88話 でも、見ないと死ぬ
半歩だけ前へ出られる。
その事実があるだけで、さっきまでの絶望とは少し違った。
勝てるとは思えない。
だが完全な行き止まりでもない。
抜ける瞬間があるなら、そこへ合わせればいい。
問題は、その「合わせる」が一番難しいことだった。
ルナリアの周囲で空気が沈む。
見えない圧が落ちる前兆だけが、皮膚の上を冷たく撫でる。
次の一撃がどこへ来るのか、もう誰も喋らない。
喋る余裕がない。
凛が左へ回る。
雪那が後方で氷を展開し、ひなたは大鎌を低く構え直す。
俺は短剣を握ったまま、ルナリアの正面から少しだけずれた位置を取った。
一度、合わせる。
それだけ決める。
ルナリアは相変わらず立ったままだ。
足は動かない。
視線も定まっていない。
それでも圧だけが、こちらの行動に先回りするみたいに落ちてくる。
凛が言う。
「いくわよ」
返事はいらない。
タイミングだけ合わせる。
凛が入る。
俺も踏み込む。
雪那の氷が足場の縁を補強し、ひなたが横から一気に回り込む。
合っていた。
そう思った瞬間、全部が崩れた。
凛の踏み込み先が沈む。
俺の正面の空間が重くなる。
ひなたの着地点が遅れて潰れ、雪那の氷が支える前に砕ける。
凛が剣を床へ突いて無理やり止まり、ひなたが身体を投げ出すように転がる。
俺は踏み込みを切って横へ逃がした。
その半拍後、四人が交差するはずだった位置を圧がまとめて押し潰した。
石が裂ける音が遅れて響く。
砕けた破片がこちらへ飛び、頬をかすめた。
ひなたが着地も整えないまま叫ぶ。
「今、合ってましたよね!?」
凛もすぐに否定しない。
息を整えるのが先だった。
肩が上下している。
細剣を握る手にも力が入りすぎている。
「……合っていたわ」
短い肯定のあと、凛は眉を寄せた。
「なのに、遅れた」
その感覚は全員同じだった。
タイミングは揃えた。
早すぎたわけでも遅すぎたわけでもない。
少なくとも、踏み出すまではそうだった。
踏み出した瞬間にだけ、噛み合わなくなる。
雪那が冷えた声で言う。
「順番を変える」
「次は私が先に入ります」
ひなたが即座に言う。
怖さは消えていない。
それでも、止まったままでは終わると分かっている。
俺は短く頷いた。
「やる」
ルナリアの口元が、ゆっくり歪む。
「寄るのう」
意味のある返答なのに、会話として繋がっていない。
こちらの試行を見ているようで、その先の何かに話しかけているみたいだった。
次はひなたが先に走る。
大鎌を振るためじゃない。
まず入れるかどうかの確認だ。
凛は一拍遅らせ、俺はさらにその後ろ。
雪那の氷が退路を作る。
今度は順番をずらした。
さっきとは違う。
違うはずだった。
ひなたが二歩目で止まる。
床が沈む。
凛が入る前に、その横が潰れる。
俺が踏み込む先には、まだ何も起きていない。
なのに分かる。
次で落ちる。
俺は足を止める。
直後、目の前の石床が面で押し込まれた。
もし出していたら、足首ごと持っていかれていた。
ひなたが歯を食いしばる。
「また……!」
凛が舌打ちを呑み込む。
「順番じゃないわね」
雪那の氷壁が立ち上がる。
今度は防御じゃない。
圧の落ちる位置を区切って、強引に道を作るつもりだ。
だが氷壁は一枚目が潰れ、二枚目が軋み、三枚目が立つ前にまとめて崩れた。
圧は道を避けない。
壁ごと通す。
「力で押し切られる」
雪那が言う。
「形を作っても無駄」
「じゃあどうするんですか」
ひなたの声が少しだけ掠れた。
息が乱れている。
足元も危うい。
ギリギリで生き残る動きばかりが続いて、体力より先に神経が削れていた。
凛が低く言う。
「黒崎」
視線だけがこっちへ来る。
答えを出せと言っているんじゃない。
見えているものがあるなら出せ、という圧だ。
俺はルナリアを見たまま、頭の奥でさっきからの失敗を並べる。
同じ拍で入っても潰される。
順番を変えても潰される。
形を作っても押し切られる。
やり方の問題じゃない。
問題は、もっと手前にある。
さっき半歩入れた時を思い出す。
あの時、俺は考えていなかった。
抜ける瞬間を「見て」もいなかった。
ただ、そこだと思った時にはもう踏み出していた。
今は違う。
見ている。
合わせようとしている。
だから遅れる。
ルナリアの指先がわずかに動く。
圧が来る。
そう認識した瞬間に、もう一拍遅い。
見た時点で終わっている。
俺は小さく息を吐いた。
試す。
誰にも言わず、今度は一人で入る。
正面じゃない。
さっきと同じく、半身を切って浅く入る。
ただし今回は、ルナリアの指も足場も見ない。
見るのをやめる。
焦点を少しだけずらす。
視界に入れても、追わない。
一歩目。
重い。
二歩目。
少し軽い。
そこで入る。
足が勝手に前へ出た。
考えたんじゃない。
身体が先に動いた。
さっきと同じ、薄い拍へ半歩だけ食い込む。
入れた。
ひなたが息を呑む。
凛の目が見開く。
雪那の氷が一瞬だけ止まる。
だが、続かない。
三歩目を出そうとした瞬間、圧が落ちた。
肩から下へ杭を打ち込まれたみたいな重さが全身を潰す。
俺は踏み込みを切り、横へ転がる。
背後で足場が圧壊し、破片が爆ぜた。
頬を掠めた石片が熱い。
遅れて痛みが走る。
ひなたが声を上げる。
「黒崎さん!」
「大丈夫だ」
そう返しながら立ち上がる。
本当は大丈夫じゃない。
今のは、ほんの少し噛み合っただけだ。
続ける形がない。
それでも、はっきりしたことがある。
見ない方が入れる。
凛が俺を見る。
「今、何をしたの」
「見てない」
答えながら、自分でもその言葉を確かめる。
「見て合わせるんじゃ遅い」
凛が眉を寄せる。
「じゃあ、見ずに動くの?」
「……できない」
即答だった。
できるわけがない。
相手は即死圧を連発してくる化け物だ。
見なければ次に誰が狙われるかも分からない。
周囲の足場も崩れ続けている。
全部を捨てて入れば、その瞬間に別の誰かが死ぬ。
雪那が短く言う。
「矛盾してる」
その通りだった。
見ると遅れる。
見なければ対応できない。
正解が見えたのに、実行手段がない。
ルナリアがまた笑う。
虚ろな目のまま、口元だけが楽しげに歪む。
「惜しいのう」
その声と同時に、圧が一段深くなる。
今までより重い。
落ちる位置も密度も、明らかに増した。
ひなたの膝が落ちる。
凛が踏み込みを途中で切る。
雪那の氷が張る前から軋む。
安全地帯が狭くなっている。
このまま試行を続ければ、先に誰かが潰れる。
突破口があることと、使えることは別だ。
俺は短剣を握り直す。
指に汗が滲む。
呼吸を整えても、肺の奥に残った圧が抜けない。
見たら遅れる。
でも、見なければ死ぬ。
その二つが頭の中で噛み合わず、鈍く擦れた。
ルナリアの指が、今度は凛へ向く。
次に落ちる位置が浮かぶ。
浮かんだ瞬間にはもう遅い。
俺は凛の名を呼ぶより先に動いた。
凛も同時に横へ流れる。
足場が沈む。
二人の間を圧が通り抜け、石床を抉った。
間に合った。
だが、またギリギリだ。
凛が息を乱しながら言う。
「見えてるのに、間に合わない」
俺はルナリアから目を離さず、低く答えた。
「……見た瞬間に遅れる」
ひなたが言葉を失う。
雪那も黙る。
凛だけが、わずかに目を細めた。
核心はそこにある。
だが、そこから先へ進めない。
俺は短剣を構えたまま、もう一度言う。
「でも、見ないと死ぬ」




