エピローグ:海は、まだそこにあった。
六十年後。
東日本沿岸。
海沿いの遊歩道。
石畳の一角だけ、色が少し違う。
濃くもなく、薄くもない。
時間が、そこだけに滲んだみたいに。
あの日、水がゆっくりと入り、
そして、ゆっくりと止まった場所。
説明板はない。
観光地にもなっていない。
ただ、
知っている人が、ほんの少しだけ歩幅を緩める。
杖をついた老人が、そこに立っている。
八十代後半。
神代だった。
退官後、彼は東の海のそばに住んだ。
理由は、誰にも話していない。
あの日のグラフ。
上がり続けた線。
止まった瞬間の、あの沈黙。
なぜ止まったのか。
答えは、結局出なかった。
自然の偶発連鎖。
公式見解は、それだけだ。
だが神代は、ときどき思う。
杖を握る手に、ほんの一瞬だけ力がこもる。
あの夜、研究室で見たみことの顔。
数字を見つめながら、
ほんの一瞬だけ、遠くを見ていた目。
あれは恐怖だったのか。
諦めだったのか。
それとも――
ただ、その表情だけが、
今も記憶に残っている。
神代は海を見る。
静かだ。
だが、完全ではない。
彼はゆっくりと歩き出す。
西日本沿岸。
高台に、白い建物が建っている。
六十年前、水位が止まった高さより、ほんのわずかに上。
意図して、その位置に建てられた資料館。
毎年、この日だけ訪れる二人がいる。
八十代前半になった千里。
その隣に、紗奈。
言葉にした約束ではない。
ただ、決まった日に毎年来ている。
白い壁。
控えめな照明。
展示ケース。
《同時多発自然災害》
《原因:未確定》
説明は短い。
そして、小さなパネル。
《佐倉みこと(20XX–)》
《世界が答えを求めた日、語らなかった女性。》
それ以上は、書かれていない。
英雄とも、犯人とも書かれていない。
ただ、語らなかった。
それだけが残っている。
千里「……変わらないね」
紗奈「変えなかった人がいたんだよ」
千里は、小さく息を吐く。
資料館を出て、坂を下る。
三浦のスーパー。
風鈴が鳴る。
蒼太「いらっしゃいませ」
顔を上げ、少し笑う。
蒼太「あ、今年も」
千里「うん」
壁に、古い写真。
若い三浦茂雄と、抱かれた赤子。
その赤子が、今レジを打っている。
蒼太「じいちゃん、あの展示だけは絶対触るなって」
紗奈「そうだったね」
蒼太「“英雄にするな。犯人にもするな。語らなかったってだけでええ”って」
軽く笑う。
重さは、知らない。
蒼太にとっては、遠い昔話だ。
ただ、祖父の言葉は覚えている。
「水がな、音もなく店にも来たんや」
それだけの話。
買い物袋を受け取り、二人は店を出る。
千里の実家。
縁側。
柿の木は、六十年前と同じ場所に立っている。
湯のみから、細い湯気が上がる。
紗奈「……怒ってるかな」
千里は、少しだけ笑う。
千里「怒る人だった?」
紗奈も笑う。
「違うね」
それ以上は言わない。
海の音が、遠くにある。
東と西。
それぞれの海。
その境界も、今は曖昧だ。
世界は続いている。
壊れきらなかっただけの世界。
それでも生活はある。
誰かの沈黙の上に。
海は、まだ、そこにあった。
静かに。
何も言わずに。
風が、少しだけ強くなる。
遠くの防潮堤に、ひとつ影が立っている。
作業着のようにも見える背中。
振り返らない。
海を見ている。
それが誰なのか、確かめる者はいない。
ただ、音はあった。




