第21話:千里
翌朝。
みことは、母が起きる前に家を出た。
玄関を閉めたとき、家の中は静まり返っていた。
昼下がりの研究室。
曇り空。
蛍光灯の白が冷たい。
キーボードの音が規則的に響く。
その中に、弾む声が混ざる。
千里だ。
千里「えー、ほんと? お母さんまたそれやったの?」
笑い声。
明るい。
自然だ。
千里「だから言ったじゃん、ちゃんと高いところに置いといてって」
電話の向こうからも笑い声が聞こえる。
食器の触れ合う音。
テレビの音。
誰かが戸を閉める音。
犬の鳴き声。
生活が、動いている。
少し間。
千里「……うちは助かったね」
向こうで、母の声。
千里は返事ができない。
沈黙。
“助かった”。
その言葉が重い。
それでもすぐに戻る。
千里「今度帰ったら一緒に片付けるよ」
笑う。
その笑いは、本物だ。
無理に作ったものじゃない。
みことの指が止まる。
胸の奥が、硬くなる。
嫌いじゃない。
むしろ、救われる音のはずだ。
でも。
それは、“続いている世界”の音だ。
もし。
もし、あの夜。
自分が選択していたら。
千里の家は。
あの笑いは。
食器の音は。
犬の鳴き声は。
消えていたかもしれない。
みことの喉が乾く。
千里「あ、うん聞いてる聞いてる!」
また笑う。
その笑い声が、みことの胸に落ちる。
選ばなかった。
だから、ここにある。
でも。
東の港は沈んだ。
父は戻らない。
自分の家は、止まったままだ。
千里の家は、進んでいる。
みことの家は、待っている。
その差は、自分の意思と結びついている。
千里「じゃあまたね」
電話が切れる。
千里は、まだ少し笑顔のまま。
その笑顔が、少しだけ曇る。
みことと目が合う。
千里「……」
何か言いかける。
やめる。
その優しさを、みことは見逃さない。
でも。
距離が、できる。
みことは、キーボードを打つ。
規則的な音。
曇り空。
蛍光灯の白。
千里の笑い声は、まだ耳に残っている。
それは、
自分が選ばなかった世界の音だ。
その事実が、静かに胸を締めつける。




