意外な通行人、意外な反応
出町柳周辺は点火時間が過ぎた後も、多くの人々で混み合っている。鴨川デルタや、河川敷もまだ客たちで溢れ返っていた。きょろきょろと辺りを見渡しながら、サキは呟いた。
「もう少し早く来たら、他のも観られたかもしれないね」
佑暉がインターネットで得た知識によると、送り火には大文字以外にも四つほど種類があり、左大文字や舟形、「妙」「法」の文字が、それぞれ別の山々に点火されるのだという。それらを同時に全部見るのはほぼ不可能で、一つひとつをじっくり観ようと思うと、京都タワーの展望レストランを一年ほど前から予約するか、五年かけて別々のスポットで観賞する必要があるらしい。
現在、二人がいるのは河合橋の手前。つまり、鴨川デルタの辺りである。そこから見られるのは、左大文字や「法」の字のみだ。
サキは橋の袂付近で彩香に電話をかけた。別れた時の話では、出町柳の駅前に集合とのことだった。だが、駅周辺は彼らの予想以上に人通りが多く、簡単には合流できそうもない。
サキが電話している間、佑暉は近くを通る人々の様子を眺めていた。その中に、一等彼の目を引く者がいた。ジーンズの上に白い薄生地のスカートを穿いた、高校生くらいの女子。佑暉は、その女子に見覚えがあった。気になって目を凝らすと、それは朱音だった。
両脇を年配の男女に挟まれ、佑暉の目の前を通り過ぎていく。朱音は彼には気づいていないようで、前だけを見つめている。彼女の隣を歩いていた女性の方に目をやると、朱音の母親だと佑暉は分かった。母親は、朱音を挟んで隣にいる男性と楽しげに話している。あれは朱音の父親だろうか、と佑暉は考える。
家族そろって送り火を観にきたのだと、穏やかそうな三人を見て納得すると同時に、佑暉は深い安堵感を味わう。やはり、彼女にも以前のような家庭を取り戻したいという意思があったのだ、と。
ちょうどその時、電話を切ったサキが振り向いて佑暉に声をかけた。
「ねえねえ、駅の前は人でごった返してて会えそうにないから、先に帰ってるって」
サキのその報告は、佑暉も予想済みであった。旅館までは自力で戻らなければならないが、時間も時間なのでまた彼女のことが心配になる。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
佑暉がそう告げるとサキも頷き、二人は並んで駅に向かって歩き始めた。駅に着くまでの短い時間、佑暉は彼女を置屋まで送っていくかどうかだけを考えていた。出町柳駅の改札前まで来た時、思いきって佑暉はサキに話しかける。
「サキ」
「どうしたの?」
「置屋まで送っていくよ」
「いいよ」
笑いながら拒むサキ。しかし、佑暉の眉間の皺は消えない。
「だけど、何かあったら……」
不安そうに俯く彼を見て、今度はサキの表情が曇る。佑暉はそれを見て、違和感を覚えた。
「何かあるの?」
佑暉がきくと、サキは訥々と話し始めるのだった。
「実は言ってなかったんだけどね、私、昨日からお休みもらってて……だから、今日は京都のおうちに帰るの」
「おうち?」
「そう。京都駅から歩いて帰れる距離だから、心配しなくていいよ。佑暉君は、三条から東西線に乗り換えるんだったよね。もしかして、ホームが分からない? 案内しようか?」
サキの言葉が終わるのを見計らったように、電車の接近アナウンスがホームに響いた。
電車が停車した。準急だったが、二人はそれに乗った。一つ後の特急を待っても良かったが、その場合はサキも三条で乗り換える羽目になる。出町柳から東福寺までは準急でも十五分程度だから、特にデメリットというのはないのだ。あるとしたら、佑暉がサキより早く降りなければならないことだった。
行きほどではないが、車内は送り火観賞の帰り客や会社帰りのサラリーマン、学生などでやや混雑していた。混んでいるものの、みな無言で、話し声の根源は隅の席に座っている二人の女子学生だけだった。
佑暉はドアの脇に立ち、窓越しに暗闇を眺めていた。地上とは異なり、街の明かりすら見えない。サキも佑暉とは反対側の脇に立ち、同じように窓の外を見ている。沈黙の間、佑暉の頭の中では様々な感情が絡み合っていた。彼女とこのまま別れてしまうのはあまりにも惜しい。三条では降りず、せめて京都までついていきたい。早くその旨を彼女に伝えなければならないのに、ずっと赤信号の前で二の足を踏んでいるのだ。
三条に着くまでに、探さなければ――できるだけ自然な口実を。
佑暉が必死に思考を巡らせていると、不意に父から聞いた言葉が浮かんだ。
京都駅のどこかに、水が文字や記号の形になる噴水がある。それを一緒に見たいと言えば、彼女は納得してくれるだろうか。
その話をサキにしようとした瞬間、間もなく三条に到着するという車内放送が流れる。
電車が停まり、ドアが開くと同時に、乗客が何人かホームに流れ出る。サキは四駅ほど先の東福寺で降りるが、佑暉はここで降りなければならない。しかし、彼は降りなかった。
「降りないの?」
心配そうにサキが尋ねると、佑暉は毅然とした目で彼女を見つめ返し、口を開く。
「実は……見たいところがあるんだ」
「見たいところ?」
「京都駅の中に、噴水があるって聞いたんだけど……」
「噴水って、どこの?」
サキは、困ったような仕草で首を傾げる。その時、発射のベルが聞こえ、ドアが閉まった。彼女も知らない場所なのだろうかと佑暉は少し不安になったが、もう降りられない。やがて、再び電車はゆっくりと動き出した。
佑暉は自分を落ち着かせようと深呼吸してから、さらに付け加えた。
「お父さんが言ってたんだ。水が文字の形になる噴水があるって」
そんな雑な説明をサキは理解したように、顔を綻ばせる。
「あぁ! それってもしかして、ウォーター・アートのこと? 『みやこみち』の!」
やはり、サキは知っていた。これによって、佑暉の不安要素はまた一つ取り除かれた。佑暉は安心しながら、
「多分、そうだと思う。お父さんから聞いて、僕もそれが見たいなって思ったんだ」
と言うと、ふと時間のことを思い出した。
「あ、今日はもう……無理、かな……」
「大丈夫。置屋さんは門限厳しいけど、自宅はそうでもないから。今から、一緒に行こう」
嫌な顔を一切見せることなく、サキが個人の要望をあっさりと聞いてくれたので、佑暉の方が戸惑ってしまった。しかしこれも彼女の優しさだと思うと、彼の胸はまた自然にドキドキしてくるのであった。
この話は元々、別々の話として公開する予定でしたが、どちらも短かったので一話にまとめました。




