吉報
三月十八日、佑暉は朝から気もそぞろで旅館の廊下をうろうろしていた。十時半頃に、公立高校入試の合格者が発表されるのだ。佑暉は気が気でなく、サキからの連絡を心待ちにしていた。あまりにもじっとしていられないので、意識を少しでも例のことからそらそうとまた正美のところへ行き、手伝いを申し出ることにした。
正美は、平常通り厨房にいて夕餉の支度に取りかかろうとしていた。まな板の上には帆立が貝のまま乗せられ、それを手慣れた手つきで捌き始める。ここ京都で研鑽された熟練の技だ。佑暉はしばしば、正美の買い物に付き合うことがあった。彼女がよく足を運ぶのは寺町通から高倉通にかけて多くの人で賑わう錦市場で、朝食や夕食の材料選びも大抵はそこで行う。佑暉はいつも近くから正美が食材を値踏みする姿を見ていたが、彼女はボックスに入った魚を蛇のごとき鋭い目で睨み、何の躊躇いも見せることなく自信満々に選択していた。
私は京都で生まれ育ち、嫁いで以降は旅館一筋で生きてきた京都の女だ、という自負があるのだろうか。佑暉は、そんな正美を心から尊敬していた。父の慎二も正美のそんな性質を知っていたから、以前の会社が倒産した後も平然として彼女にかけ合ってくれたのだろうかと佑暉は思うことがあった。
「女将さん」
佑暉は横から恐々と小さく呼びかけると、正美は包丁を扱っていた手を止めて彼を見た。
「どうしたん」
「今日も、手伝いをさせてください」
「もうすぐサキちゃんの合格発表やろ? 待ってなくてええの?」
「そうなんですが、なんだか落ち着かなくて」
「まあ、分かるけど。じゃあ……またお風呂場の掃除でもしてもらおかな」
佑暉の気持ちを悟ったような優しい目を細め、正美はにこりと微笑を浮かべる。佑暉も笑顔で「はい」と元気良く返し、大浴場へと向かった。
扉を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのはやはり五重塔だった。浴場の掃除は仲居が日替わりでやっていて、佑暉がここの掃除を行ったのはたった一度きりであった。だが、仲居たちの仕事ぶりは彼もこの一年間を通し、幾度も目にしてきた。
昨年のちょうど今くらいの季節、初めてこの旅館を訪れた日。正美に何か手伝いたいと言ったら頼まれたのがこの風呂場の掃除だった。薄緑のタイルの目地には、黴一つ生えていない。毎日、従業員たちが息つく暇もなく働いているおかげだろう、と佑暉はこの風呂場に来る度に感服するのだ。壁の一面に描かれている東寺の五重塔も、どことなくノスタルジックな印象を与えてくれる。
佑暉はデッキブラシを持ち、揚々と床を磨き始める。次いで、シャワーで桶いっぱいに熱い湯を張ると、それを少しずつ床に流しながら磨いていく。すると、汚れとともに佑暉の脳裏には、四条高校の制服を身にまとったサキの容体が浮かび上がる。彼女が無事に合格しますように……そんなことを呪言のように心の中で唱えながら、佑暉はごしごしとブラシで床を擦った。
働くこと。大変そうに思えるが、そこにやり甲斐を見つければ快楽にもなるのだ。佑暉は、この旅館を切り盛りする正美や他の従業員たちを見ていて、それを些か理解できた気がした。
僕は、誰かの役に立てているだろうか――無意識のうちにそんなことを熟慮する時も多くあった。
掃除も粗方終了した頃、突然、浴場の扉が勢いよく開かれた。顔面蒼白の正美が飛び込んできたのだ。佑暉は正美の顔を見た瞬間、嫌な予感が過ぎった。冷や汗が頬を走るような感覚が訪れる。
しかし――、
「今、サキちゃんから電話があったんよ。高校、合格したんやって」
その吉報を聞いた瞬間、佑暉は持っていたブラシに足を取られて滑り、声を上げる間もなく後ろに尻餅をついた。
「なんやの、もう。縁起悪いわあ。合格した後で良かったわ」
正美も、安堵したように笑っていた。
「あの子に後で連絡してあげ」
「はい、わざわざありがとうございました」
佑暉は立ち上がって、正美に対して深々と頭を下げる。彼の大仰な態度を見た正美はさらに微笑し、風呂場から出ていった。
サキはこれからも、舞妓としての修行を続けるのだろうか。ふと、佑暉はそんな疑問を浮かべる。できれば舞妓は続けてほしい、というのが彼の願いだった。だが、それはおそらく杞憂だろう。母のためにも、一流の芸妓を目指すだろう。
今度は、僕が支えてあげなきゃ――佑暉は密やかにそんな決意を抱いていた。
母の代わりとしては拙いが、このくらいがちょうどいいのかもしれない。サキを見ていると、時々そう思う。兄として、彼女を支えていかなければならない。これは佑暉の覚悟でもあり、サキの覚悟でもあっただろう。
合格の知らせがあった日の翌朝、佑暉は父に宛てた手紙を認めた。知江からの手紙をサキに読ませたこと、彼女に自分が兄であると打ち明けたことなどを書き、最後に「春休みにサキを東京に連れて帰りたい」という旨を書き加えた。
佑暉は、その手紙をポストに入れに行くついで、祇園茶屋にも立ち寄った。
ゆっくりと暖簾の隙間から、中の様子を窺ってみる。長椅子にはその日も数人の男性が腰をかけ、舞台の上ではサキが芸者の三味線や笛の音色に合わせ、舞いを踊っていた。悠々とした動作、扇の操り方、それらが来客たちを魅了し、辺り一面に可憐な紅い花が咲き乱れる。
佑暉は、初めて彼女を見た日のことを懐った。なんとなく通った小路。偶然その一角にあった茶屋から美しい笛の音が聞こえ、中を覗いてみれば一人の舞妓が芸を披露していたのだ。
あぁ、なんて優雅なんだろう……と、佑暉は瞬く間に彼女の虜になった。あれから間もなく一年が経とうとしていることに、彼はまだ実感が湧かない。
踊り終えるとサキは舞台上に手をつき、観客に向かって深く頭を下げた。佑暉は、彼女が顔を上げる前に茶屋から離れた。目が合うのが恥ずかしい、という気持ちが勝ってしまった。しかし、四条通に出るまで茶屋からの拍手喝采は聞こえ続けていた。




