときだった。
最初の村では泣くたびに窓が割れた。次の施設では怒ったとき井戸の水が溢れた。
どこへ行っても同じだった。
魔力が暴れるたびに「化け物」と石を投げられて、追い出された。
そして今、わたしは八つになっていた。
わたしはいつも通り、クレイン男爵家の物置で起き上がった。
息が白かった。
窓の外はまだ真っ暗だった。鐘の音が遠くで三つ響いた。
夜明けまで、まだ二時間はあった。
冷え切った体をさすりながら、毛布をたたんで、床に置いた。
わたしに与えられた部屋は物置の隅で、ベッドはなかった。
毛布一枚と薄い敷布だけ。それでも文句は言わなかった。
言っても何も変わらないから。
蝋燭に火をつけて、台所へ向かった。
廊下は凍えるように寒かった。
男爵家の暖炉に火が入るのは、家族が起きてからだ。
それまでに台所で朝食の準備を整えておかなければならない。
その間に、通いの侍従である老夫婦がやってくる。
それがわたしの仕事だった。毎日、毎日、ずっとそうだ。
台所の扉を開けると、昨夜の灰が竈の中で冷えて固まっている。
氷のように冷たい石の床に膝をついて灰をかき出し、薪を組んで下に小さな枝を置いて火打ち石を打つ。
手がかじかんでうまく動かない。それでも何度も打った。
小さな火花が飛んで、やがて細い炎が生まれた。
よかった。
火がつかないと、また怒られる。
ほっとしたのも束の間、台所から裏庭に出て、井戸へ向かった。
霜の降りた裏庭は一歩ごとにサクサクと音を立てた。と同時に、靴が濡れて足裏の体温を容赦なく奪っていった。冷え切った足が痛くなった。
何も考えないように、何も感じないように、そう自分に言い聞かせながら、井戸の木の蓋を開けた。古い木の蓋はとても頑丈で重い。
井戸綱を握り、水を汲んだ。
たったバケツ2杯の水を引き上げる仕事が、永遠に続く罰のように思えた。
こぼさないように慎重に運んだ水を鍋に張って火にかけながら、わたしは今日やることを頭の中で並べた。朝食の準備、食器洗い、洗濯、廊下と階段の掃除、シャルロット様のドレスの繕い、昼食の準備——。
ひとつまたひとつと追われていると、いつも夜になっていた。
「また火の起こしが遅い!」
鋭い声がして、びくっと振り返った。
男爵夫人が台所の入り口に立っていた。寝間着の上に豪奢なガウンを羽織って、不機嫌そうに腕を組んでいた。
「まだ湯も沸いていないじゃないの。何をぐずぐずしているの」
「申し訳ございません、今すぐ——」
「口ごたえはやめなさい」
夫人はわたしを一瞥して、鼻を鳴らした。
「まったく。やっかいものの上に役立たずとは。拾ってやった恩も忘れて」
拾ってやった。
その言葉を、わたしは何度聞いただろう。
数えるのをやめたのはずいぶん前だ。
「早くやるのよ」
夫人は踵を返した。
廊下に消えていく背中を見ながら、わたしは鍋をかき混ぜ続けた。
怒りも、悲しみも、感じなかった。
感じないようにしていた。感情が動くと、魔力が暴れるから。
鍋が、ぐつぐつと音を立て始めた。
わたしは顔を上げた。窓の外が、少しだけ白み始めていた。
朝食の準備が整うと、家族が食堂へやってきた。
男爵が先に座り、続いて夫人が入ってきた。ふたりとも、わたしを見なかった。わたしはテーブルにスープとパン、ハムと茹でた野菜を並べた。
「シャルロットはまだなの」
夫人が苛立たしげに言った。
「呼んできます」
「いいわ、あなたは下がってなさい」
下がってなさい、というのは、食堂の隅で壁に背をつけて立っていろという意味だった。食事の追加や片付けが必要なときにすぐ動けるように。わたしはいつもそうしていた。
テーブルにわたしの分の皿はないのはもちろんだが、奥にもなかった。
朝食は後で台所に残ったものを食べる。それが決まりだった。
しばらくして、シャルロット様が眠そうな顔で入ってきた。ふわふわのガウンを羽織って、栗色の巻き毛を揺らしながら椅子に近寄る。夫人がすかさずわたしに手で合図を送る、椅子を引いて座らせてあげなさい、という指令だ。
「よく眠れた?シャルロット。顔色がいいわ、今日も特別かわいいわね」
「もう、ママったら」
シャルロット様はうれしそうに笑った。それからスープを一口すすって、すぐに顔をしかめた。
「ぬるい」
「まあ!ぬるいの?かわいそうに。ねえやっかいもの、聞いてたでしょう。シャルロットのスープがぬるいって言ってるのよ」
「申し訳ございません、すぐに——」
「はあ……信じられないわ」
シャルロット様が声を上げた。
「朝からずっと台所にいて、スープひとつまともに作れないの?わたしだったら絶対できるわ。ねえパパ、ひどいと思わない?」
「ひどいな」
男爵がパンをちぎりながら、うんざりしながら言った。
「ほらパパもそう言ってるじゃない!」
シャルロット様は勝ち誇ったように胸を張った。夫人がうんうんとうなずいた。
わたしは台所へ戻りスープの鍋をもう一度火にかけた。廊下を通るとき、通いの侍従老夫婦のオットーさんとすれ違った。彼はわたしの姿を見た瞬間、さりげなく廊下の端に寄って遠回りした。目は合わせなかった。
慣れていた。慣れるしかなかった。
温め直したスープを持って食堂へ戻ると、今度はシャルロット様が野菜を皿の端に寄せていた。
「この野菜べちゃべちゃ。わたし、こういう野菜きらいなの。ねえママ、わたしってグルメだと思わない?」
「そうよ、シャルロットは生まれつき舌が上等なのよ。やっかいものみたいな育ちの悪い子には一生わからないわ」
「本当にそうよね!」シャルロット様はわたしをちらりと見て、ふふんと鼻を鳴らした。
「かわいそうに、おいしいものを食べたことがないのね。
そんなガリガリじゃあね」
シャルロット様が笑いながらわたしに野菜を投げた。
怒りも、悲しみも、感じないようにしていた。
落ちた野菜を拾った。
あとでこれも食べようと思った。
この人たちは、わたしが食べることを悪いことのように言うのであまり食べられない。
でもお腹はすいてしまう。
「下がりなさい」
夫人が言った。
この場合はたぶん、ほんとに下がれってことだ。
こういうのも、最初の頃は間違えてよく怒られた。
わたしは食堂を出た。台所に戻ると、鍋の底に残ったスープと、パンの端切れがあった。それがわたしの朝食だった。
石の床に腰を下ろして、冷めかけたスープを口に運んだ。
美味しいとも、まずいとも思わなかった。
ただ、食べた。
ふと、遠い記憶が浮かんだ。
朝になるとあたたかい匂いがした。パンを焼く匂いと、それからもうひとつ、なんだったか——。思い出そうとすると、するりと消えてしまう。
覚えているのは、笑顔だと温かい空気――。
その人の顔は、もうよく思い出せない。
鍋が空になったので窯から降ろして洗った。
食堂の食器を持ってきてそれも洗う。
すべて片づけると、掃除、洗濯、繕いと次の仕事に取り掛かった。
今日も同じ一日が始まる。




