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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第三章 送り火過ぎて秋きたる
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恋は終わりて秋きたる

 八月の最終日、佑暉は八時二十分くらいに学校に着いた。


 教室の中は、和気藹々とした始業式に相応しい雰囲気が漂っているが、彼はそこに違和感を覚えた。その理由が分からず、やや戸惑い気味に席に着く。ふと右隣の席に視線を向けると、朱音はまだ来ていなかった。いつも佑暉が登校する頃には、彼女は必ず着席しているのだ。


 先程、佑暉が不自然に感じたのはこれだったのかもしれない。しかし、電車が遅れているのだろうと彼は特に気にせず、鞄を床に下ろした。その直後、一枚の色紙が机の上に置かれた。顔を上げた佑暉の目の前には、二人の男子生徒が立っていた。一人は長身の伊達野だての、もう一人は少し小柄な小神こじんだ。


「それ、あとお前だけやから。書いたら、玄長のところ持っていってな」


 と、伊達野が佑暉に言った。


 佑暉は再び机に目を落とすと、色紙の中央に朱音の名前がオレンジの蛍光ペンで書かれ、その周りにはクラスの生徒たちからの寄せ書きがあった。それを驚いたように凝視する佑暉に、小神が付け加える。


「諏訪、明日転校するねんて」


「あ……明日?」


 小神の話を聞いた佑暉は、彼らに驚きの目を向ける。


「すごく急だけど、何かあったの?」


「いや、知らんやん。本人に直接きけや」


 佑暉の質問に小神は冷たく返すと、伊達野とともに席に戻っていった。


 改めて、佑暉は色紙をまじまじと見つめた。だが、そこに投げやりな言葉は少なく、暖かいメッセージがいくつも添えられている。佑暉の知る限りでは、朱音はいつも隣の席に座って読書などをしていた。他の生徒と会話しているところなど、殆ど見たことがない。そんな彼女だったが、色紙にあるのは驚くほど、それを思わせない言葉ばかりであった。


 全員がそうでないにしても、皆、快く朱音を送り出そうとしているのだということが、一枚の紙を通して佑暉にもよく伝わった。


 発案者は、担任の吉沢だろうか……と色紙の片隅でボールペンを走らせながら、佑暉はそのようなことを考えていた。


 四月からの約四ヶ月の間、朱音と一番よく喋ったのはこのクラスで自分だけだろう、という自負もあった彼は、他の皆より多くのことを書く必要があった。


 思い返せば、朱音に最も感謝しなくてはならない相手は、佑暉かもしれない。四月の初旬、東京から来たばかりの彼は京都という名の新天地になかなか馴染めず、クラスで孤立しそうになっていた。そんな彼に、一番初めに話しかけたのは朱音であった。それから彼女は彼によく構うようになり、夏休みの勉強会でも世話になったことには違いなかった。


 初期は苛々の連続だったが、徐々に慣れてしまい、夏頃になると佑暉は朱音に何を言われても平然とさえできるようになった。一緒にいる時間が増えるに連れて、彼女の本当の優しさに気づいたのかもしれない。朱音の実家を訪れた日のことを思い出し、佑暉はそんな気分に浸った。


 願書に貼る証明写真程度のスペースに、佑暉は彼女への感謝の気持ちを書き記すと、それをクラス委員の玄長げんちょう智弘の席に持っていった。智弘は受け取る際に「サンキュー」と言ったが、佑暉にはどうしても気になることがあった。


「諏訪さんが転校する理由、何か聞いてる?」


 佑暉が尋ねると、智弘は首を傾げながら話す。


「詳しくは聞いてないな。一昨日、吉沢先生に呼ばれて、諏訪が転校するみたいやから、何か考えてくれんかって頼まれてんやんか。まあ、色紙のことは俺が提案したけど」


「玄長君が?」


「そのくらいしか思いつかんかったし。一応、学級委員やから」


 今朝、教室に来た者から順に色紙を回していたようだ。佑暉は再び朱音の席を見やる。依然として、彼女が教室に現れる気配はない。何故、ここまで急なのかは理解し難い。佑暉はそこに遣る瀬無さのようなものを感じたが、単純に朱音が皆の注目を浴びることを厭っただけかもしれない。


「その色紙はいつ渡すの?」


「今日の朝、先生に渡して……放課後、あいつ荷物取りに学校来るらしいから、その時に渡すつもりらしい」


 智弘の話を聞いて、佑暉は納得した。それきり、朱音はこの高校には来ないという。佑暉が朱音と会う機会は、明日以降もうないようだ。


 佑暉は……朱音の転校の理由について、薄々勘づいていた。十六日の送り火の日、見かけてしまったのだ。朱音は両親らしい男女に囲まれ、橋の近くを歩いていた。その様子を見て、離婚した両親が再び縒りを戻し、無事に共住できることになったのだろう、と佑暉は推論を立てた。小神が言っていたように本人にきかないと確証は得られないが、彼は安堵の気持ちで一杯になっていた。


 始業式、ホームルームが終わり、解散となったのは十二時前だった。佑暉は放課後、吉沢に呼ばれて遅くなった。吉沢は、彼の一学期の成績について心配していたのだった。特別入試で入ったのだから多少の配慮は必要なのに、一学期は一般入試で合格した生徒たちと殆ど同等に扱われたのだ。そのことについて吉沢は気にしていたようで、佑暉が職員室のテーブルに着くなり、彼に謝った。佑暉はさらに、二学期からはちゃんと配慮すると明言もされた。


 佑暉は吉沢に礼をし、職員室を後にした。すでに正午を過ぎており、教室に残っている者はあまりいなかった。正美の心配そうな顔が脳裏を過ぎり、佑暉は早足に昇降口へ向かう。


 下駄箱から革靴を出し、それを下に置いた時だった。どこからかある視線を感じ、佑暉は顔を上げる。すると、廊下に立っている朱音が目に入った。佑暉が気づくのを見計らったように、朱音は彼に歩み寄る。


「……これから帰るん?」


 彼女の問いに対し、佑暉は少し逡巡しながら答えた。


「そうだけど。諏訪さんは、荷物を取りに来たんだよね?」


 朱音は、そう問い返した佑暉から視線をそらし、校舎の出入口の方を見つめる。そして彼にこう問うのだ。


「なんで転校するんかとか、気にならん感じなんや?」


「えっ?」


 佑暉は返答に困った。おそらく、自分の予想は高確率で当たっているだろう、という自信を彼は持っている。だが、本人の前で言うべきかどうか咄嗟に判断できなかったのだ。


 七転八倒した末に、佑暉はわざと知らないふりをして尋ねることにした。


「どうして……転校することになったの?」


「お母さんとまた一緒に暮らすことになったから」


 やはり、予想は当たっていた。佑暉は初めて朱音に勝ったような気がして、内心喜んだ。


「良かったね。また、ご両親と一緒に暮らせるようになって」


「ほんまにそれでいいと思ってるの?」


 佑暉の言葉とは反対に、朱音の態度は冷たかった。喜ぶどころか、訝しげな顔でそんな質問を投げつけられる。佑暉は、忽ち口を噤んでしまった。


「……どういうこと……かな?」


「何か言うこととかないの?」


 朱音は彼と目を合わさないまま、さらに問いかける。


 その意味を解せないまま、佑暉はしんとした昇降口に佇んでいた。彼女は、何を求めているのだろう。感謝の気持ちだろうか、それとも他の何かだろうか。最後に出された問題は佑暉にとって難題であった。しかし、何か返さなければまたデコピンを食らわされる……そんな予感が、彼の脳髄に圧力をかけた。


 佑暉は必死に考え抜き、ようやく一つの答えに行き着いた。今日、色紙に書いたことをそのまま伝えれば良いのだ、と。


「君には感謝してるよ。毎日のように話しかけてくれて、勉強も見てくれたりして……。君がいなかったら、僕はクラスでずっと一人だったかも」


 佑暉は言葉の最後に、彼女に微笑みかけた。朱音は、


「ふーん」


 と佑暉の顔を見ながら二、三回頷くと、彼の頭を強く叩いた。


「痛いっ! 僕、君を怒らせるようなこと言ったかな……?」


 佑暉が片手で頭を押さえながら尋ねると、朱音は「べつに」とだけ答え、意地悪そうな笑みを浮かべていた。それは、彼女の「いつもの顔」であった。それから朱音は彼に背を向けると、階段の方に歩いていってしまった。


 佑暉は何故叩かれたのか分からず、腑に落ちないまま校舎を出た。白昼の日光が彼の肩から上を照らし、校庭からは今日も野球部員のコールする声が聞こえる。その声に混じって、ツクツクボウシが合唱を始める。その道を歩きながら、佑暉は朱音のこれからを案じた。数ヶ月前の自分のように不安もあるだろうと思われたが、彼女なら転校先でもうまくやれるような気もした。これほど不確かな期待があるだろうか、と佑暉は失笑しながらも「朱音ならば大丈夫だ」という確信があったのだ。


 ただ、佑暉は知らない。その頃、朱音が誰もいなくなった教室でただ一人、自分の席の上に額をつけて涙をこぼしていることを。誰にも知られず、そして知らせず、一つの恋が密かに終わったということを。佑暉は何一つ知らなかったのだ。


 ――そうして間もなく、秋がやってくる。

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