シルヴァ家、接近
砦の空気が、変わった。
それは音ではなかった。
匂いでも、風でもない。
人の動きだ。
中庭を行き交う足取りが、どこか早い。
立ち話が増え、声が低く抑えられている。
誰もが、同じ方向を気にしている。
――外。
旧アグナス領の、そのさらに向こう。
国境線の、手前。
俺は執務室で、最後の書類に目を通していた。
指先で紙を押さえ、署名を入れる。
完了。
その瞬間だった。
扉が、ノックされる。
間を置かずに、開いた。
「殿下」
入ってきたのは、情報役の男だ。
いつもは感情を削ぎ落とした顔をしているが――今日は違った。
わずかに、息が乱れている。
「報告があります」
俺は顔を上げる。
視線が合う。
その目が、言っていた。
ただ事ではない、と。
「言え」
短く促す。
男は一歩前に出て、声を落とした。
「……シルヴァ家です」
その名を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが――跳ねた。
「移動を開始しました」
一瞬、思考が止まる。
……何だと?
「ハーバル王国を離脱。
領民、従者、物資を伴い、旧アグナス領へ向かっています」
言葉が、理解に追いつかない。
移動?
離脱?
今、この時期に?
俺は、ゆっくりと息を吸った。
喉の奥が、ひりつく。
「……本気か?」
思わず、そう漏れた。
男は、頷く。
「確認済みです。
規模は大きく、隠す意図は見られません」
机の上に置いた手に、力が入る。
木目が、きしむ。
――嘘だろ。
頭の中で、同じ言葉が反響する。
あの家は。
シルヴァ家は。
政治の重さを、分かっている。
支援がどれほど危険かも、理解している。
それでも。
娘が、生きていると知った途端に――
国を捨てて、動いた。
「……本当に、来ているのか」
確認するように、もう一度呟く。
男は、はっきりと答えた。
「はい。
進軍ではありません。
――移住です」
移住。
その単語が、胸に落ちる。
国を捨てる覚悟。
貴族としての地位も、安定も。
すべてを置いて。
娘の傍へ。
喉が、鳴った。
……凄まじい。
俺は、椅子に深く腰を下ろす。
背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
燭台の炎が、ゆらりと揺れている。
――メイ。
彼女は、まだ知らない。
研究室で、きっと。
ノートを広げて。
材料の配分を考えて。
救える人数を、増やそうとしている。
そんな彼女の元へ。
家族が、民ごと、向かっている。
砦が、ざわつくはずだ。
「到着予測は?」
「このまま順調に進めば……数日以内です」
数日。
近い。
あまりにも。
俺は、目を閉じる。
頭の中で、盤面が動く。
政治。
権力。
支持。
そして。
彼女。
――これは、もう。
後戻りできない。
シルヴァ家が来れば。
メイは、ただの一錬金術師ではなくなる。
血。
名。
背後。
すべてが、彼女を“象徴”に押し上げる。
囲い込む?
いや。
もう、囲い込まれているのは――
この国そのものかもしれない。
俺は、目を開けた。
「……知らせるな」
男が、息を止める。
「メイには、まだだ」
「承知しました」
今、彼女に伝える必要はない。
混乱させるだけだ。
まずは、迎える準備をする。
砦を。
国を。
――俺自身を。
「他に?」
「……領民の数が、想定以上です」
男が、言い添える。
「シルヴァ家は、本気です」
俺は、笑った。
声は出なかったが、確かに口角が上がった。
「……ああ」
本気だ。
本気で、娘のところへ来る。
砦の外で、風が鳴った。
どこか、暖かい風だ。
ざわめきは、もう止まらない。
そして。
彼女だけが、まだ知らない。
嵐が、
すぐそこまで来ていることを。




