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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第三章 送り火過ぎて秋きたる
37/62

夏休み勉強会

今回の話から第三章です。

 八月三日、金曜日。四条高校も夏休みの只中であった。校庭には野球部員の声が高らかに響き、敷地内の木立では蝉の大合唱が続いている。さらに夏の暑さも相俟って、それらを少し煩わしく思いながら、佑暉は高校の正門をくぐった。まだ午前八時だったが、街のじめじめした風が学校前の路地にまで届き、五分も外にいればシャツが汗ばんだ肌に張りつくほどだ。


 佑暉は強い日差しから逃れるように校舎の中に入ると、教室に行ってドアを開けた。


 そこでは朱音がすでに着席していた。机に両肘をつき、半袖のシャツの袖口から伸びた日焼けとは無縁の白い両手を顎の下で弄ぶようにして動かしている。その暇を持て余したような姿は、まさか彼女は一時間以上も前から登校しているのだろうかと佑暉に思わせた。しかも佑暉が来たことにも気づいていないように、彼女は前の黒板の方だけを見つめている。


 佑暉が教室を見渡すと、彼女の他には誰も来ていない。後ろの窓が開き、扇風機が回っている。


 佑暉は朱音に近づいていき、


「諏訪さん」


 と、声をかける。すると朱音が、ようやく佑暉の方を振り向く。


「おはよう」


 急に背後から話しかけられても朱音は驚くことなく、無表情に近い顔で佑暉に言った。


「待ち合わせまでまだ十五分後くらいあるのに、早かったんだね。もしかして、待った?」


「べつに」


 佑暉の質問に対し、朱音はにべもなく答えると、横にかけていた鞄から筆記用具と教科書、ノートを取り出す。佑暉がその様子をただ呆然と眺めていると、朱音はまた彼を見た。


「どうしたん? はよ始めよう」


 鋭い目を向けられ、我に返った佑暉は慌てて自席に鞄を置きにいった。佑暉も筆記具とノートを鞄の中から取り出し、椅子と一緒に朱音の席へ持っていこうとすると、彼女は一つ前の席を指さしながら言った。


「ここに座って」


「でも、そこは坂口さんの席じゃ……」


「今日は誰も来てないから」


 佑暉は一瞬逡巡したが、朱音の前の席に行き、そこの椅子を彼女の方にくるりと回転させて座った。


 朱音はしばらく、数学の教科書をぺらぺらとめくっていた。佑暉は事前に何も聞かされていなかったので、朱音からの発言を待った。しかし彼女は教科書を閉じたと思うと、それをノートと一緒に再び鞄の中に仕舞い込んでしまったのだ。


 佑暉が驚いてそれを見ていると、朱音は代わりに藁半紙のプリントを出し、それを机に置いた。


「先生からプリント預かってたん、忘れてた」


 そう言いながら、B4サイズの紙を佑暉の前に広げる。そこには佑暉が苦手とする数学Aの問題が連なり、右上には「河口くん特別問題1」という手書きの文字が印刷されている。これは吉沢が彼のために用意した問題だった。


 一生徒に対する配慮にしてはやや大袈裟ではないかと佑暉は感じたが、心の中で吉沢に礼を言い、早速問題に取りかかった。集合に確率……どれも佑暉には不得手な分野だった。父がプログラマーなのに数学ができないのは、母の遺伝だろうかと彼は何度も考えたことがある。


 一問目を解き終えた時、佑暉が顔を上げて朱音を見ると、彼女はスマートフォンを弄っているだけで、私は関係ないという顔をしている。朱音のそんな態度を見ると、佑暉はひどく意気消沈してしまった。


 佑暉がしきりに朱音に視線を送り続けていると、彼女はようやく気づいたのか携帯から目を離し、顔を上げた。


「できた?」


「できたけど……」


 佑暉は、自分でも気がつかないうちに不満そうな顔になっていたようで、彼の顔を見た朱音がフッと笑う。佑暉もそっぽを向き、強気を見せた。しかし、またしても彼女の掌で踊らされているような気がしてならない。


 できるだけ朱音と目を合わせないように努めながら、佑暉は目線を再びプリントに落とし、二問目に取りかかる。しかし解いている途中で、そっと彼女を盗み見た。彼女はまた、スマートフォンを片手に指を走らせている。誰かにメールでも打っているのだろうかと考えるうち、佑暉の手は自然に止まっていた。その時、ふとあのことが頭をよぎった。


 朱音と会話していると、しばしば思い出すのだ。彼女は微塵も気にしていないように振る舞っているが、実際はどうなのだろう。佑暉はそれが気になったが、他人が口出しすることではない気もした。


 ただ、心に何かが引っかかって勉強に集中できず、モヤモヤだけが広がっていく。きくだけなら……と思った佑暉は、朱音に言葉をかける。


「諏訪さん、ちょっといいかな」


「何、終わったん?」


「いや、そうじゃなくて。この間、ご両親が離婚したって言ってたよね。もしかしてあれから、お母さんに会いに行ったりしたの?」


 朱音は無反応であった。


 二人の間に沈黙が流れ、聞こえるのは扇風機の音と窓の向こうでさんざめく蝉の声だけだった。佑暉は後悔し、気まずさに堪えた。触れてはいけない話題だったのだろうかと考えたが、彼女の顔は至って冷静だった。一方、佑暉には怒っているようにも見て取れた。


「……できた?」


 やや強い口調で朱音が問うので、


「はい」


 と、佑暉は親に叱られた子供のように素直な返事をし、プリントを彼女の方に向けた。


「合ってる」


 彼の出した答えを見た朱音はそう言ってペンを持つと、問題の解説を始める。だが、佑暉にとって集中して聞ける状況とは程遠かった。


 本当は母親に会いたいと思っているのではないか、また家族揃って暮らしたいと願っているのではないか。朱音の表情からも、彼女のそんな心情が垣間見えるようだった。そんなことを考えるうちに、佑暉の思惟のベクトルは尚以て勉強から逸れていく。


 その時、


「……んぎゃっ!」


 突然、朱音からデコピンを食らわされ、佑暉は悲鳴に近い声を上げた。


「集中して」


「ごめん……」


 佑暉は、額を手で押さえながら謝った。やはり、今は勉強に集中した方が良さそうだ。そう無理やり自分を納得させ、佑暉は頭を切り替えることにした。


 朱音の解説はとても解り易く、彼が理解するのに時間はあまりかからなかった。


 正午を多少過ぎ、勉強会は終わった。


「今日はありがとう。明日からもよろしく」


 帰り支度を済ませると、佑暉は朱音にそう礼を言った。彼女は、


「帰ったら復習しといてな」


 と冷たく返し、立ち上がると鞄を肩にかけた。そして教室から出ていこうとする朱音の後ろ姿に、佑暉は声を投げる。


「諏訪さんの教え方、とても解り易かったよ」


 しかし朱音は振り向くことなく、無言で一人颯爽と出ていった。それを見送った後、佑暉も机に置かれた自分の鞄を手に掴んだ。その時、廊下から足音が聞こえた。朱音が戻ってきたのかと彼は思ったが、その音は次第に大きくなり、部屋に一人の生徒が入ってきた。佑暉と同じクラスの学級委員、玄長げんちょう智弘ともひろである。


「あれ、河口。何してんの?」


 智弘は自席に向かって歩きながら、不思議そうに佑暉に問いかける。


「今日、補習があったんだ。期末の成績が悪くて……」


「あぁ。そう言えば今、廊下で諏訪とすれ違ったんやけど、もしかして一緒に教室で勉強してたん?」


「う、うん」


「あいつ、確か部活入ってなかったよな」


 智弘はそのように呟きながら、机の横にかかっているシューズケースを取った。


「玄長君は何か部活やってるの?」


「うん、卓球」


 シューズケースを取りにきたのは、これから練習があるからだと智弘は言う。その時、廊下から女子のよく通る声が響いた。


「まだ~? もうみんな集合してるで~?」


「すみません、すぐ行きます!」


 教室前に立っているらしい女子の呼びかけに、智弘は振り向いて応じる。すると、続いてこんな声がした。


「あ、河口や!」


 教室につかつかと入ってきたのは、愛咲であった。愛咲は笑顔で佑暉に声をかける。


「何してんの、自分」


「補習です」


「補習? 期末、悪かってんや?」


「はい」


「ところでさ、彩香から聞いたんやけど。祇園祭の日、高校生の分際で朝帰りしたらしいやん」


 佑暉はドキリとし、身体を硬直させた。唐突に話題を変えられ、しかもあのことを愛咲にも知られていたのだという事実を突きつけられたようで、佑暉は戦慄してしまう。それだけではなく、もう一つ厄介な問題が彼を困惑させていた。


 佑暉が恐る恐る愛咲の横に視線を動かすと、智弘が怪訝そうな目で彼を見ていた。さらに気まずさが増し、佑暉はどう言い訳しようか思考を蜘蛛の巣のように張り巡らしていると、愛咲が教室の時計を見ながら声を発した。


「あ、やば。はよ行かな怒られるやん。行こう」


 愛咲が目で智弘を促すと、二人は一緒に教室を出ていった。


「先輩、河口と知り合いやったんですか」


「そうやで」


「因みに、どういう経緯で?」


「教えへーん」


「なんでっすか」


 廊下には、そんな会話が響いていた。


 唖然と教室の中に一人立ち尽くしていた佑暉は、少しずつ思考が追いついてくると、愛咲も智弘と同じ卓球部に所属しているのだということを理解した。

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