祇園祭 山鉾巡行②
十時を過ぎ、日が高くなって気温が上がってきた頃、会場はどよめきに包まれた。右斜め後ろから段々と笛の音が近づいてくるように思われ、佑暉は耳に神経を集中させた。すると、その音は次第に明瞭になっていった。彼の隣にいた一人の男性が、素早くカメラを構える。佑暉も血湧き肉躍る気持ちで、早く例のモノが現れるのを待った。
ビルの隙間から長刀鉾の先端部分が見え始めると、観客たちは早速、カメラを掲げ、シャッターをしきりに切っていた。佑暉もスマートフォンで一枚撮った。やがて、長刀鉾が完全にその姿を現す。昨晩、愛咲と一緒に見た鉾が、本当に人の手によって動いていた。
袴を着た男たちが先頭を歩き、その後ろを囃子の奏者が続く。笛、小型の和太鼓、摺鉦まで様々な種類の和楽器が見られる。そしてさらにその後ろを、鉾がゆったりとした速度で移動している。白い短パンを穿き、上に白い甚平を羽織った男たちが綱を引き、山車を動かしていた。
昨夜と同じように、鉾の上には男たちが乗っている。そればかりではなく、その先頭中央には化粧をし、着物を着て綺羅びやかな装飾品を身にまとった子供が乗っていた。佑暉はそれを人形かと思ったが、近づいてくるに連れて本物の人間だと確信した。
「子供が乗ってるよ」
隣のサキに話しかけると、彼女は答えた。
「あれはお稚児さんっていうんだよ」
「お稚児さん?」
「うん、聞いたことない? あぁいう風にお化粧して、行列に参加するの」
佑暉が再び鉾の上方を見やると、稚児は毅然と前だけを見つめていた。その肝が据わった姿には力強さがあると佑暉は感じた。
屋根にも数人が乗っており、青空に伸びた長刀は威厳を保っていた。鉾頭が陽の光を受けてきらりと光っている。真木の中央辺りからは、鳥が羽を広げたように榊が左右に広がり、ゆさゆさと風に揺れている。
河原町通と御池通の交差地点まで来た時、鉾は止まった。
「これから、進行方向を変えるの」
隣からサキが佑暉に囁く。
あの巨躯の進路を、どのようにして変えるのだろうか。佑暉はそう思いながら、興味津々に目を凝らす。すると、二、三人の男が薄く切った竹を運んできた。それを車輪の周りに並べ、水を撒き始める。
鉾を曲がり易くするためだとサキが説明するが、佑暉は山車に目を奪われ、何も答えなかった。
一連の工程が終了すると、「せーのっ!」という掛け声とともに、少しだけ鉾が斜めに動き、観客から拍手と歓声が沸いた。そして、同じ作業を何度か繰り返していくうち、長刀鉾は見事に九十度曲がった。それから再び前進し始め、佑暉やサキの目の前を通ると右から左へ去っていった。それまでの間、佑暉は必死に写真を撮り続けていたのだった。
長刀鉾が去ると同時に、別の鉾が現れた。それが去ると、また次が現れる。そうして次々に色々な山車が登場し、ますます会場は盛り上がった。長刀鉾のように巨大な鉾もあれば、「山」と呼ばれる小さいものも見られる。
蟷螂山、霰天神山、油天神山、函谷鉾、孟宗山、綾傘鉾、白楽天山……。
山鉾が眼前を通過するごとに佑暉は連写していると、サキが呆れたような声を出した。
「佑暉君。写真撮るのもいいけど、もっと実物を見た方がいいよ。写真は本物を超えられないからね」
「ごめん。こんなの初めてだから、感動しちゃって」
佑暉はそんな言い訳をしながら、そっとスマートフォンを下ろす。
「私も、初めて見た時は感動したな。四歳の時、お母さんが連れてきてくれたの。あの時も、確かここで見た。京都って色んな伝統があるから、それを世界中の人に知ってほしいって思う時があるんだよね。最近はSNSとかですでに広まっちゃってるけど、まだまだ知られてないところもあるから。それを伝えていくことが、私の夢でもあるんだ」
熱く語るサキの目は、子供のようにきらきらと輝いている。佑暉も彼女のその言葉を聞き、微笑ましくなった。サキは舞妓として京都を心から愛し、その魅力を伝えていく努力をしているのだ。そう思える、凛とした声音であった。
前祭の大トリを飾るのは船鉾だ。それが河原町通を御池通の方に前進してくるのが見えると、より一層大きな拍手が起こった。まるで地上を走る船のようだと佑暉は思った。響き渡る笛の音が、客席にまで澄み渡り、夏の暑さを緩和しているようでもあった。
船鉾も他の山鉾と同じように佑暉の目の前を通過し、西の烏丸通に向かっていく。鉾が小さくなると、観光客たちは徐々に帰り支度を始める。しかし、佑暉はなかなか余韻から覚めず、しゃがんだままボーッと目の前の京都市役所を見つめていた。
すると、サキが佑暉に反応を求めた。
「佑暉君。そろそろ移動しないと、みんなの邪魔になっちゃうよ」
サキは両手で佑暉の右腕を掴んで立ち上がると、それと同時に佑暉も否応なく立ち上がる。ずっとしゃがみ込んでいたせいか、佑暉は太腿から膝にかけて少し痛みを感じた。
「この後、どこ行こっか。このまま帰っちゃうのも勿体ないし、これから色んなとこ見て回りたいんだけど」
サキが首を傾げながら言う。佑暉もすぐには思いつかなかった。その時、彼女が「アッ」と声を上げて彼の方を見る。
「この先に寺町通ってとこがあるんだけど、そこに商店街があるの。そのすぐ近くには本能寺があるんだよ。知ってるでしょう?」
「織田信長が討たれたところ?」
「そうそう!」
佑暉が問い返すと、サキは嬉しそうに二度ほど頷いた。
さらに、佑暉は「寺町」と聞いて、幾度か父から聞かされた話を思い出した。
商店街の呉服屋の娘が父の同級生にいて、毎日近くまで行って見ていたという。その女性と佑暉の母親が似ていたことも、父は彼に語った。
行ってみたい、という淡い願望が佑暉の心に蠢いたが、二十数年前の話だからその人が今もそこにいるとは限らないという考えに落ち着いた。それでも、寺町がどんな場所か知っておくのも悪くないだろうとも思い、佑暉はサキの提案に乗る。
「じゃあ、一緒に行こう」
「ありがとう」
サキも無邪気な笑みで返し、歩き始めた。
寺町に行く前に、近くの喫茶店で軽い昼食をとった。その時、佑暉はサキと夜店巡りをする約束をした。しかしサキが以前、夜には座敷に上がらねばならないと話していたのを思い出し、佑暉は大丈夫だろうかと不安になったが、尋ねる前に彼女は席を立ってしまった。
寺町通の商店街は祇園祭の影響を受け、佑暉が予想した以上に賑わっていた。多種多様の店がズラリと並び、学生と思われる人々や外国人や行き交っている。
商店街の入口をくぐって数歩歩くと、左手には「天本山本能寺」と書かれた石標があった。その背後には山門が見える。佑暉はバッグからまたスマートフォンを出すと、その石標と山門を撮った。この時、彼は充電が十パーセントを切っていることに気づいた。佑暉は慌てて画面を消し、後ろを振り返った。しかし、そこにいると思い込んでいたサキの姿はどこにもなかった。




