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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第三章 送り火過ぎて秋きたる
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戸惑いの朝

 瞼を開けた佑暉の視界に入ったのは、白い天井だった。朝一番に板張りの天井を見る生活に慣れていた彼は少々驚いたが、意識が判然としてくるに連れて、ここは中学まで過ごした東京の家なのだということを思い出す。


 上体だけを起こし、傍らのカーテンを開けると夏の陽光が部屋の中に舞い込んだ。枕元のスマートフォンで時間を確かめると、十時を過ぎていた。佑暉は急いでベッドから飛び出し、着替えを済ませてから部屋を出る。階段を駆け下り、リビングを覗くと慎二がコーヒーを啜っていた。


「おはよう、佑暉。昨日はよく眠れたか?」


 父は椅子に腰かけ、テーブルの上に新聞を広げていた。右手に持ったマグカップからは湯気が上り、コーヒーの香りが部屋中に充満している。


 佑暉も父に「おはよう」と言い、席に着きにいった。テーブルには正美からもらった八ツ橋が、箱が包みから出された状態で置かれていた。


「朝飯はパンでいいか? それだけじゃ、物足りんだろう」


 父からの問いかけに佑暉は軽く頷き、置いてあった食パンを袋から出してそれに齧りついた。その味に、佑暉はどことなく懐かしさを覚える。


 京都では、食卓に並ぶのは殆ど和食だった。「ふたまつ」の姉妹がこっそり買い食いしてきたファーストフードの残りをもらったりしたことがあるくらいだ。


「何か飲むか? コーヒー、良かったら入れるぞ? それとも、紅茶がいいか?」


 慎二は尋ねた。


「じゃあ、紅茶」


 佑暉の注文を聞くと、慎二は嬉しそうに立ち上がって台所の方に行った。平生と同じように父は優しいが、佑暉はどうしても昨夜のことが忘れられなかった。何故、あんなに父が動揺したのか未だに謎のままだ。


 慎二は紅茶セットを持ってくると、瓶から少しずつカップに注ぎ始める。その時、父はふと佑暉にあることを尋ねた。


「そうだ、京都観光はしたか? 色んな名所があるから、とても一遍には見られないけどな」


「うん、ちょっとだけどしたよ。祇園祭にも行ったし」


「そうか、凄かっただろう。長刀鉾なんか、十一トンもあるって話だからな。あれを何十人かの大人が運ぶんだから、相当なものだろう」


 興奮したように話す父を、佑暉は少し安堵しながら見ていた。すると、今度はこんな質問をされる。


「そうだ、京都駅のレストラン街には行ってみたか?」


「レストラン街?」


「ああ、たくさんレストランが並んでただろう」


「まだ行ってないから分からないよ」


 慎二は紅茶を入れるのを一旦中断し、佑暉を見つめた。


「なんだ、じゃあ噴水のことも知らないの?」


「噴水?」


 首を傾げる佑暉を見て、慎二は説明した。


 京都駅に「みやこみち」というレストラン街があり、そこの奥に噴水が設置されているのだという。上から下へ水が落ちる様式のもので、その水が文字や記号の形となって落下するのが特徴らしい。


「あれもプログラムでできているんだろうな。いつか、俺もあんなものを作ってみたいなあ」


 まるで夢を語る子供のように、慎二は呟く。


「お前も一度、誰かを誘って見にいってみたらどうだ。そんなものに興味を持ってくれそうな、そんな子はお前の近くにはいないのか?」


 父にそうきかれると、佑暉はふと脳裏に一人の顔を思い浮かべる。しかし話すに話せず、彼は口籠ってしまった。どうやって説明すべきか、分からない。


「いるにはいるけど……」


 思案の末、佑暉はなんとか喉の奥から声を絞り出す。


「お、もしかして同じクラスの子か?」


「そうじゃなくて、お茶屋さんで知り合った子」


「お茶屋さん? まさか、芸者さんか?」


 言い当てられ、佑暉は赤面する。慎二もそれを見て「ははーん」と笑った。


「どうやら図星のようだな」


 予想外に父の反応が良かったので、佑暉の心はますます揺らいでしまう。


「……何とも思わないの?」


「まあ、そうだな。でも、俺はべつにいいと思うけどな。で、歳は幾つって言ってた?」


「僕より一つ年下みたい」


「年下かあ。ということは、まだ舞妓さんなのか?」


 佑暉が小さく頷くと、慎二はニッと笑い、再び紅茶を注ぎ始めた。佑暉はそれを見ながら、この際すべて言ってやろうと、さらに付け加える。


「祇園祭にも、その子と一緒に行ったんだ。途中ではぐれちゃったけど」


「ちゃんと見つけられたのか?」


「うん、なんとかね。それで今度、送り火にその子も来ることになったんだ。僕が誘ったんだけど」


「ほほう、お前も成長したんだな。同世代の女の子に、自分から話しかけるなんてな」


「そ……そんなことないよ。でも、サキは優しいから、ちゃんと僕の話も真剣に聞いてくれるんだ」


「サキ?」


 突然、慎二の手が止まる。


「うん、その子の名前だけど……どうしたの?」


 佑暉は不思議そうに尋ねるが、慎二は放心したように固まったままだ。すると、たちどころにカップの中が一杯になり、噴水のように紅茶が溢れ出してくる。


「お父さん、溢れてるよ!」


「お、おお、すまんすまん!」


 慎二もすぐに気がつき、瓶を置いて台所の方へ駆けていった。そして戻ってくると、布巾でテーブルの上を拭いていた。その様子を見て佑暉は、また慎二のことが心配になる。寿司屋でのことといい、何があったのだろうという恐怖にも似た不安に襲われる。あんなに動揺した父を、佑暉は見たことがない。


 慎二は拭き終えると大きく深呼吸し、紅茶を入れたカップを佑暉の目の前に置く。


「ごめんな、八ツ橋も食べていいぞ」


 そう言って佑暉に笑いかけた後、慎二はリビングを出ていってしまった。その後、佑暉はリビングで一人、黙って紅茶を飲んだ。


 ラベンダーの香りが妙に心地良く、彼の鼻の奥をつく。その和やかな香りに逆らうように、味は苦い。普段は角砂糖を二個ほど入れるが、佑暉はそのまま飲み続けた。頭の中にあるのは、慎二のことだけだった。


 紅茶を飲みながら、色々と思いを巡らせてみたが、何も分からなかった。本人に尋ねるしか正解を見出せないとさえ思えた。だが、きいても答えてくれるという確証はない。答えてくれない可能性の方が高いようにも思われる。


 ただ、佑暉にも一つだけ自信を持てることがあった。父は、サキの名前に反応したのだ。

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