前夜
佑暉の三泊四日の帰省が終わり、十五日、慎二は東京駅まで彼に着いてきた。
「じゃあ、気をつけてな。何かあったら、またいつでも帰ってくるんだぞ」
改札前で慎二は佑暉に優しい笑顔を見せる。明日から仕事に戻らなくてはならない父を案じ、曇った顔をする佑暉に慎二は言った。
「心配するな。京都に帰ったら、勉強頑張れよ」
慎二は片方の手で佑暉の右肩を掴み、もう一方の手で彼の頭を強く撫でる。
ついに、佑暉は父に何も問い質せないまま帰る日を迎えてしまった。だが、それはそれで父をかえって困らせてしまうのではないか、という自己嫌悪に陥るのであった。ただでさえ疲弊しながらも勤労を続けている父を、これ以上苦しめるわけにはいかない。そう思うことが、彼の父に対する親孝行でもあったのだ。
父の目を見つめてこくりと頷くと、佑暉はショルダーバッグの紐を握りしめながら答えた。
「お父さん。仕事、頑張ってね」
「ああ、頑張る」
すぐにそんな返事があった。
佑暉は改札からホームに行くと、「博多行き」と電光掲示板に書かれた新幹線に乗った。
ゆったりと流れる景色を佑暉は座席から眺めていると、慎二の挙動不審が脳裏を疾風のごとく過ぎった。しかしその瞬間、彼は首を振り、忘れようと試みた。わざと頭の中で関係のないことを考えたり、スマートフォンでブログを開いたりした。そうしているうちに、京都に着く頃にはすっかり彼は例のことを忘却していた。
旅館に戻ってきたのは、午後七時過ぎだった。表戸を開けると、盆を持った仲居たちが慌ただしく廊下を走り回っているが見えた。今夜の泊まり客に出す夕餉を広間に運んでいるらしい。
一人の仲居が帰宅した佑暉に気づくと、盆を抱えたまま彼のところに走ってきた。
「お帰りなさい」
「はい、ただいま戻り……」
そう言いかけた佑暉は、その仲居の顔を見て仰天した。目の前に立っていたのがサキだったからだ。
「サキ、何してるの」
しどろもどろになりながらきく佑暉を見て、笑いを堪えつつサキは話した。
「女将さんから、佑暉君が実家に帰ってるって聞いたの。だから、私が代わりに手伝いに来てるんだ」
「お稽古は大丈夫なの」
「置屋さんに頼んで、お休みもらったから大丈夫」
サキは「ふたまつ」の着物もうまく着こなしていた。着物が日本で最も似合うのはサキだとすら、佑暉には思えるのだった。
サキが再び向こうに走っていくと、佑暉は旅館に上がって自室にバッグを置きにいった。
その後、佑暉も接客の手伝いをしようと居間に向かった。正美は、帰ってきたばかりだからと言ったが、佑暉には三日間も休んだ分を取り戻そうという意思があるのだ。
広間では、予定時刻よりも早く到着した客が数人、座布団の上に胡座をかいて談笑していた。彼らのすぐ横には長方形の食卓が置かれ、仲居たちがそこに夕餉を並べている。佑暉が一人の仲居に近づいて、「手伝いますよ」と言おうとした時、彼を見た一人の男性客が片手を挙げた。
「やあ。久しぶりやなあ、君」
その男は客用の浴衣を乱雑に着て、風呂上りなのかタオルを首から下げている。度々泊まりに来る客だったので、佑暉はその男と顔見知りだった。妻と仲が悪く、喧嘩をする度に泊まりに来るのだと聞いていた。
「お久しぶりです、中岡さん」
佑暉はその男の前に座ると、手をついて会釈する。客には精一杯の誠意をこめて接しなくてはならない。最初に正美からそう教えられたことを思い出しながら、佑暉は中岡に挨拶をした。
「ハハハ、若いのに大したもんや」
中岡は機嫌良さそうに笑い、佑暉の右肩を軽く叩いた。中岡は数年前まで大阪の会社に勤務していたが、現在は退職し、京都の観光地巡りを道楽にしているという。
しばらく中岡の話し相手をしていると、広間にサキが入ってきた。すでに中学の制服に着替え終わり、佑暉の隣に腰を下ろすと「ようこそおこしくださいました」と言って、中岡に頭を下げる。傍らから彼女を見ていた佑暉は、やはり一切無駄のないきれいな所作だと感心した。中岡は一瞬ぽっと顔を赤く染めたが、すぐに咳払いをし、
「ようできはる子やね」
と、サキを称賛していた。次いでサキは佑暉の方に体を向け、
「もう全部運び終えたので、これで上がりますね」
と、アルバイトのような台詞を口にする。
「じゃあ、送っていくよ」
佑暉はそう言って立ち上がろうとすると、サキは彼の服を軽く掴んだ。
「いいよ、駅すぐそこだし」
「でも、もう暗いから危ないよ」
盆を過ぎると、七時半を過ぎれば紺色の空が広がっている。サキを心配して佑暉は見送りを提案したが、彼女は溜息をついた。
「佑暉君、心配しすぎ。確かに、神社の近くはちょっと薄暗いけど、大通りに出ると人通りも多いから大丈夫だよ」
「でも……」と口籠る佑暉に、サキは苦笑を浮かべながら言った。
「ありがとう、本当に心配性なんだね。それなら送ってもらおうかな」
それを聞くと、佑暉も嬉しそうに頷いた。
佑暉はまた中岡に挨拶し、厨房で鍋の支度をしていた正美に一声かけてから、サキとともに外へ出た。東大路通を左折し、真っ直ぐ伸びる三条通を東山駅に向けて歩く。その途中、佑暉の隣を歩いていたサキが、ぽつりと呟いた。
「楽しみだね、明日」
「明日?」
「ほら、送り火。私も久しぶりに観にいくから、ずっと楽しみにしてたんだよね」
可愛らしい笑顔をサキが見せるので、佑暉は不意に激しい鼓動を覚え、気づかれまいと彼女から視線をそらす。程なくして、駅が見える。
「じゃあ、もう行くね。送ってくれてありがとう」
サキは佑暉に手を振ると、駅の方に走っていった。佑暉も手を振り返し、彼女を見送った。やがて彼女が階段を下りていくのを見届けると、佑暉は旅館に引き返した。
帰り道、佑暉は翌夜のことを考えていると、次第に足取りが軽くなっていくのが分かった。
毎年、八月十六日に京都の山々を彩るのが送り火だ。有名な大文字に加え、「妙」や「法」といった文字にも明々と火が灯る。佑暉にとって、実際に見るのは今年が初めてなのだ。今夜は祇園祭の前夜と同様に、興奮して眠れなくなることが危惧された。
しかしその夜、いざ布団に入ってみると、東京から帰ってきたばかりで疲れていたせいか、案外あっさりと眠りに入ってしまった。




