送り火観賞①
夕方七時を少し回った頃、サキが「ふたまつ」を訪ねてきた。祇園祭にも着てきたあの赤い浴衣に身を包んだ彼女は玄関先に立ち、いつものように正美に土産物を渡した。
昨晩の天気予報では、近畿地方は雨だった。しかし幸いにも、雨は降らなかった。とはいっても曇っているので、正美は佑暉と彩香に折りたたみの傘を入れていくように言った。そして佑暉は帰る時刻を正美に伝えてから、サキと彩香とともに旅館を出る。佑暉は浴衣ではなく、盆に帰った際に東京から持ってきた私服を着て出かけた。だが、外は今もなお蒸し暑い。
東山駅の一番出入口前で愛咲が待っていた。彼女も加えた四人は、階段からホームに向かった。まず地下鉄で三条に出て、そこから京阪で出町柳に向かうというプランだった。
出町柳は鴨川に面した京阪の駅で、出口の正面にはいつくかの橋が架かっている。中でも、今出川通に沿った賀茂大橋からは、「大」の字がよく見えるという。また、そこから鴨川デルタも見ることができると、前日に佑暉は彩香から聞いた。
鴨川デルタは、高野川と賀茂川が合流する地点だ。二つの川が一つに合わさるポイント――つまり鴨川の入口に三角州ができており、それが数学のデルタに似ていることから、その名がついている。
愛咲も彩香も今日は私服だった。愛咲はいつもの髪型だが、白のワンピースを着て、普通の女子高生といった感じを漂わせている。サキ以外は全員が私服のため、佑暉の瞳にはサキが尚さら際立って映った。
混み合った電車の中、佑暉は吊革に手をかけながら地下鉄の車内の様子を眺めていた。その時、ふとあることに気づいて、隣に立っている愛咲にそっと尋ねた。
「あの……京極先輩は?」
彼女は、用事で来ていないと答えた。陸上の試合と日程が重なっているから、今日は来られなかったという。その返事を聞いた佑暉は、夏葉のことを思い出し、皆が忙しくしているのに自分たちだけ楽しんで……と申し訳ない気持ちになる。
愛咲は続けて、佑暉にこう囁いた。
「今日もまた迷子とかにならんといてな」
その会話が聞こえていたのか、愛咲の隣にいたサキが笑い出した。あれはサキの方からいなくなったのではないか、と佑暉は不満そうに彼女を見つめたが、自分にも責任はあったと言葉を飲み込んだ。それにしても、それほどまでに頼りなく見えるだろうか、と佑暉は自分を見つめ返す。しかも、これまでにそう思ったのは一度や二度ではなかったのだ。
三条に行くと、四人は京阪電車に乗り換えた。先程の地下鉄よりも乗降客が多く、ほぼ満員であった。
佑暉は、ここにいる人たちもこれから送り火を観にいくのだろうか、などと想像しながら、期待感を募らせていた。窓の外を鴨川が流れている。街の明かりを映し、橙色に染まった水面は、少し照れているようにも見える。その景色に見とれている佑暉に、
「楽しみだね」
と、誰かが話しかける。佑暉が横を向くと、サキも同じように電車の横を走る鴨川をじっと眺めていた。彩香と愛咲は人混みに紛れて、どこにいるのかも分からない。だが、サキだけはしっかりと佑暉の隣にいたのだ。
佑暉はサキの横顔をまじまじと見ていると、やがて彼女が笑顔を彼に向ける。
「佑暉君は大文字、初めて? 私は何度か行ったことあるけど、お母さん以外と行くのは実は初めてなんだよね」
「昔はよく行ってたの?」
佑暉は何と答えて良いか分からず、そんな質問をした。
「よくってほどでもないけど、飽きるくらいには行ってたかな」
それが「よく」というのではないのか、と佑暉は感じつつも、
「きっと、サキのお母さんも好きだったんだね、送り火」
と返した。すると彼女は一瞬だけ寂しそうに、吊革を握っていない方の手で自分の胸のあたりをぎゅっと押さえたが、すぐにもと通りの笑顔になった。
「うん、すごく好きだった」
彼女はゆっくりと手を下ろし、前に向き直ると続けた。
「出身が東京なのに、京都のこと隅々まで知ってて……私の自慢の母だった」
サキが言い終わるのを待たずに、終点のアナウンスが流れる。
電車は静かに停車した。
扉が開くと乗車していた人々が、巣から出てきた蜂のように一斉にホームへと溢れ出した。佑暉はまたサキとはぐれるのではないかと心配し、咄嗟に彼女の手を握った。サキの柔らかい手を引きながら、彼女を連れて柱の側まで避難する。そして、そこで人が減るのを待った。
ホームを歩いている人々には、黒い鞄を手にした会社帰りと思しき男性や、制服を着た中高生なども多くいたが、何といってもカメラを携えた人が目についた。それを見て、ああ、これから送り火を観にいくのだな、と佑暉は納得する。
京都の夏の風物詩の一つだから、毎年、全国や外国からも観賞に来る人がいるほどだ。
その後、彩香と愛咲と合流し、改札を出た。佑暉の予想以上に駅の外は混雑していて、のんびりと観賞できるような雰囲気ではない。山鉾巡行の時のように警備員が立っていて、規制線まで張られてあった。
油断しているとまた迷子になってしまう、また皆に迷惑をかけてしまう。それが不安の種になった。できるだけ入念に、周囲を気にしながら歩こう、佑暉はそう決心するのだった。
しかしその矢先、佑暉とサキの前を歩いていた彩香と愛咲が、同時に足を止めて二人の方を振り返った。
「では、今から二手に分かれまーす!」
愛咲が突然、そのように宣言する。
「ど、どういうことですか」
おどおどした口調で佑暉はきいた。すると、彩香もこう付け加えた。
「さっき、あーちゃんと相談してな、送り火は二人で見ようってことにしてん」
佑暉には、何故そんなことをするのか分からなかった。まさか、また自分が迷子になると思っているのか。それが嫌だから、別々に行動しようと言っているのか。そんな被害妄想が、彼の脳裏に現れ始める。
しかし、愛咲は能天気に言うのだった。
「河口はさ、サキちゃんと二人きりの方が色んなこと話せるやろ? うちら、うるさいからな」
「そうそう。帰る時は連絡とり合って、また駅前に集合ってことで」
彩香も笑った。佑暉には、それが口裏を合わせているように感じられた。
二人の芝居がかった物言いは、不自然だが気遣いによるものだろうということは、佑暉にも理解できた。だが、そこに迷いも生じた。サキの前でこの提案を承諾してしまえば、胸に抱いている感情が間接的にだが彼女に伝わってしまう気がしたのだ。
いつかは伝えなければと思っているが、まだ心の準備ができていない。
断わろうと佑暉が口を開きかけた時、それをサキの声が遮った。
「私はそれでいいです!」
周りの喧騒をも打ち消すほどの活き活きとしたその声は、佑暉の耳の中で反響した。思考がうまく回らなくなり、彼は二の句を継げなかった。言い渋る佑暉に、サキは微笑みかける。
「佑暉君もいいよね!」
その問いかけに対し、佑暉は何も分からないまま頷いていた。
出町柳の駅前に「河合橋」という橋が架かっていて、五山送り火当日の夜はその橋の手前の信号機は機能せず、歩行者天国となる。
彩香と愛咲は先に横断歩道を渡って、橋の方に行ってしまった。
「私たちも行こう」
サキに誘われ、佑暉も彼女と並んで歩行者天国になっている横断歩道を歩いた。橋上では、車道の中央に規制線が張られ、警備員が拡声器を使って見物客に注意喚起を行っている。
『ここは橋の上です! 立ち止まらないでください!』
佑暉がふと右を見ると、遠方の山ではすでに点火が始まっていた。それを撮ろうと、カメラやスマートフォンを持った人々が、橋の中央辺りに立ち止まっている。
『橋の上では立ち止まらないようにお願いします!』
再び、警官の声が橋の上に響いた。
勝手を全く知らない佑暉はどこに行けば良いかも分からず、きょろきょろと辺りを見渡しては足を止めていた。すると、サキが佑暉の左腕を引いた。彼女は以前から京都に住んでいるので、ここの道もよく知っているらしかった。
橋の袂に来ると、サキは足を止める。
規制線によって進行方向が分けられている。駅側から向こうに渡るには、橋の左側を通らなければならないらしい。二人が立ち止まっていると、何人もの見物客が少し迷惑そうな視線を浴びせながら追い越していく。
「やっぱり、今出川の方は混んでるかな。百万遍の方が空いてるかも」
サキはそのように呟くと、今度は佑暉の右手を引いて踵を返す。
「やっぱり、こっちから行こう!」
早足になり、彼女は駅の方へと戻っていく。佑暉も反抗することなく、それに従った。サキがどこに向かっているのか見当がつかないが、右も左も分からない彼は、彼女を信じることしかできなかったのだ。




