祇園祭 宵山②
午後六時頃の四条大橋は、身動きができないほどに観光客たちで溢れ返り、なかなか思うように足が前に進まない。佑暉は歩きながら、ふと右側を流れる川に目を向けた。水が上流から滔々と流れている。一体どこから来るのか、佑暉には見当もつかない。
四条より北に位置する賀茂大橋のすぐ手前で賀茂川と高野川が合流し、鴨川という一つの川になるのだと佑暉も父から聞いて知っていたが、スケールまでは想像していなかった。夕日を水面にきらきらと反射させ、静かに流れるさまは風情がある。
有名な鴨川を間近から見て、佑暉は思わず足を止めてしまいそうなほどの昂奮を覚えたが、止まるわけにもいかず、そのまま歩き続けた。
次に左手を見やると、土手沿いに杏色の建物があった。四階建てほどの高さのそれは、古都には似つかわぬほど、瀟洒でモダンな雰囲気を醸し出している。その洋館の横を数多の人々が行き交っているのが見える。
やっと橋の半分を経過した頃、夏葉が、
「足、痛くなってきた」
と、言い出した。
「歩き始めたばっかりやん」
彩香がやや怠そうに言う。彼女も、この人混みで少々苛立っているように思われた。佑暉も東京育ちとはいえ、ずっと下町のアパートで暮らしていたため、こんなに混み合った場所は不慣れなのだ。
「佑暉君は東京出身やから、平気な感じ?」
夏葉が尋ねると、佑暉は首を振った。
「僕も、あんまりこんなに人の多いところへは来たことないよ」
「そうなん?」
夏葉は少し意外そうに目を見開く。
橋を渡りきると四車線が三車線になり、歩道に面してドラッグストアやら土産物屋やらが軒を並べている。歩道には白い屋根が備えつけられ、日射しによる害を最小限に抑えているが、気温は殆ど変わらない。また、どの店にも扉がなく、商店街風な構造になっているため、冷房の冷気が外に漏れ出してくる。
中からの冷気と外の気温が、透明な水に墨汁を垂らしたように渾然と混ざり合い、佑暉は少々気分が悪くなった。
土産物屋の店前には男性の店員が立ち、声を張り上げて客を呼び込んでいる。ただ、それを目に止める者は少ない。皆、一点を目指して足を進めているのだ。
歩きながら、愛咲が彩香にきいた。
「なぁなぁ、長刀鉾ってどこにあるん?」
「ちょっと待って、今調べるから」
彩香は、肩から提げていたバッグに手を入れた。
「まだ調べてなかったんかい!」
「そっちが調べてきてよ」
「うち、アホやから」
「正味今関係ないよな、それ」
彩香は愛咲に対して呆れたような目を向けた後、バッグから携帯を出して調べ始めた。
「烏丸通のちょい手前にあるっぽい」
携帯に目を落としたまま、彩香が言った。愛咲が、
「どういうルートで回るん?」
ときくと、彩香は眉根を寄せながら周りに目を配る。
「ちょっと、ここやと通行人の邪魔になるし、どっかで相談しいひん?」
彩香の提案に他の三人も賛成し、佑暉も同意した。彩香、夏葉、結都は人の流れから逃れるように歩道の脇に移動した。佑暉と愛咲も急いでそこへ行こうとしたが、目の前を多くの人々が通り、行く手を遮ってしまった。佑暉は当惑した。
人通りが激しさを増し、三人のところには現状辿り着けそうにない。愛咲は佑暉の方を振り向くと、
「どうしよう?」
と彼に尋ねた。
「僕にきかれましても……」
「そうやんなあ。じゃあ、うちらだけ先行こっか」
愛咲はそう言ってから、彩香たちに喚呼して知らせた。
「なあ! 人多いし、今そっち行けへんから、うちら先に二人で行ってるで!」
そして、愛咲は佑暉の浴衣の袖を引っ張り、前に歩き出した。
「あ、ちょっと! 勝手に行かんといて!」
後ろから、彩香の戸惑ったような声が喧騒に混じって聞こえた。佑暉は心配になり、愛咲の背中に声をかける。
「鳥居南先輩、いいんですか?」
「だって、しゃあないやん」
愛咲は足を止めることなく、ずんずんと人混みの中を進んでいく。
やがて広い交差点に出た。四条通と河原町通が交わる、四条河原町と呼ばれる地点。横断歩道を挟んで向こうに目をやると、「阪急河原町駅」と書かれた建物があった。その手前の信号機は上下ともに点滅しておらず、まるで眠ったように沈黙している。
「うわ、もう規制かかってるやん」
愛咲は呟くと、すたすたと横断歩道を渡っていくので、佑暉も見失わないように彼女の後を追った。
四条通には次から次へと人がなだれ込み、大雨によって氾濫寸前の河川のような状態が続いている。また、車道の中央に赤いコーンが置かれ、その付近では警官が警備に当たっている。
毎年、宵山の日は四条通を含む河原町周辺は歩行者天国となり、自動車は一切立ち入れなくなるのだ。
予想以上の混雑ぶりに佑暉は少し眩暈を催したが、愛咲とはぐれないように彼女にぴったりくっついていた。そうしていると、どこからか囃子のような音が響いてきた。
――こんこんちきちん、こんちきちん。
こんこんちきちん、こんちきちん。
という、大きな鈴を打ち鳴らせるような音。どこか懐かしく、落ち着いていて、なおかつ上品で美しい音色に、佑暉は耳を澄ませた。
次の瞬間、彼の目の端に飛び込んできたのは巨大な鉾だった。それは車道の脇に建てられていた。佑暉は事前にインターネットなどを駆使して予習していたが、その外見はまさに画像で見たそれであった。近づくに連れ、その姿が明瞭になっていく。
「すごい……」
思わず、佑暉は感嘆の声を漏らした。
鉾の手前にはテントが設営され、粽、絵葉書、巾着袋、パンフレット、バッグなどが売られている。店頭には大学生と思われる数人の青少年が並び、回転寿司のごとく流れてくる見物客を呼び込んでいる。
佑暉が呆然とそれらを眺めていると、急に愛咲が彼の腕を引いて車道に下りた。そのまま、人々の間をすり抜けて長刀鉾へと接近する。佑暉が鉾を見上げると、その高さは五階建てマンションくらいあるように感じられた。
正面に吊るされた数多の提灯。背面にも、同じくらいの数が飾られているのが見える。櫓の周りを覆っているのは、安土桃山時代の日本絵画を彷彿とさせるカラフルな模様の絨毯。棟には金色の鯱が乗り、四つある車輪は大人一人分ほどの高さがあった。そして、屋根の上から天を衝くように垂直に伸びる長刀。
毅然と佇む荘厳たるその姿は、佑暉の心をより刺激し、惚れ惚れとさせた。
また、櫓の上には十数人ほどの男性が乗っていて、笛や小太鼓などを奏でている。その音色は真っ直ぐ伸びる長刀を伝って、赤紫色に染まった空まで届いていくように思われた。
その演奏を聞きながら長刀鉾に見入っている佑暉に、愛咲は話しかけた。
「なあ。携帯、持ってる?」
佑暉はそれを聞いて、身につけていたボディーバッグの中からスマートフォンを取り出した。それを受け取った愛咲は、
「じゃあ、あそこの前に立って」
と、鉾を指さす。愛咲が何をしようとしているのか分からない佑暉は、言われるがまま鉾の傍に走っていった。佑暉は、眼前にまで迫った長刀鉾に触れてみたくなった。側面を覗くと、櫓の上から垂れ下がった数本の紐が楽器の音色に似合わせ、しゃりん、しゃりん、という音を鳴らす。
人と鉾が一体となり、まるで芸術作品のように佑暉の感情を包んでしまう。彼は、あそこに登れば鉾という芸術に近づけるだろうか……という思いを巡らせた。
「河口君、こっち見て〜」
後ろから声が聞こえ、我に返った佑暉は振り返った。
愛咲が携帯を彼に向けている。そこで佑暉はようやく彼女の意図を悟り、身体を彼女の方に向けた。愛咲は、佑暉と長刀鉾を同時に画面の中に収めたいらしかったが、うまく入らないのか何度も角度を変えては微調節していた。
数分間の試行錯誤の末、愛咲は結局その場にしゃがみ、鉾を見上げるようにしてボタンを押した。
愛咲は立ち上がると佑暉の前に走ってきて、撮った写真を彼に見せた。鉾頭が僅かに切れてしまっているが、ちゃんと佑暉と一緒に画面内に収まっている。
「じゃあ、今度はうちな」
愛咲は佑暉に自分のスマートフォンを渡した。それを受け取った佑暉は、彼女と場所を交換するように鉾から離れた。次に、愛咲と鉾ができるだけ一緒に写るように角度を調節する。それが終わるとボタンを押し、最後にうまく撮れているかどうかを確認する。そして、愛咲のところに戻っていって彼女に携帯を渡す。
愛咲も、彼が撮った写真を確認した。
「あ、きれいに撮れてる。ありがとう」
愛咲はそう言って、長刀鉾をまた二、三回個人で撮影していた。満足したのか、愛咲は佑暉の方を向き、声をかけた。
「じゃあ、他のやつ見に行こう」
「他のやつって、どこです?」
「んーと、彩香おらんから分からん。あ、そうや。自分、調べてや」
愛咲は、佑暉が手にしている携帯を指さした。何故、自分で調べないのかという気もしたが、とりわけ断る理由もないので、
「分かりました」
と、佑暉は自分の携帯で他の鉾がどこにあるのか検索することにした。
携帯を操作しようとした時、愛咲の後ろを偶然、男性が通り過ぎた。すると男性の腕が彼女の背中に当たり、「きゃっ!」と愛咲は声を上げながら前に倒れ、佑暉の首に抱きついた。佑暉は咄嗟に、携帯を地面に落としてしまった。
「せ……先輩?」
突然の出来事に、佑暉の頭の中は豪雪地帯のように真っ白になった。愛咲はゆっくりと佑暉から身を離した。彼女は頬を真っ赤に染めながら、彼を見ている。
「あの、大丈夫ですか?」
無言の愛咲を前に佑暉は動揺しながら、それでも平静を装いながらきいた。すると愛咲は彼から視線を外して、
「汗臭っ」
と言うと、また歩き始めるのだった。それを、佑暉も走って追いかけた。
「ま、待ってください!」
そう呼びかけても、愛咲はしばらく振り向かなかった。
それから色々な鉾を巡っていくうち、愛咲の機嫌は次第に直っていった。




