第20話(番外編 : 侯爵家の影に生きる僕の初めての笑顔)
暗殺と欺きに囲まれた侯爵家で、冷徹に育てられたロエル。人を信じることも、心を開くことも許されない日々の中、皇宮で幼い皇女に出会い、初めて心を揺らされる。わずかな安らぎと、初めての微笑み——重苦しい日常に光を差す、侯爵家出身の少年の短い物語。※本編連載とは独立した読切です。
皇宮親睦祝宴
春、花が咲き乱れ、暖かな陽気が続くこの日。
貴族、そしてその子息たちが皇宮に集い、華やかな賑わいを見せていた。
そして俺も、この日初めて皇宮に足を踏み入れた。
口元には笑みを浮かべ、細めた目も一見すると笑っているように見える。だが、その奥は決して笑っていない。薄気味悪い男が言った。
「お前は高位貴族と繋がれ。懐に入り込み、情報を、弱みを手に入れろ。
それは我々の武器となる。
お前と同じくらいの年齢の年若い令嬢も来ているだろう。相手はまだ子供だ。ペラペラ家門のことを話すように仕向けろ」
あの時、俺だってまだ八歳の子供だった。
薄気味悪い男――侯爵家当主であり、俺の親父。
あの頃は、言っている意味がよくわからなかった。
侯爵家といえば聞こえは良いが、長い歴史の中で欺き、知略、策略、裏切りを重ね、他家を蹴落として手に入れた爵位。それが俺の家、ザグル侯爵家だ。
ラミアは無知ゆえに知らないが、下位貴族は蠅のように群がり、高位貴族は警戒して近寄らない、そんな家門。
初めて皇宮に足を踏み入れた時、親父は俺を、子供たちが集う場へ放り込んだ。
「あなた、綺麗ね。ザグル侯爵家なのね。私とお話して」
年若い――いや、若すぎる令嬢たちに囲まれ、俺は辟易した。
俺より少し年上の二人の王子は、会場を抜け出して外へ出て、対決を楽しんでいるらしい。
目を輝かせて。
何がそんなに楽しいのか。
当時もそう思った。今なら、この感情にはっきりと名前をつけられる。――反吐が出る。
親父は人混みの向こうを指し示し、低く囁いた。
「あれは先日爵位を継いだルード公爵だ。お前より一つ上だったか。今は皇宮預かりとなっている。
公爵家出身の令嬢が現在の皇后だ。仲良くして損はない。それに、いつかその伝手で我が家門も皇宮に上がれるかもしれん」
薄気味悪い笑い声を、俺は無感動に聞いていた。
――ルード。
世界の不幸を一人で背負っているような顔。陰気臭いやつだな。
それが、初めて彼を見た時の感想だった。
それから数年後、再び祝宴が開かれた。
両王子は相変わらず対決に夢中で、会場をかき乱し、庭園へと駆けていく。使用人たちが困り果てている。
またか……何も変わらないな。
令嬢たちは、この世界の仕組みを理解し始めたのか、年に似合わない媚びを覚えたようだった。
たった数年。
俺はまだ、立派に子供だった。
笑顔で流す術も、心にもない賞賛も、できなかったし、したくもなかった。
ふと、あの公爵の姿が目に入った。
かつて不幸を背負っていたあいつが、今は笑っている。
照れくさそうで、不器用な笑顔。それでも確かに、もう不幸は背負っていなかった。
――疎外感。
その感情が胸に広がる。
活発でもなく、よく笑うわけでもない。
親父から笑顔を奪われたような、薄気味悪い子供。
それが、俺だったのかもしれない。
親父が仮面の笑顔を貼り付け、社交に夢中になるのを背に、庭園へ出た。
奥へ進めば、人影はない。
ただ時間が過ぎればいい。
早く帰りたい。いや、帰っても、また同じことをやらされるだけだ。
諜報、毒殺、解毒、拷問、隠蔽。
もちろん剣術もあるが、公爵家のような騎士道とは無縁だ。
相手に見られず背後から斬る方法。
瞬時に即死させる方法。
大勢に囲まれても生き残る方法。
卑怯でいい。
卑怯こそ、侯爵家らしい。
――疲れたな。
そう思った時、遠くから声が響いた。
「皇女殿下ー。どちらですかー?」
その直後、近くの茂みが揺れ、小さな影が現れた。
質の高いドレス。幼い顔立ち。
――皇女殿下か。
俺よりもずっと小さい。
小さい子供は苦手だ。場を読まないし、泣き声もうるさい。
思わず視線を逸らす。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げ、にこやかに挨拶される。
「……こんにちは」
間を置いて、ぎこちなく返す。
「ラミアです」
満面の笑み。
「……ロエル・ザグルと申します。皇女殿下」
「一緒に行こ」
小さな手が、ためらいなく俺の手を取る。
「……どこへ?」
「あっち。えへへ」
視線の先は会場。
この皇女は、俺をあの喧騒へ連れ戻す気らしい。
遠くから、再び声が聞こえる。
「皇女殿下ー。どこですかー」
「……殿下、侍女がお探しです。侍女の元へお送りします」
「行かない?」
「行かない」
短く答えると、少女はしょんぼりと肩を落とした。
「……何で?」
視線を逸らしながら、静かに告げる。
「侍女が心配してますよ。行きましょう」
そう言って、俺はラミアを抱き上げた。
軽い体重。驚くほど小さい。
そのまま侍女のもとへ運び、引き渡す。
深々と礼を言われ、その場を離れようとした時、背後から声がかかった。
「今度は行く?」
振り返ると、不安そうな顔。
「はい。今度は」
そう答えると、少女はぱっと笑顔になり、小指を差し出した。
「約束ね」
小さな指に、自分の指を絡める。
「はい。約束です」
その時、俺は初めて、自然に笑った。
風が舞い、花が咲き乱れる皇宮で。
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