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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第四章 美しき都街
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決意

 淡々と話しているように聞こえるが、正美の口の動きは重かった。彼女の話を静聴していた佑暉はついに耐えられず、口を挟んだ。


「どうして言わなかったんです、そんな大事なこと」


「言おうとも思ったけど、あの人が必死に頼んでくるもんやから……」


 珍しく、正美が弱気な声を出す。


「でも……それだと、サキがあまりにも可愛そうだ」


 佑暉がそう呟いた瞬間、正美の表情が変わった。


「やっぱり……気がついてたんやね」


「はい。父の手紙を読んだ時から、もしかしてというか、多分そうだろうなという予感がしていたんです」


「サキちゃんはええ子やから、一言言ったら分かってくれたわ。お母さんのお願いやから仕方ない、って。それでも、すごく堪えたような顔やった」


 佑暉は無意識のうちに、自分の膝の上の両手を見つめていた。そして、それを固く握りしめる。これは、今まで誰からも何も伝えられなかったことに対する憤りなのか、母がすでにこの世にいない無念さなのか、佑暉には判別できなかった。自分でもよく分からなかったが、膝の上の拳は微かに震えていた。


「悲しかったでしょうね」


 佑暉はまた、机上に置かれた二枚の手紙に視線を向ける。


 すると、正美が一枚を手に取って、佑暉に差し出した。


「これ、あなたのお母さんが亡くなる二週間くらい前に、慎二さんに送ったものなんよ。サキちゃんの住所と、『私が死んだら娘に届けてほしい』って書いた手紙を添えて」


 佑暉は正美から受け取った手紙を、じっくりと眺めた。母がサキに宛てて書いた手紙。大切に保管されていたのか、目立った皺もなく、今日の朝に認められたみたいだった。


 佑暉はその手紙を読む手前、正美に尋ねた。


「父は、何か言ってましたか?」


「電話がかかってきて、『時間が経ったら渡そうと思う』って。多分、気持ちの整理がつかへんかったんやろ」


「そうですか……」


 佑暉はその手紙を開くと、広げた瞬間に便箋から僅かに香の匂いがした。次いで、彼の目に飛び込んだのはきれいで鋭敏な母の筆跡であった。ボールペンで綴られたその文字は、まるで生命が宿ったように生き生きとした趣がある。


 これが、母の字だ……と佑暉は不思議な感覚に包まれた。


 しかし、佑暉にとってこの手紙をサキに届けることは容易ではない。想いを伝えようとしていたのに、彼女が同じ母から生まれた妹だと知ってしまったのだ。彼がこれまで彼女に対して抱いてきた気持ちは、すべて無駄になってしまったのだろうか。何故、もっと早くに行動しなかったのだろう……と悔やんでも悔やみきれない。


 事実を伝えず、告白だけをするのも良心が咎められる。この手紙を彼女に見せるべきか隠し通すべきか、そんな葛藤が彼を悩ませる。


「それ、あなたがサキちゃんに届けてくれへん? お父さんも、そのつもりで送ってきた気がするんよ」


 という正美の発言によって、佑暉は再び顔を上げた。


 やがて、行かなきゃという使命感が、すぐに佑暉の迷いを凌駕する。父が代わりに託してくれたこの手紙を、必ずサキに届けなければならない。彼女も今頃、この手紙が来るのを待ち焦がれている……そんな気がした。


「すぐに行きます」


 佑暉は手紙を小さく折り畳んでそれをズボンのポケットに入れ、立ち上がると正美に軽く礼をしてから部屋を出た。


 玄関前の廊下はすでに掃除が終了したのか、黄褐色の床は電球の白い光を見事なまでに反射している。佑暉は床をなるべく汚さないように大股で歩き、玄関へ下りると靴を履いて格子戸を開けた。すると、旅館の中に雪が舞い込んだ。


 外では、雪が舞っていた。


「そのまま出たら風邪引くよ」


 外の様子を見ている佑暉に、後ろから声がかけられる。振り向くと、コートとマフラーを手にした正美が、上がり框の手前まで走ってきた。


 急ぐあまり、また佑暉はそのままの格好で出ようとしていたのだ。正美は、佑暉にコートを着せた。彼の性格に合った、茶色のトレンチコート。これは今年の冬に備えて正美が彼のために、京都駅の百貨店で買ってきたものだ。


 一方、マフラーは中学の時に慎二に買ってもらったものだった。赤い布地に黒と濃緑のチェックの入ったそれは佑暉のお気に入りで、春に東京から持ってきたのだ。正美は、それを彼の首に優しく巻きつける。


「気をつけてな」


「はい、ありがとうございます」


 佑暉はもう一度、正美に頭を下げると雪の舞う東大路通へと駆けていった。それを見送った後、正美も草履を履いて戸外に出た。空を仰ぐと、師走の空から静かに粉雪が降りてくる。


「知江ちゃん、見守ったってや」


 そんな独り言を漏らすと、正美は中に引き返し、戸を閉めた。

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