送り火観賞②
雑踏の中を逆流し、佑暉はサキに連れられて再び出町柳の駅前まで来た。
「ごめんね。私、大文字がよく見える絶景スポット知ってるから、今からそこに行こうと思うの。多分、鴨川の周りよりは空いてると思うから」
「君の行きたいところでいいよ。僕は黙ってついていくから」
「ありがとう。ちょっと歩くけど、大丈夫?」
「うん。僕は道が分からないから、君が案内してくれると助かるんだけど」
佑暉がこの辺りに来るのは初めてだった。土地勘が皆無の彼は、彼女を頼るしかない。前日、インターネットのストリートビューでも予習したが、調べたのは鴨川の近辺だけであった。
サキに場所だけを尋ねてスマートフォンのマップ機能を使ったとしても、彼女の言う「絶景スポット」が漠然とした場所にあるならば、検索のしようもない。あまつさえ、佑暉は極端に方向音痴なのだ。北に進んでいるつもりが南へ進んでいたということも、これまでにしばしばあった。
橋に背を向け、駅舎の脇の道に沿ってサキは歩き出した。佑暉も、その彼女の半歩後ろをついて歩く。
彼女によると、この辺は「百万遍」という地名らしい。東に行くと、日本でも有数の国立大学がある。さらに進むと白川通が南北に伸び、大文字山が望める。
歩くに連れて道が細くなり、人気も徐々に減っていく。佑暉はスマートフォンで時刻を見ると、八時十二分だった。点火は八時なので、早く行かなければという焦燥感に襲われる。外はすでに暗く、点在する飲食店やコンビニが中の明かりを歩道に投げ、夜の湿気の混ざった風が佑暉の頬に当たった。
京都の暑さは東京の暑さとはまた違う。いったい何がこんなにも差を出しているのだろうかと不思議に感じながらも、佑暉の興味は、サキがどこへ向かっているのかということに向いていった。
駅から数分ほど歩いた時、遠くに人々が密集しているのが見えた。遠目からでも、十数人はいるように思われる。何故あんなに人が集まっているのか佑暉には分からなかったが、さらに歩を進めると、ようやくそれが理解できた。
正面に見える山に、「大」の字がくっきりと見えたのだ。橙色の炎によって描かれた、伝統的なアート――それは確かに、京都の夏を謳っていた。
サキはファーストフード店の前で足を止めた。佑暉もそれに合わせて止まると、目の前には人集りができていた。
「やっぱり、ここは知る人ぞ知るって感じのスポットだから、そんなに人は多くないね」
見渡すと、子連れの大人や中高生などが集まって歓声を上げながら、明々と燃える大文字を撮影している。が、先程の橋を思えば彼女の言うように少人数だった。とは言うものの、いつの間にか二人の後ろにも見物客が集まってきて、この路地にいる人々は二、三十人にまで増えていた。
佑暉も「大」の字を撮影しようと、スマートフォンを掲げた。しかし、どうやってもうまく撮れない。試しに、人差し指と中指を画面の上で広げて拡大してみるが、彼の期待とは裏腹にますますぼやけてしまう。
この時、ふと祇園祭の山鉾巡行の日、サキが言っていたことを思い出す。
――そうか、どんなにきれいに撮ろうとしても、写真は実物を超えられないのだ。
煌々とした炎は美しかった。写真に収めるより、目に焼きつけるからこそ価値があるのかもしれないと思い、佑暉はスマートフォンを下ろすと、燦然と光り輝く大文字に見入る。どんなに解像度が優れたカメラであろうと、本物に勝ることはない。それをサキから教わったのだ。
「きれいだ……」
と、佑暉はつい感嘆の声を漏らす。その声が周りの人々の声に混じって聞こえたのか、サキはおかしそうに微笑った。
「間に合って良かったね」
サキは言うが、その声が全く耳に入っていないのか、佑暉はただ一点だけを見つめている。彼の視線の先にあるのもの――京都市左京区の大文字山に点火された炎のアート。昔の人は巨大な松明を抱え、あの山を馬で駆け登っていたのだろうか……というようなことを、彼はそれを観ながら空想していたのだった。
遠い昔へ思いを馳せたのは、佑暉の生来の性格からではない。しかし、この時ばかりは心が平安や鎌倉の時代にタイムスリップしたような心地になっていた。
なんて美しいんだろうという感動が、何度も彼の脳裏を過ぎていく。その隣ではサキが佑暉に微笑みを送り続けているが、彼は全く気づかなかった。そして、「大」の文字が完全にその色を消すまで、佑暉の目はそれに釘づけであった。
約三十分の点火が終わり、満足した人々は少しずつその場から離れていく。だが、佑暉はなかなか余韻から抜け出せず、立ち止まっていた。終わって寂しいという気持ちと、昔に対する哀愁の念が交互に入り混じり、ぼんやりと炎の消えた大文字山を見つめ続けていた。すると、不意に誰かが彼の左肩を叩いた。
驚いて振り向くと、サキと目が合う。彼女も物悲しそうな目で、佑暉を見つめている。その視線の理由を、彼女は語った。
「私、本当は悔しいんだ」
「えっ?」
「確かに、ここから見える大文字もすごくきれいだけど……鴨川から見える送り火は特別だって、小さかった頃、お母さんが言ってた。だから、いつか私も……そこから観てみたいんだ」
サキの物憂げな目線の正体は、彼女曰く「鴨川のほとりで見たかった」という後悔によるものらしい。
「毎年、早く行かないとあそこは人で溢れ返るから。来年こそは行けたらいいな……」
サキも、灯りの消えた大文字山を見上げる。憂愁を含んだようなその目を見ていると、佑暉はふと思い立った。
「来年は、もっと早く来よう」
そんなことを佑暉が口にするとサキは、今度は不思議そうな顔で彼の顔を見る。佑暉も彼女に向き直ると、続けざまに話し始めた。
「今日、ここまで君に案内してもらったから、来年は僕が連れていくよ。君さえ良ければ」
しかし話している途中で俯き、彼女から目を逸らしてしまった。羞恥が五割、後悔が五割といったところだ。サキがどんな反応をするだろうかと考えると、彼女の顔を直視できなかった。
「ありがとう、今からすっごく楽しみ!」
顔を上げた佑暉の目に映されたのは、右斜め向かいにある薬屋の看板によって照らされた、サキの優しい笑顔であった。佑暉が安堵していると、サキは表情を崩さず「戻ろう」と彼に背を向け、駅の方へ歩き出す。それは、これまでに見たサキの笑顔の中で、最も希望に満ちている笑顔だと、佑暉は感じた。そして佑暉は、それが記憶されたビデオテープを目の奥で何度も再生しながら、彼女の後ろを歩くのだった。




