第十三章 廃墟の上の帳簿と新たな契約
轟音は、ついに遠くの雲海の奥へと消えていった。
かつて我が物顔で空を支配していた十二隻の執行飛舟は、墜落するか、敗走するか。
その結果、雲中坊市の支配権は、完全に地上へと取り戻された。
第七街区の瓦礫の間。
引き裂かれた雲の隙間から差し込んだ陽光が、九死に一生を得た無数の散修や平民たちを照らしている。
歓声。
泣き声。
生き残ったことへの安堵。
それらが入り混じり、騒がしくもどこか温かな、人の暮らしの音となって街に広がっていた。
そして空中では――
二度の大戦をくぐり抜けながらも、なお倒れなかった「空中書斎」が、ゆっくりと下降していく。
やがて、路地の奥にある元の土台へ、ぴたりと収まった。
ギィ……。
ようやく修理したと思った矢先、またしても叩き壊された木の扉が、今度こそ限界だと言わんばかりに軋んだ。
林野は足元に転がっていた黒焦げの金属片を蹴飛ばすと、大股で店の奥へ戻っていく。
そして、すでに古びた姿を取り戻した刃なき聖剣をカウンターの上へ放り置くと、今度はあのぼろぼろの帳簿を取り出した。
鉛筆を口にくわえたまま、林野は帳簿をぱらぱらとめくり始める。
その後ろから墨清が書斎へ入ってきた。
床に散らばる古書。
空気中にまだ消えずに残っている、淡い金色の光。
それらを見渡した墨清は、思わず眉を上げた。
「外では何百人もの人たちが、あなたを『第七街区の救世主』として拝もうとしてるっていうのに――」
「あなたときたら、帰ってきて最初にやることが帳簿の計算?」
「当たり前だろ」
林野は呆れたように墨清を一瞥し、帳簿に大きく丸をつけた。
「さっきの審判廷の馬鹿ども、上等な紅木の扉を三枚ぶっ壊しただろ」
「南側の壁の本棚も六つぶち壊した」
「そのうえ、唖叔の店の前にあった豆腐用の石臼までひびを入れやがった」
「この勘定を編劇会に払わせないで、誰が自腹を切るんだよ?」
墨清は、そんな俗っぽいくせに妙に真剣な林野の姿を見て、とうとう堪えきれず、
「ふふっ」
と吹き出した。
彼女はカウンターの前まで歩いていくと、半分から折れた制式長剣を軽く机の上へ置いた。
「分かったわよ、店主さん。帳簿にはちゃんとつけておきなさい」
「どうせ、しばらくは編劇会も人を送り込んでくる余裕なんてないでしょう」
だが――
墨清の笑顔が消えた。
彼女は壊れた窓から坊市の中心区を見つめる。
そこには、すでに光を失った高塔がそびえていた。
「……でも」
その表情に、わずかな緊張が戻る。
「雲中坊市の編劇会支部は、私たちが叩き潰した」
「だけど、『至高編劇会』の本部は、雲の彼方にある」
「今日、あなたはあいつらの脚本をめちゃくちゃに引き裂いた」
「きっと、このまま黙って終わるわけじゃない」
墨清はそう言って、林野の腕の中にある一枚の残頁へ視線を向けた。
「それに……私が持ち出したこの『原生書頁』も、本当の秘密はまだ何一つ解明されていない」
林野は鉛筆を止めた。
そして、墨清を一度だけ見上げる。
「兵が来れば兵で迎え撃つ。水が来れば土で塞ぐ」
林野は肩をすくめた。
その口調は穏やかだったが、そこには妙に揺るぎのない確信があった。
「本部だろうが、総編劇だろうが知ったこっちゃない」
「ただ――」
「こいつらが第七街区に手を伸ばしてきて、俺の家賃集めと、街の連中の暮らしを邪魔するってんなら……」
林野は口の端を上げた。
「その連中のボロい本を、全部ただの紙屑にして燃やしてやるよ」
墨清は、わずかに目を見開いた。
目の前にいる青年。
一見すると、いい加減で、金に細かくて、どこにでもいるような店主にしか見えない。
だが、その芯には、誰よりも頑固なものがある。
そのことを改めて感じた瞬間――
墨清の胸に、これまで感じたことのないような安心感が静かに広がった。
その時だった。
書斎の外から、慌ただしく、そして急いだ足音が聞こえてきた。
「林小子!」
唖叔だった。
その後ろには張じいさん、そして坊市中の大勢の街の人々が続いている。
彼らの手には武器などなかった。
代わりに抱えられていたのは、大きな包みに入った蒸したての肉まん。
湯気の立つ豆腐脳。
さらには、普段ならもったいなくて飲めないような、粗末な散修濁酒まで何本もあった。
「林小子! 無事か?!」
唖叔が店に飛び込むなり、節くれだった大きな手を林野の肩へ叩きつける。
その目は真っ赤になっていた。
張じいさんはさらに豪快だった。
湯気の立つ獣肉まんの包みを、そのままカウンターへどんと置く。
「よくやったぞ、小僧!」
「普段からお前に買ってもらってる肉まんも、今日は無駄じゃなかったな!」
「今日、あの偉そうな連中を、とうとう追い払ってくれた!」
「これからは、お前の浮世書斎の家賃――」
「第七街区のみんなで全部払ってやる!」
「そうだ! 全部こっちで払うぞ!」
周囲の街の人々から、どっと歓声が上がった。
林野は目の前に並ぶ、見慣れた、そして生き生きとした顔を一つ一つ眺めた。
先ほどまで戦闘で張り詰めていた神経が、ようやく完全にほどけていく。
そして――
林野の顔に、いつものあの明るい笑顔が戻った。
彼は胸を軽く叩く。
「いいって、いいって!」
「家賃を払ってくれる人がいるんなら――」
「今夜は書斎で、全員まとめて帳尻合わせだ!」
「今日は誰も帰さねえぞ!」
狭く、古びた浮世書斎いっぱいに、陽の光が降り注いだ。
無数の、壊れたものだらけの街。
それでも、そこには確かに生きている人々の笑い声があった。
その笑い声の中で――
第二巻の物語は、この瞬間、初めて地面へと根を下ろした。
そして林野の懐にある、欠けた一枚の書頁が、かすかな墨の香りを漂わせながら――
遥か彼方。
まだ誰も知らない世界を、静かに指し示していた。




