6 知り合いの死
久利は窓を開き差し込む光に身を焦がす思いを抱いていた。睡眠時間は充分でありながらも一日の始まりを象徴するかのように付き纏う気怠さは陽光を浴びることで消し去ることが出来るだろう。
「必要な時間だ、仕方ないか」
先程と比べて思考が透き通って来た事を確認して朝食をいただくべく下りる。それからの行動は食事という心理の動きというよりは必要な栄養を摂るというだけ。食料を胃に入れて水で流し込む。それからすぐさま鞄を手に取り家を出る。歩き始めて十数分が経っただろうか。会社に辿り着いてため息をついてしまった。
「通勤時間なんか要らない、ここに住むのが一番無駄が省ける」
この命に意味などないのが当然だとするならばやはり会社を家として無駄なりに必要以上の活動をしないことが鍵だろうか。感情などという無駄を消し去りたい衝動に襲われ上司の元へ歩み寄り相談するも言葉を受けて軽く笑って流すだけ。
「久利はこれ知らないか、昔は感情を失くす手術があったんだとか」
強引に受けさせられた人物がかつて持っていた感情の残滓に引っ張られて復讐を果たしたなどとあったのか無かったのか判別し難い話をされて久利は鼻で笑う。上司が口にした冗談としか捉えられなかったのだ。
「後悔する前に止まって思い出せ。今のお前の意見を取り入れたら世の男の全てが穢多非人だ」
「それが適正価値ですから仕方ないんじゃないですか、物が言いたいなら月収百万行ってから言えよ、金を家にもたらすしか役目のないゴミ風情が」
上司は眉を顰めながら沈黙を刻む。周囲の空気の張り付きを肌で感じるも久利の望む形のままだとそのまま放置。誰も彼もが怒りを抱いているもののその活力は仕事を進めるために使えと久利は喚き散らす。
「だめだあいつ、手に負えない」
「俺が偉くなったらお前は真っ先にクビだ、本康」
毎日のように耳にしている声はどれが誰のものなのか容易く判別できてしまう。本康は不満を顔に浮かべるものの周囲の人々は特に表情を動かすことなく久利の言葉に聞き入っているように感じられる。
それからすぐさま本康が近寄り久利の腕を引っ張り訊ねた。
「この前のことだけど、カフェにいただろ」
「男の分際でそんなところ行く奴の気が知れないな、仕事をした気になっているだけの存在価値皆無だろ、あんなカスども全滅しろよ」
しかしながら本康は引き下がることなく同じ質問を重ねる。一切覚えのないことに対してこれ程までの本気、苛立ちは大きくなっていくばかりだった。そんな気配の変貌を察知したらしい先輩が本康を引き止め去っていく。残された久利はただ椅子に座り資料をまとめ始める。本康は未だに何かを話したそうにしていたものの相手にしない。
昼の休憩に入ってすぐさま本康が恐る恐る近寄り久利の目の前に立ち何かを食べるわけでもなくただ話を始める。
「聞いてくれ、実は」
友人の死がそこで告げられた。警察の調べによれば不可解な死を遂げているのだという。死後数ヶ月は放置したのではとの見立てがされる程に腐敗が進んでおり身体の至るところから植物が生えていたそうだ。まるで植木鉢や肥料として扱われているよう。
「持ち物から身元確認が取れたんだって。んで、今夜お通夜だから」
「信仰心ごときが仕事を妨げるか、下らない」
飽くまでもこの世界は仕事で回っている。急な休みを得ることが出来るのは病人のみとするべき。久利の価値観では精神的な揺らぎなど甘えに過ぎなかった。そんな主張を飛ばしていた久利に向けて上司がいつになく低い声で口にした。
「親が死んでも同じ事言えるのか」
「当たり前だ、現代人は仕事が当然だし男は古来より狩りをして生きてきた。だったら人死などという自然の摂理は無視して仕事を続けるべきだ」
倫理など存在しないのか、人間としての最低限の行ないすら許してはならないのか。理屈以外の何もかもを捨て去るのは最早人間の為すことではないのではないだろうか。などといった説教を飛ばす男に向けて視線を尖らせて声を荒らげる。
「倫理観なんてもの今どきの人間が考えただけの甘えだろ、そんなものに縋るクズどもなんかトチ狂ってやがる」
「仕事は大切だがそれだけじゃないんだ」
上司は冷静に伝えるものの久利の耳には届いていないのだろうか。特に表情を変えることもなくただ食事を進め、食べ終えるとともに片付けて再び仕事に向き合い始める。そんな姿勢が上司の中では気に食わなかったのだろう。本康を引っ張りながら冷たい視線を向けた。
「勝手にやってろ、言っておくがそんな価値観が当然になったら社会は確実に壊れるからな」
そうして残された一人、周囲は愉快な雰囲気を撒き散らしているという事実が苛立ちを呼び起こしてしまうも久利は様子を見ながら仕事を続ける。本康が菓子パンを食べ終え緑茶を飲み干したその瞬間、久利は立ち上がって腕を引っ張り机に座らせ仕事をするよう怒鳴りつける。
「労働基準法って知ってるか」
「現代の価値観に過ぎないだろ、幾つ済ませても降ってくるくらい仕事があるっていうオフィスの現実すら見えない絵空事だろ」
本康の頭を思い切り殴りつけて仕事を進めるよう再び怒鳴りつけ、本康は渋々キーボードを叩き始める。そんな様子を見ている上司の顔は驚きに充ちていたものの注意喚起の類いは特に見られなかった。
一日の業務を閉じ込めていた建物は埃っぽく、久利は掃除の必要性を感じてしまう。暗闇に覆われた景色の中で輝きを閉じ込めたこの建物の一室を掃除するべく本康を顎で使う。
「今日はお通夜だって言ったのに」
「そんなの行く必要ないだろ、仕事を妨げる価値観なんかゴミだから全部捨て去れ」
この部屋の掃除を一人で済ませようとなればどれほどの時間を要してしまうだろう。機械やテーブルといった物への扱いと清掃方法を考慮しては彼の口から通夜などといった言葉は出てくる余地も無いだろう。こうして予定が完成されそうになったその時、このやり取りを見兼ねたのか上司が口を挟む。
「流石に人としてどうかと思うぞ、掃除なら明日にでもやればいいだろ、お前は人などどうでも良くても彼には大切なことなんだ」
「多様性なんか女だけの特権でいいだろ、時代の進みでクズ以下が随分と増えたものだ」
「男というだけで人権を捨てなければならないなんて時代遅れだ」
「寧ろプライベートでは人権無くなった部分もあるだろ、それを仕事方向にも延ばせと言ってるんだ」
会話が通じないという事はこういうことなのだろうと諦めを抱いてため息を付く本康だったものの通夜に行くことだけは決して諦めなかったようですぐさま帰るという選択を取っていた。
「いくらなんでも酷すぎるぞ最近のお前は」
「無駄を省いたら現代の甘ったれには理解できないのですね」
やはり会話が通じない。互いに言いたいことを理解した上で価値観を理解できない。多様性などという言葉があるものの今の久利の意見だけは認めてはならないのだと確信を持っていた。上司の中に息づく想いが社員を守ることに繋がるのだと誇らしさを抱くとともに同じ社員の中に人間としての生き方を否定する危険人物がいるという事実を見ては溜め息をついてしまう。恐らく彼の意識を変えることなど誰にも出来ない、そうあっては久利という人間が会社を去るまで永遠に人々が不幸に陥ってしまうだろう。仮に久利が社長にでもなってしまったその時には二桁の死人が出てしまう事は想像に難くない。そのような未来を思い描くだけで全身の震えが止まらなくなった。




