戸惑いの朝
瞼を開けた佑暉の視界に入ったのは、白い天井だった。朝一番に板張りの天井を見る生活に慣れていた彼は少々驚いたが、意識が判然としてくるに連れて、ここは中学まで過ごした東京の家なのだということを思い出す。
上体だけを起こし、傍らのカーテンを開けると夏の陽光が部屋の中に舞い込んだ。枕元のスマートフォンで時間を確かめると、十時を過ぎていた。佑暉は急いでベッドから飛び出し、着替えを済ませてから部屋を出る。階段を駆け下り、リビングを覗くと慎二がコーヒーを啜っていた。
「おはよう、佑暉。昨日はよく眠れたか?」
父は椅子に腰かけ、テーブルの上に新聞を広げていた。右手に持ったマグカップからは湯気が上り、コーヒーの香りが部屋中に充満している。
佑暉も父に「おはよう」と言い、席に着きにいった。テーブルには正美からもらった八ツ橋が、箱が包みから出された状態で置かれていた。
「朝飯はパンでいいか? それだけじゃ、物足りんだろう」
父からの問いかけに佑暉は軽く頷き、置いてあった食パンを袋から出してそれに齧りついた。その味に、佑暉はどことなく懐かしさを覚える。
京都では、食卓に並ぶのは殆ど和食だった。「ふたまつ」の姉妹がこっそり買い食いしてきたファーストフードの残りをもらったりしたことがあるくらいだ。
「何か飲むか? コーヒー、良かったら入れるぞ? それとも、紅茶がいいか?」
慎二は尋ねた。
「じゃあ、紅茶」
佑暉の注文を聞くと、慎二は嬉しそうに立ち上がって台所の方に行った。平生と同じように父は優しいが、佑暉はどうしても昨夜のことが忘れられなかった。何故、あんなに父が動揺したのか未だに謎のままだ。
慎二は紅茶セットを持ってくると、瓶から少しずつカップに注ぎ始める。その時、父はふと佑暉にあることを尋ねた。
「そうだ、京都観光はしたか? 色んな名所があるから、とても一遍には見られないけどな」
「うん、ちょっとだけどしたよ。祇園祭にも行ったし」
「そうか、凄かっただろう。長刀鉾なんか、十一トンもあるって話だからな。あれを何十人かの大人が運ぶんだから、相当なものだろう」
興奮したように話す父を、佑暉は少し安堵しながら見ていた。すると、今度はこんな質問をされる。
「そうだ、京都駅のレストラン街には行ってみたか?」
「レストラン街?」
「ああ、たくさんレストランが並んでただろう」
「まだ行ってないから分からないよ」
慎二は紅茶を入れるのを一旦中断し、佑暉を見つめた。
「なんだ、じゃあ噴水のことも知らないの?」
「噴水?」
首を傾げる佑暉を見て、慎二は説明した。
京都駅に「みやこみち」というレストラン街があり、そこの奥に噴水が設置されているのだという。上から下へ水が落ちる様式のもので、その水が文字や記号の形となって落下するのが特徴らしい。
「あれもプログラムでできているんだろうな。いつか、俺もあんなものを作ってみたいなあ」
まるで夢を語る子供のように、慎二は呟く。
「お前も一度、誰かを誘って見にいってみたらどうだ。そんなものに興味を持ってくれそうな、そんな子はお前の近くにはいないのか?」
父にそうきかれると、佑暉はふと脳裏に一人の顔を思い浮かべる。しかし話すに話せず、彼は口籠ってしまった。どうやって説明すべきか、分からない。
「いるにはいるけど……」
思案の末、佑暉はなんとか喉の奥から声を絞り出す。
「お、もしかして同じクラスの子か?」
「そうじゃなくて、お茶屋さんで知り合った子」
「お茶屋さん? まさか、芸者さんか?」
言い当てられ、佑暉は赤面する。慎二もそれを見て「ははーん」と笑った。
「どうやら図星のようだな」
予想外に父の反応が良かったので、佑暉の心はますます揺らいでしまう。
「……何とも思わないの?」
「まあ、そうだな。でも、俺はべつにいいと思うけどな。で、歳は幾つって言ってた?」
「僕より一つ年下みたい」
「年下かあ。ということは、まだ舞妓さんなのか?」
佑暉が小さく頷くと、慎二はニッと笑い、再び紅茶を注ぎ始めた。佑暉はそれを見ながら、この際すべて言ってやろうと、さらに付け加える。
「祇園祭にも、その子と一緒に行ったんだ。途中ではぐれちゃったけど」
「ちゃんと見つけられたのか?」
「うん、なんとかね。それで今度、送り火にその子も来ることになったんだ。僕が誘ったんだけど」
「ほほう、お前も成長したんだな。同世代の女の子に、自分から話しかけるなんてな」
「そ……そんなことないよ。でも、サキは優しいから、ちゃんと僕の話も真剣に聞いてくれるんだ」
「サキ?」
突然、慎二の手が止まる。
「うん、その子の名前だけど……どうしたの?」
佑暉は不思議そうに尋ねるが、慎二は放心したように固まったままだ。すると、たちどころにカップの中が一杯になり、噴水のように紅茶が溢れ出してくる。
「お父さん、溢れてるよ!」
「お、おお、すまんすまん!」
慎二もすぐに気がつき、瓶を置いて台所の方へ駆けていった。そして戻ってくると、布巾でテーブルの上を拭いていた。その様子を見て佑暉は、また慎二のことが心配になる。寿司屋でのことといい、何があったのだろうという恐怖にも似た不安に襲われる。あんなに動揺した父を、佑暉は見たことがない。
慎二は拭き終えると大きく深呼吸し、紅茶を入れたカップを佑暉の目の前に置く。
「ごめんな、八ツ橋も食べていいぞ」
そう言って佑暉に笑いかけた後、慎二はリビングを出ていってしまった。その後、佑暉はリビングで一人、黙って紅茶を飲んだ。
ラベンダーの香りが妙に心地良く、彼の鼻の奥をつく。その和やかな香りに逆らうように、味は苦い。普段は角砂糖を二個ほど入れるが、佑暉はそのまま飲み続けた。頭の中にあるのは、慎二のことだけだった。
紅茶を飲みながら、色々と思いを巡らせてみたが、何も分からなかった。本人に尋ねるしか正解を見出せないとさえ思えた。だが、きいても答えてくれるという確証はない。答えてくれない可能性の方が高いようにも思われる。
ただ、佑暉にも一つだけ自信を持てることがあった。父は、サキの名前に反応したのだ。




