念願の小説
リゼ・フローレンスは木漏れ日の中を軽い足取りで歩いていた。肩からは斜めに鞄をぶら下げており、その鞄の中にはやっとの思いで読み終えた猫の冒険譚が入っている。
スプーン戦争の小説を求めてエトランゼ大図書館に来たが、生憎その小説が貸し出されてしまっていたと分かってから二週間。延長手続きをしなければ、本の貸し出し期間は二週間なので、リゼは今度こそ、と例の小説を借りに来たのだった。
この二週間、リゼと父が経営する食堂・フローレンスは過去にない忙しさだった。リゼは毎晩小説を読む時間を取っているが、その時間すら惜しいほどに体は疲れ果てて、先週借りた小説は昨夜やっと読み始めたくらいだった。
読み始めてしまえばページを捲る手は止まらず、何とか読み切ることは出来たが、それにしても忙しかったのだ。
何故、突然客が押し寄せてきたのか。それは、二週間前に遡る。
*****
リゼが大図書館でアニカから旗の説明を受けた次の日のことである。客が帰り、いつものように夜の店掃除をしていたリゼは、ティモーに呼ばれたのだ。
「なあ、リゼ。今朝久々に郵便受けを見たら、こんな手紙が届いていたぞ」
ティモーは、次の日のスープの仕込みのために厨房に居た。彼はエプロンのポケットから白い封筒を取り出して、カウンターの上に置いたのだ。
リゼは「毎日開けてよ」と呆れ顔で彼を見て、テーブルを拭く手を止める。彼の元に行って、カウンターの上に置いてある手紙を手に取った。横長の封筒で、上質なものであることが分かる紙触りに、はてと首を傾げる。
便箋の中央には、金色のロゴが入っている。フォークとスプーンがクロスしているというものだ。まさか、と思ってくるりとひっくり返すと、裏側には美しい字が並んでいた。
「スプーン戦争実行委員会」。
リゼは胸が高鳴るのを感じた。そこは、あのメレディスが居るところである。
実行委員会から一体何の手紙が来るというのだろう。
まだスプーン戦争という魅力的な祭典を知って数日の彼女は、その祭典に対する熱が冷めきっていなかった。むしろ日が経つにつれて興味は留まることを知らず、まるで泉のように湧き出てくる。
「開けてみていい?」
リゼは待ちきれずに父に聞いた。「おう、いいぞ」とティモーはスープを掻き混ぜながら言った。
リゼは封筒を開く。黄色い蝋のスタンプで手紙は閉じられていた。コインのように平べったいスタンプには、よく見るとサザリアの花の模様が刻まれている。サザリアは、この国ならば知らないものは居ない、最も国民に親しまれている植物だ。
封筒には三枚の紙が入っていた。リゼはそれらを一枚一枚見ていく。
まず一番初めに見えたのは、「スプーン戦争参加意思表明書」と書かれた紙であった。長々しい名前に思わず身構えそうになるが、どうやらスプーン戦争に参加するかどうかを確認するためのもののようだ。
「何て書いてあるんだ?」
「えーっと......スプーン戦争参加意思表明書だって。参加する人は欄に丸を書いて、エトランゼ相談所に提出してください。非参加の場合は丸を書かず、差し支えなければ理由を書いて提出ください、だって」
「参加するかどうか確認するのか。あとは?」
リゼは二枚目に移った。それは建物保護方法と、それに関する物資の配達についての用紙だった。
「二週間後より建物保護を開始致します。スプーン戦争実行委員会より各地区に委員を派遣しますので、それまでに下記の準備をお願い致します。店を営業している場合は建物保護の日までに営業を休止し、建物の簡易的な掃除と、小物の片付けをお願い致します......だって」
リゼはぐるりと店内を見回す。装飾品としての小物はそこまで多く無いが、皿など割れる可能性のある食器があるのでしまう必要がある。これを二週間で済ませなければならないのだ。
リゼは仕立て屋のプリシラの店の中を思い浮かべる。彼女も今この手紙を読んでいるだろうか。あの服の数を片付けるのは大変な事だ。
パン屋のキースとコートニーの夫婦はどうするだろう。まさか、パンを保護するわけがない。そもそも焼くわけがないのだ。小麦粉も無いのだから。
「片付け、か」
ぐるりと厨房の中を見回す父に、リゼは「早めにお店閉めないといけないよ」と釘を刺す。料理に関しては誰よりも素早く動けると言うのに、掃除に関しては亀よりも遅い。カタツムリにだって追いつけないだろう。
苦い顔をする父を置いて、リゼはまだ続いている文章を読み上げた。
「保護する際、必要なものは事前に各家に配達します。箱は開けず、そのままの状態で置いておいてください、だって」
フローレンスの保護作業は最低限だ。日常的な光景の中で、非日常のスプーン戦争を楽しみたいというリゼの提案により、ティモーが書類にそう書いてくれたのだった。保護が必要な場所は、予め実行委員が下見でチェックしてくれているので、リゼ達が心配する必要は無い。
今日の接客をしている途中で耳が拾った会話では、最低限の保護がされるならば、建物全体を覆う布はいらない、という意見が多かったような気がする。
数日前の地区総会での話の概要は、既に相談所前の掲示板に張り出されている。皆、自分の店に来た黒ローブの正体が分かったので安心したらしい。保護は徹底されていると皆信頼し始めているのだろう。
彼らはきちんと安全に配慮するのだ。歴史ある祭典で、何も考えずに事が進められるなんていうことはないだろう。
「それで、最後は......」
リゼは三枚目の紙に目を通した。それには、「スプーン戦争説明会の案内」と書かれていた。
ちょうど一ヶ月後のこの日、エトランゼ大図書館のホールで、実行委員会の委員から直接、祭典に関する説明が行われるようだ。地区総会で行ったものを、さらに細かく区民に伝えるというものだろう。
「会場の広さには限りがあるので、一家で一人のみ参加が可能です、だって」
「一家で一人か」
ティモーがスープを混ぜる手を止めた。小皿に分けて味見をし、細かく調味料で味を調整している。
「俺じゃ無理だな。リゼ、頼む」
「えっ!?」
リゼは思わず自分を指さした。
「私? 私が行くの?」
「おう。だってほら俺、説明会なんて長ったらしいの聞いてたら絶対寝るぜ? 自信ある」
「堂々と言わないでよ......」
しかし、リゼは彼の意見に一理あった。
ティモーは地区総会では寝ない。すぐに終わるからだ。
一方で、時折開かれる他地区との少し大きい会議は長いので、椅子に座ったままコクコクと寝てしまうのだ。仕舞いには大きないびきをかくので、リゼは彼が大きな話し合いに呼ばれた時にはついていかないことにしている。隣に座っていると赤っ恥をかくのだから。
そういう時は、優しいカスペルが会議の概要を後日まとめて渡しに来てくれるのだ。リゼは申し訳なく思いながら、彼にお礼の手作りお菓子をあげるのだった。
そういうことなので、ティモーはこの説明会に出るべきでは無いだろう。五十年に一度の大事な祭典の情報を聞き漏らしては、楽しもうにも楽しめない。
「分かった。じゃあ、私が参加するよ」
リゼが頷くと、ティモーは「助かるぜ!」と満面の笑みを浮かべている。リゼは不思議だった。
どうして、料理をしている時に寝ることは無いのに、説明会ではぐっすりと眠ってしまうのだろう。料理をしながら説明会を聞くのが、一番良い方法かもしれない。
リゼは改めて説明会の案内用紙に目を落とす。紙の右下には「祭典に不参加予定の方もなるべく出席するようにお願い致します。」と小さく書かれていた。
果たして、国民のどれくらいがこの祭典に参加するのか。カスペルが言うには、国民全員に参加義務があるという話だったが、何を持っての参加なのだろう。参加をしない者は何をするのか。
「何だか本格的に準備が始まってきたなー」
「うん」
リゼは封筒に紙をしまう。
「でも、楽しそう。まだほとんど何も知らない状態だけど、アニカさんは楽しい祭典だって言ってたよ」
「そうだな。まあ賛否両論あるって、あの兄ちゃんも言ってたしな。反対する人も居るみたいだが......これだけ準備してくれるんだったら、良い祭典になるかもな」
「うん」
リゼは頷いて、封筒をもう一度じっくりと眺める。表紙に刻まれたクロスしたスプーンとフォークのロゴは、何処かの食事処の看板にありそうなものに思えるくらい、シンプルでありふれたデザインだ。それでも、このロゴに込められている意味は大きいのだ。フォークとスプーン。ひとつは本物の戦争を、もうひとつは平和を願う模擬戦争を表す。交差することで、二つの祭典が持つ思いを重ねているのかもしれない。
リゼはそう思うのだった。
*****
実行委員会のロゴを知ることができたのは、あの手紙を受け取ったことを唯一前向きに捉えられる出来事だった。その反対に、あの手紙を受け取ったことは、怒涛の二週間の始まりでもあったのだ。
手紙を受け取ったのは全国民。飲食店がスプーン戦争の準備で続々と閉まるということが分かって、何処の店もかつてないほどの忙しさを経験した。
フローレンスも例外ではなく、来る客は皆口を揃えて「祭典中は店を閉めるんでしょう?」と聞いてくるのだった。リゼはその問いに頷くしかない。首を縦に振りすぎて、リゼは一生分の肯定をその二週間で経験したような気さえするのだった。
長い間、飲食店に入れないことを嘆く客も多かった。食べられなくなる前に食べておこうという思考が、エトランゼに限らず他地区でも働いたようだ。他地区からも沢山の客がフローレンスに足を運んだ。
こうしてフローレンスは怒涛の二週間を潜り抜け、ようやく今日から休みを得ることになった。他の店も着々と閉店準備を進めているらしい。
噂では、エトランゼの端から建物保護が始まったそうである。フローレンスがある通りはまだ建物保護が行われていないが、祭典の開始は確実に近づいてきているようだった。
さて、リゼはエトランゼ大図書館に通じる小さな森の一本道を抜けた。遮断されていた太陽の光が満遍なく体に降り注ぐと、グッと伸びをしたい衝動に駆られる。しかし、それは目の前からやって来る一人の男によって遮られてしまった。
その男は黒いローブを身にまとい、そのローブに着いたフードを目深に被っていた。
黒いローブ__スプーン戦争実行委員会の者の格好だ。
リゼは隣を通る彼に一瞬だけ視線を送った。ローブの中には青い瞳があった。鋭く、リゼを睨みつけているようにも見えたが、眩しい太陽の光を鬱陶しく感じているようにも思えた。
メレディスではなかった。
リゼはあの赤い瞳を想像していたので、拍子抜けした気分だった。
あの夜にフローレンスに食べに来た客の一人だろうか。あの時にフードを被っていなかったのは、赤い髪の短髪の男と、灰色の髪の青年だけだった。双方とも今の男のような目の鋭さは持っていなかったので、また違う人物のようだ。
その男とは、そのまますれ違った。彼が正面から歩いてきたということは、彼がエトランゼ大図書館に用事があったということだが__。
翻る旗に目を奪われ、その奥で待っている念願の小説に心躍らせる少女には、今起きた出来事は気に留めないことだったようだ。
*****
「ちょうど今返却されたところだよー」
「本当ですか!? やった!」
エントランスに入るや否や、リゼはカウンターで作業をしているアニカのもとへ飛んで行った。彼女に例の小説について問うと、たった今戻ってきたようで、それは彼女の背後にある棚に収まっていた。
リゼの手にやって来た小説は、表紙に列を成して行進する子供や大人の姿があった。手には切っ先の丸い木製の剣が握られ、それはおもちゃであることが伺える。人々を照らす暖かい太陽の光や、彼らの顔に浮かぶ楽しげな表情は、戦争とは遠くかけ離れた雰囲気を感じさせた。
じっくりと表紙を眺めているリゼに、アニカは微笑んだ。
「良かったね」
リゼは大きく頷いて、小説を大切に鞄の中にしまった。
「リゼちゃんのお店は、今日から営業休止だっけ」
「はい。だからこの二週間はすごい数のお客さんが来て......本を読む暇もなかなか取れなかったんです」
リゼが読み終えた小説を返却し、肩を竦めると、アニカは「あらあらー」と目を丸くした。
「じゃあ、祭典が始まるまでちょっとはゆっくりできるかな。と言っても、お店を片付けないといけないし、祭典のために用意するものとかあるだろうし、なかなかゆっくりはできないか」
リゼは「そうなんです」と苦笑した。店は昨日で終わりだが、建物保護のために店の片付けをしなければならない。この際なので、二階のリゼとティモーの居住スペースも片付けてしまおうという話も出ていた。
「お父さんは片付けが苦手だから、たぶん、私がほとんど動くことになりそう」
リゼが言うと、アニカは笑った。
「リゼちゃんは働き者だねえ」
それから他愛も無い話で盛り上がり、リゼはそう言えば、とアニカに是非聞こうと思っていたことを思い出した。これだけは何としてでも聞いておかなければ。自分の娯楽に関わる大事なことだ。
「そう言えば、大図書館は祭典中どうなるんですか?」
祭典中となると、本を読んでいる暇は無いだろう。しかし、もしかしたら敵を待つ間、一日どころじゃなく、三日も四日も待つことになったら__本を読んで過ごすことが出来るのだ。
そうじゃなくても、借りている小説は返さなければならない。祭典中でも返却手続きは出来るのだろうか。
「貸し借りのサービスはできないんだけれど......実はね、本棚だけ布で覆って、あとは全部開放することになってるんだよ。いざと言う時は此処に逃げ込んで......本棚の隙間で剣を振るう、なんてこともできちゃうよ!」
アニカは片手を元気よく振り回す。剣を持っている体で話をしているようだ。
「ほ、本当ですか?」
リゼは思わず前のめりになった。リゼがフローレンスの保護作業を最低限にしたのと全く同じ理由だった。日常に近い風景で非日常を体験出来るのだ。それは、今まで感じたことのないワクワク感を彼女の胸に湧き上がらせるのだった。
「大図書館は、実行委員会と縁が深いんだよ。戦場になるだけじゃないの。二週間後には此処のホールで実行委員の方からの説明会があるし......まあ、それまでの準備でとんでもなく忙しいんだけどね」
アニカは頭を掻いて笑った。
「とにかく、祭典で忙しいだろうし準備もあるし、本の返却期限は祭典の終了までに伸ばしてるから、焦らずゆっくり読んでね!」
「ありがとうございます!」
開戦まで本を読むほどの暇がないくらいに忙しいことは、十分予想できる。店は閉まっていても、掃除や準備でそれどころではなくなってしまうだろう。本格的に読み始めるのは開戦してからのような気さえするのだ。
「アニカ、ちょっと手伝って!」
「あ、ブリーレさん! 今行きますね!」
カウンターに最も近い扉が開いて、そこからいつかの女司書が顔を覗かせた。あの扉の向こうはホールがあるはずだ。二週間後に彼処で説明会があるのである。司書の背後には多くの人の気配があった。此処では既に本格的な準備が進められているようだ。
「じゃあ、リゼちゃん! 二週間後の説明会、絶対に来てね!」
「はい! お仕事頑張ってください!」
リゼは小走りで扉に向かう彼女を見送り、大図書館を出た。まだ午前中なので、空は明るい。ゆっくり帰ろう、と彼女が森の一本道に向かう時、ふと旗の前に人影を見た。
それは、いつも大図書館の庭園の手入れをしている老いた男だった。彼は旗をじっと見つめていた。その向こうに居るリゼには気づいていないようだ。
手を動かしていないところを見ると、仕事の邪魔にはならないだろう。
いつもなら話しかけない彼女だが、今日は彼に話しかけようという気が起きた。小説も手に入って、気分が高揚していたのだ。
「こ、こんにちは」
リゼは彼の横に立った。彼は目線を旗から外さない。
「綺麗な旗ですよね」
リゼはそう言って、視線を男から旗に向けた。真っ赤な旗は、今日も風ではためいている。
男はまだ口を開かなかった。リゼはおずおずと彼の顔を見上げた。深く刻まれたしわ、険しい表情。急に話しかけられたことに怒っているのかもしれない。調子に乗りすぎてしまったのだろうか。
リゼはどうしたら良いか分からず、再び視線を旗に戻す。
すると、
「恨みの籠った旗だよ」
そんな嗄れた声が聞こえてきて、リゼは思わず「え?」と聞き返す。
しかし、男はもう旗を見ていなかった。草むしりをするようで、近くの花壇に背を丸めてしゃがみこんだ。
リゼはその様子を見てから、旗に目を戻した。
恨みの籠った__。
リゼはアニカが言っていたあの話を思い出す。フォーク戦争で、魔族に対する勝利を刻んだこの旗。平和を意味すると共に、魔族にとっては敗北の象徴なのだ。だが、きっともうそれは過去の話。それを忘れないための祭典なのだから。恨みを込めた張本人たちも、この祭典を柔らかい眼差しで見守っているはずだ。ちょうど、この暖かい陽の光のように。
リゼは旗に微笑み、くるりと背を向けた。そして、木漏れ日が注ぐ小さな森の道を、肩にかかる幸せの重みを感じながら歩いていくのだった。




