みやこみち
東福寺駅に着き、京阪の改札を出て奈良線に乗り換えると、京都駅までは一駅だ。
奈良線の車内は空いていた。サキがドアの側に立ってしきりに自分の足を気にしていているので、佑暉は空いている席に座るよう彼女を促した。しかし彼女は「すぐだから」と首を振り、反対に「佑暉君が座りなよ」とまで言われてしまった。行きの電車から立ちっぱなしで佑暉も疲弊してはいたが、サキの場合、長い間サンダルを履き続けていたせいか足が痛いようだ。
何故かサキが頑なに座らないので、結局、佑暉も最後まで立ち続けていた。
乗車してから三分ほどで京都駅に到着し、JRの改札を抜けるとその周辺は九時を過ぎても利用客などで賑わっていた。サキは、
「こっち」
と左を指さし、佑暉を誘導するようにそちらへ歩く。佑暉はこの駅の構造について、何度か利用するうちに概ね覚えられてきたが、まだ一度も足を踏み入れていない場所もいくつかあった。その一つが、これから行く「みやこみち」というレストラン・エリアだ。
その奥に、京都の隠れスポットがある。珍奇な噴水……「ウォーター・アート」。父から聞いた話を思い出しながら、佑暉は想像を膨らませた。この日まであえて調べてこなかったのは、父の話し方にはあまり現実味がなく、実在するかどうかも分からないフワフワとした内容だったためだ。しかしその分、想像の余地があった。
目の前に大きな広告看板が掲げられている階段をおりていくと、ATMやパン屋の看板が目に飛び込む。すでにシャッターが閉められているパン屋の横を通り過ぎ、人混みの中をくぐり抜けていくと、近鉄の改札口が見えた。
改札の右脇にはエスカレーターが設置され、サキがそれに乗ると佑暉もその後ろに並んだ。彼女の少し前には、カップルらしき若い男女が同じように縦に並んでいた。前の男が着ているパーカーの襟を、後ろの女が片手で軽く握っている。それを見ていた佑暉は、ふとあることに気づいて前に出ると、サキの一段前に並んだ。だが、この行動に意味はあったのかと、後から省みて彼は上気した。すると案の定、背後からサキの声がした。
「お気遣いどうも。でも良かったのに、エレベーターなんて滅多に転ぶものじゃないし」
前にいたカップルに倣い、「男性は女性の前に並ぶ」という行動をとってみたものの、サキから失笑の声をかけられただけであった。
一階に着いても、まだ彼の胸は騒々しかった。平常心を意識しつつ、佑暉はぐるりと辺りを見渡す。
床は烏羽色のタイルで敷き詰められ、上の階より人足は疎らであった。サキが再び佑暉の前に出て歩き出すと、案内されるまま彼もそれに従う。すると十数歩進んだ先に、真紅の背景に白い行書体で「みやこみち」と書かれた看板があり、色々な店が奥に延々と連なっていた。
サキはその中に入り、さらに先へと進んでいく。「みやこみち」には、飲食店の他に洋服屋や土産物屋など多彩な専門店が並んでいた。そこを抜けると、レストラン街に入る。しかし看板を通り過ぎてから五分ほども歩いているのに、一向に噴水らしきものは見当たらない。
とうとう突き当たりが見えてきてしまい、佑暉は小首を傾げる。一番奥は洋食店らしく、店員らしき女性が店先にあったメニュー表を片づけている。その時、水の音が僅かに聞こえた。それを聞き逃さなかった佑暉は、周りを見回してみる。蛇口を一瞬だけ捻って、すぐに締めたような音。それが断続的に聞こえてくるのだ。
洋食店のある壁に沿って右側に、それはあった。滝のように、水が下に落ちている。それが文字の形になったかと思うと、魚の形になってまた下へ落ちる。
これが父の話していた「ウォーター・アート」なのかと、佑暉は無意識にそれに近づいた。眼前の水のアートに見入っている彼に、サキは解説した。
「ここって京都人の中では、結構有名なスポットなんだけどね。隠れた名所ってところかな」
その話さえも聞こえないように、佑暉は返事をしなかった。
――なんて現代的なアートだろう。どんな仕組みで流れているのだろう。
火の点いた彼の好奇心を、この水は洗い流すどころか、さらに燃やした。
佑暉が目の前の芸術に見とれていると、サキもその隣に来て、
「すごい?」
と、いたずらにきいた。彼はそれを聞いて、視線を動かさずに答える。
「うん。僕のお父さん、プログラマーなんだけど、いつかこんなのを作ってみたいって言ってた。だから一度、僕も見ておきたかったんだ」
佑暉が興奮のあまり熱くそう語ると、サキは「良かった」と呟いた。その声で、佑暉は我に返る。彼女の方を向くと、不意に目が合った。これで何度目だろうか。そんな思考が、佑暉の発熱した心を冷やしていく。
「喜んでもらえて嬉しかったよ。今日は、色々見れた気がするね」
サキは変わらず笑っている。こんなに何の邪念も感じられない笑顔は、一種の芸術ようだと佑暉の目には映るのだった。
そして佑暉は、サキの言葉を頭の中で反復する。
大文字が芸術とするならば、これも芸術と言えるのではないだろうか。京に都があった時代から続く、伝統的かつ幻想的なアート。そして、プログラムで動く現代的アート。これらの芸術が融合した街、それがここ京都であるのかもしれない。
今日の最後の思い出としてしっかり目に焼きつけておこうと、佑暉はもう一度よく噴水を眺める。すると、アルファベットの「E」「V」「O」「L」という文字が縦に流れた。
最後の文字が現れた時、その単語の正体を佑暉は理解した。次の瞬間、佑暉はドクンと胸に強い衝撃を感じた。そっとサキの方に視線を送ると、彼女も噴水を見つめながら穏やかに微笑んでいる。
この気持ちは、佑暉だけのものだった。話さなければ、決して届くことのない思いなのだ。今、ここで伝えなければならない。何故か、そんな情動が彼の中に波立った。
覚悟を決めて口を開きかけた時。彼より少し早く、サキがこんなことを口にした。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
その言葉によって、佑暉の決意は一気に萎んでしまった。
二人は来た道を戻り、地下鉄烏丸線に乗って烏丸御池で東西線に乗り換え、東山で降りた。そこから佑暉がサキを八坂神社の近くまで送っていくことになったが、歩く間、彼女に何も声をかけられなかった。
黙っている佑暉に、サキの方から言葉をかけた。
「また……遊びにいけるといいね」
彼は黙って頷いた。しかし会話が続かず、しばらくまた沈黙が流れる。
やがて八坂神社の門が見えてきた。街灯によってライトアップされたように照らされ、その正面は昼間と比べて閑散としつつも、賑やかな話し声や足音が鳴っている。
神社前の信号のところまで来ると、サキは足を止め、佑暉の方を振り返った。
「ここでいいよ、またね」
「ま、またね」
佑暉の返事は、上擦ったような声になってしまった。それでも、サキは笑顔を維持したまま彼に背を向け、ちょうど青になった信号を渡っていく。佑暉は咄嗟にそれを呼び止めようとしたが、声が出なかった。今日が終われば、次に会えるのはいつになるか分からない。まだ彼女と別れたくないという思いと、意識しすぎてしまい、言葉を発することもできなかったのだ。
浴衣の裾を揺らしながら、サキは四条通に入っていく。彼女のその背中は、穢れ一つない、何者も寄せつけない神域のように美しく見えた。同時に、追いつこうとすればするほど、どんどん遠くへ離れていってしまう儚い存在のように映る。佑暉はサキの名を呼んだが、その声は東大路通を走る車の音に阻まれてしまう。サキは彼の呼びかけに気づくことなく、やがて電柱の陰に隠れて見えなくなった。
交差点に残された佑暉は、夢から覚めたように彼女のことを懐った。
こんなにも誰かのことが恋しくなる、というのは佑暉にとって新たな発見でもあった。表情豊かなサキの笑顔を頭に思い浮かべるだけで、胸の奥に疼痛のようなものが駆け巡る。
――これを解消するために、やはり早く打ち明けねばならない。
しかし、彼の気持ちはウォーター・アートのように真っ直ぐには落ちなかった。根性がないのはもとより、迷惑じゃないだろうかなどとつい余計なことも考えてしまうのだ。これが、彼が告白を躊躇している一番の要因だった。
それでも佑暉は、いつまでも二の足を踏んでいるのは嫌だと思いつつ、どこかに解決法はないかと模索したが、答えには辿り着けなかった。
旅館の玄関の戸を開けると、正美が優しく迎えた。時間はとっくに十時を過ぎ、彩香も夏葉もすでに帰宅していた。正美は例のごとく、遅く帰った理由を問い詰めてくるわけでもなく、彼に風呂を勧めた。
佑暉は風呂で疲れを洗い流してから、自室に行った。畳にはすでに布団が敷かれてあった。彼の帰りが遅いため、また正美が予め敷いたようだ。佑暉は、自分が大切にされているということを改めて実感し、もっと自覚しなければならないと思いながら、部屋の電気を消した。
布団にもぐり込むと、数分と経たないうちに意識が朦朧とし始め、何を考える暇もなく佑暉はそのまま寝入ってしまったのだった。




