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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第63話 届かない知らせと、私が守りたい約束


 朝の空気には、昨日よりもはっきりと冬の気配が混じっていた。


 シアが目を覚ましたとき、窓の向こうには薄い雲が広がっており、向かいの建物の屋根は白く曇って見えた。雪が降ったわけではないものの、夜の間に冷え込んだらしく、窓枠へ指先を近づけると、そこから伝わる冷たさに思わず肩をすくめた。


 寝台の上で身体を起こし、マルタから借りている厚い茶色の毛布を丁寧に畳む。以前なら、朝の寒さを感じても自分のために何かを用意してもらおうとは考えなかっただろうが、今はこの毛布の温かさを素直にありがたいと思えるようになっていた。


(今日も、よく眠れました。お借りした毛布は、やはりとても温かいですね)


 窓辺の秋灯草へ目を向けると、小さな黄色い花は今朝も変わらず咲いていた。シアは鉢の土を確かめ、まだ内側に湿り気が残っていることを確認すると、水差しには手を伸ばさず、窓からの冷気が直接当たっていないかだけを確かめた。


 机の上には、昨夜読んだ『窓辺で育てる季節の草花』が置かれている。図書館で借りた本を開いたままにしないよう、寝る前に栞を挟んで閉じたことを思い出し、シアはその表紙をそっと撫でた。


 そして、部屋の入口近くへ視線を移す。


 そこには、昨日までとは少し違う光景があった。


 いつも置いていた革靴が、今朝はない。


 長い旅を共にした靴は、昨日の夕方、ニコの父親が営む靴屋へ修理に預けてきた。踵の補強と靴底の調整をお願いし、見積もりは四十八銅貨。作業には二日ほどかかる見込みだが、実際の受け取りは仕上がりを確かめてからになる。


 代わりに置かれているのは、修理が終わるまで借りることになった革靴だった。


 昨日、靴屋の主人が紐の結び方を調整してくれたため、足首の辺りに感じていた硬さも少し和らいでいる。まだ自分の靴ほど馴染んではいないものの、仕事中に痛みが出ないことは確かめられていた。


 シアは椅子へ腰を下ろし、貸し靴を履いた。


 足を入れてから踵の位置を確かめ、紐を締めすぎないように結んでいく。最後に立ち上がって部屋の中を数歩歩くと、靴底が床へ触れる感覚が、いつもより少しだけ硬く伝わってきた。


(大丈夫そうですね。今日も、無理をせずに履かせていただきましょう)


 修理をお願いできたことで、胸の中にあった心配が一つ軽くなっていた。


 もっとも、それですべての問題が解決したわけではない。


 《麦穂亭》では、北方道路の補修による黒麦粉の入荷遅延が続いている。すでに受けている予約は守る方針だが、今後の材料の到着日は分からず、店頭での黒麦パン販売も休止したままだった。


 昨日の夕食では、今日の朝に予約の必要数一覧をもう一度確認することになっている。


 シアは身支度を整え、机の上へ置いた帳面を見た。


 自分の暮らしのことと、店の仕事のこと。


 どちらも、今の彼女にとって大切なものだった。


 シアは小さく息を整え、階下へ向かった。


     ◇


 厨房では、オットーがすでに作業を始めていた。


 大きな木鉢の中ではパン生地がまとめられ、作業台には丸パン用の道具が並んでいる。窯から伝わる温かさと小麦粉の香りが、冷えた朝の空気を少しずつ追い払っていた。


「おはようございます、オットーさん。本日もよろしくお願いいたします」


「おう、おはよう。今日は一段と冷えるな。外の石畳も冷たそうだったぞ」


 オットーは手を止めずに答え、それからシアの足元へ視線を向けた。


「借りた靴はどうだ? 昨日、紐を直してもらったんだったな」


「はい。今朝も履いてみましたが、痛みはありません。足首も、前より動かしやすくなっています」


「そうか。それならいい。ただ、長く立っていて違和感が出たら言えよ。靴は足に合っているつもりでも、疲れてから分かることがあるからな」


「ありがとうございます。気をつけます」


 シアが頷くと、オットーは作業台の端に置かれた紙を指さした。


「それと、昨日話していた予約の確認だ。マルタが帳簿を持ってくるから、朝の準備が一段落したら一緒に見よう」


「はい。今日の引き渡し分と、これから必要になる分を分けて確認いたします」


「頼む。今朝はまず丸パンの準備からだ」


 シアは手を洗い、指先を温めてから作業台へ向かった。


 生地を扱う仕事は、毎日同じように見えて、少しずつ違っている。


 気温が低い朝は、生地の様子をいつも以上に丁寧に見なければならない。オットーが手の感触で確かめていることを、シアはまだすべて理解できるわけではなかったが、以前よりも作業の順番や道具の置き方を覚えられるようになっていた。


 しばらくすると、マルタが店頭から厨房へ入ってきた。


「おはよう、シア。今朝は冷えたねえ。朝食のあとでいいから、昨日の必要数一覧を見せておくれ」


「おはようございます、マルタさん。はい。昨日の引き渡し分を反映して、残りの予約を確認いたします」


「ありがとう。今日は、いつもより少し先まで見ておきたいんだ。まだ何かを変えると決めたわけじゃないけれど、どこで判断が必要になるかを知っておきたくてね」


 シアは頷いた。


 マルタの言葉には、急いで結論を出そうとする響きがなかった。


 むしろ、結論を急がないために準備しているのだと感じられた。


 その違いを理解できるようになったことが、シアには嬉しかった。


     ◇


 開店前の作業が一段落すると、三人は厨房の端にある小さな卓を囲んだ。


 卓の上には、売上帳とは別にまとめた黒麦パンの予約一覧と、材料の残量を確かめるための紙が置かれている。シアは昨日の引き渡し分に印をつけ、まだ引き渡していない予約が分かるように整理していた。


 マルタは紙を手に取り、順番に目を通した。


「今日の予約分は、材料が足りるんだね?」


「はい。オットーさんにも確認していただきました。今日の分については、予定どおり用意できます」


 シアが答えると、オットーも頷いた。


「そこは問題ない。ただ、その先は荷がいつ動くかで変わってくる。今ある粉だけを見て、全部大丈夫だと言い切るわけにはいかないな」


「そうだね」


 マルタは紙を卓へ戻し、少し考え込んだ。


 窓の向こうでは、開店を待つ通りに朝の光が差し始めている。遠くから荷車の車輪が転がる音が聞こえ、近くの店でも扉を開ける音がした。


 シアは二人の表情を見ながら、静かに待った。


 以前なら、沈黙が続くだけで自分が何か答えを出さなければならないと思ったかもしれない。


 けれど、今は違う。


 これは店の経営に関わる判断であり、マルタとオットーが考える時間も必要なのだ。


「《銀鹿亭》の予約については、もう一度確認しておいた方がいいかもしれないね」


 やがて、マルタが口を開いた。


「この前、使いの人にも、もし予定どおりに用意できなくなる可能性が出たら早めに知らせると話してあるからね。向こうの都合もあるし、こちらだけで決めるわけにはいかない」


「そうだな。ただ、今すぐ別のパンへ替えてもらう話をするのは早い。まずは状況を伝える準備だけしておこう」


 オットーの言葉に、マルタは頷いた。


 シアは紙の余白へ、二人が確認した内容を書き加えた。


 今日の予約分は予定どおり。


 それ以降の予約は、材料の入荷状況を引き続き確認する。


 変更や代替品については、まだ決定していない。


 書き終えたところで、マルタがシアへ視線を向けた。


「シア、この紙は助かるよ。売上帳だけだと、まだ先の予約がどれくらいあるのか、すぐには見えないからね」


「ありがとうございます。ですが、最終的な判断はマルタさんとオットーさんにお願いいたします。私は、確認しやすいように整理しておきたいと思っています」


「うん。それでいいんだよ」


 マルタは微笑んだ。


「自分が何を決められて、何を決められないのか、ちゃんと分かっているのは大事なことだからね」


 シアは少し照れくさくなりながらも、素直に頭を下げた。


 そのとき、オットーが卓の上の紙をもう一度見直し、静かに言った。


「それにしても、黒麦粉が届かないだけで、こんなに考えることが増えるとはな」


 マルタは小さく笑った。


「いつもどおりに材料が届くって、ありがたいことだったんだねえ」


 シアも、その言葉に深く頷いた。


 毎日店に並ぶパンは、オットーが焼くだけで完成するわけではない。


 粉を運ぶ人がいて、道路を整える人がいて、注文を取りまとめる人がいる。


 そのどこかで問題が起これば、遠く離れた店の棚にも影響が出る。


 ここで働き始めるまで、シアはそのつながりを深く考えたことがなかった。


 けれど、今は一つのパンが店頭へ並ぶまでに、多くの人の仕事が重なっていることを知っている。


     ◇


 開店すると、店内にはいつもの朝の賑わいが戻ってきた。


 焼きたての丸パンが棚へ並ぶと、通りを歩いていた人々が次々と立ち寄った。仕事へ向かう途中らしい男性が丸パンを買い、買い物籠を持った女性が胡桃パンを選び、年配の客が蜂蜜パンを手に取っていく。


 シアは注文を聞き、代金を確かめ、パンを丁寧に包んでいった。


 貸し靴にも少しずつ慣れてきたらしく、会計台の前で向きを変える動作が自然になっている。もちろん、足元への注意を忘れたわけではないが、昨日よりも靴のことを意識せずに働ける時間が増えていた。


 午前中の忙しさが落ち着き始めた頃、入口の鈴が鳴った。


「こんにちは。今日もいい匂いだね」


 店へ入ってきたのは、顔馴染みの客であるハロルドだった。


 シアは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。


「いらっしゃいませ、ハロルドさん。いつもありがとうございます」


「こちらこそ。最近は黒麦パンが買えないから、ほかのパンを選ぶ楽しみが増えたよ」


 ハロルドはそう言いながら、棚の前へ歩いていった。


 黒麦パンの販売休止については、すでに何度か話している。彼は入荷が遅れている事情を理解しており、以前も丸パンや胡桃パンを選んでくれていた。


 今日はしばらく棚を眺めたあと、胡桃パンを指さした。


「今日はこれを二つと、丸パンを一つお願いしようかな」


「ありがとうございます。胡桃パン二つで十二銅貨、丸パン一つで五銅貨ですので、合わせて十七銅貨になります」


 シアがパンを袋へ入れていると、ハロルドは店内を見渡した。


「黒麦パンがないのは残念だけど、こうして別のパンを食べてみるのも悪くないね。胡桃パンは、朝に少し温めると香りがよくなるんだ」


「そうなのですね。教えていただき、ありがとうございます」


「いやいや、作っているのはそちらなんだから、私が教えるほどのことじゃないけれどね」


 ハロルドは楽しそうに笑った。


 シアは袋を渡しながら、少しだけ考えた。


 黒麦パンを買えないことを残念に思っている人は多い。


 けれど、ほかのパンを試して気に入ってくれる人もいる。


 その二つは、必ずしも矛盾しないのだろう。


「ハロルドさん。黒麦パンの販売が再開しましたら、店頭のお知らせも更新いたしますので、よろしければまたご覧ください」


「もちろん。いつものパンが戻るのも楽しみだけど、それまでにほかのお気に入りが増えるかもしれないね」


 ハロルドは穏やかに答え、代金を払って店を出ていった。


 シアはその背中を見送り、会計台の下に置いた観察用の紙へ視線を向けた。


 今のやり取りは、あとで記録しておこう。


 ただし、ハロルドが胡桃パンを気に入っていることと、黒麦パンの代わりに買い続けるかどうかは別の話だ。


 客の言葉をそのまま大切にしながら、勝手な結論を加えない。


 それが、今のシアにできる仕事だった。


     ◇


 昼前、通りの向こうから馬車の車輪が近づく音が聞こえてきた。


 シアが次の客のために紙袋を揃えていると、入口の鈴が鳴り、外套を羽織った若い男性が店へ入ってきた。


 その姿を見た瞬間、シアは少しだけ目を見開いた。


「レオンハルト様……!」


 思わず名前を呼ぶと、男性は穏やかに微笑んだ。


「こんにちは、シア。久しぶりだね。今日は少し時間ができたから、パンを買いに寄らせてもらったんだ」


 レオンハルト・アルヴェイン。


 この公爵領を治める家の跡取りであり、以前から何度か《麦穂亭》を訪れている青年だった。


 整った身なりと落ち着いた物腰は、今日も変わらない。外の冷たい空気を連れて入ってきた彼は、店内の温かさに気づいたように少し表情を和らげた。


「いらっしゃいませ。お越しいただき、ありがとうございます」


 シアは丁寧に頭を下げた。


 以前なら、公爵家の跡取りが店へ来るだけで、どう振る舞えばよいのか分からなくなっていたかもしれない。


 けれど、レオンハルトはいつも客としてパンを選び、店の仕事を邪魔しないように気遣ってくれる。


 そのことを知っているからこそ、今は少し落ち着いて迎えることができた。


 レオンハルトは棚へ視線を向けた。


「今日は何がおすすめかな。前に買った胡桃パンも美味しかったけれど、ほかのものも食べてみたくてね」


「ありがとうございます。今日は蜂蜜パンも焼き上がっております。甘さが強すぎず、温かい飲み物ともよく合うと思います」


「それはいいね。寒い日には、温かいお茶と一緒に食べるものが欲しくなるから」


 レオンハルトは少し考え、丸パンと蜂蜜パンを指さした。


「それなら、丸パンを二つと蜂蜜パンを二つお願いできるかな」


「はい。丸パン二つで十銅貨、蜂蜜パン二つで十四銅貨ですので、合わせて二十四銅貨になります」


 シアはパンを包みながら、彼の外套の肩に小さな埃がついていることに気づいた。


 普段より少し歩き回ってきたのだろうか。


 けれど、仕事の内容を勝手に尋ねるのは失礼かもしれないと思い、シアはそのまま会計を進めた。


 レオンハルトは代金を置き、店内を見渡した。


「そういえば、黒麦パンはまだ店頭に戻っていないんだね」


「はい。北方道路の補修は進んでいるそうですが、重量荷車の通行制限が続いておりまして、材料の到着日はまだ決まっておりません」


 シアは丁寧に説明した。


「現在お受けしている予約については、店で確認しながら対応しております。ただ、新しい予約や店頭販売の再開については、まだご案内できない状況です」


 レオンハルトは真剣な表情で頷いた。


「そうか。道路の問題が、こうして店の営業にも影響しているんだね」


「はい。ですが、マルタさんとオットーさんが、予約を守れるように考えてくださっています。私も、必要な数量を整理するお手伝いをしております」


 シアが答えると、レオンハルトは少しだけ微笑んだ。


「シアも、店のためにできることを考えているんだね」


「いえ、私はまだ、教えていただくことばかりです」


 反射的にそう答えかけたシアは、途中で言葉を止めた。


 教えてもらうことが多いのは事実だ。


 けれど、だからといって、自分が何もしていないわけではない。


 シアは一度だけ息を整え、言葉を続けた。


「……ですが、以前よりは、少しずつ仕事を任せていただけるようになりました。分からないことは確認しながら、できることを増やしていきたいと思っています」


 レオンハルトの表情が、柔らかくなった。


「それは素敵なことだと思うよ。最初から何でもできる人はいないし、分からないことを確かめながら進めるのは、大切な仕事の仕方だからね」


 その言葉に、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分の答えを、否定されなかった。


 それどころか、少しずつ変わろうとしていることを、そのまま受け止めてもらえた。


「ありがとうございます、レオンハルト様」


 シアが微笑むと、レオンハルトも穏やかに頷いた。


     ◇


 そのとき、厨房からマルタが顔を出した。


「いらっしゃいませ、レオンハルト様。いつもありがとうございます」


「こんにちは、マルタ。こちらこそ、いつも美味しいパンをありがとう」


 レオンハルトは丁寧に答えた。


 マルタは会計台の近くまで来ると、店頭に貼られた黒麦パンの販売休止のお知らせへ視線を向けた。


「材料の件では、少しご不便をおかけしております。予約分については今のところ確認しながら対応しておりますが、先のことはまだ分からなくて」


「事情は聞いたよ。道路の補修が続いている以上、簡単にはいかないだろうね」


 レオンハルトはそう答え、少し考えた。


「北方道路については、僕も報告を受けている。ただ、現場の補修状況と、実際に荷車が通れるかどうかは別の問題なんだ。安全を確かめないまま制限を解除するわけにはいかないからね」


 シアはその言葉を聞き、静かに頷いた。


 道路の補修が進んでいると聞くと、もうすぐ荷物が届くのではないかと期待してしまう。


 けれど、道が直り始めたことと、重い荷車が安全に通れることは同じではない。


 レオンハルトは、店の事情を聞いたからといって、簡単に到着日を約束することはなかった。


「分かりました。私たちも、仕入れ先からの連絡を待ちながら、今ある材料を確認していきます」


 マルタが答えると、レオンハルトは頷いた。


「それがいいと思う。もし道路の状況について正式に知らせられることがあれば、商人たちにも伝わるようにするつもりだよ。ただ、個別の荷物がいつ届くかまでは、こちらでも決められないからね」


「はい。ありがとうございます」


 マルタは丁寧に礼を述べた。


 シアも、そのやり取りを聞きながら考えていた。


 レオンハルトは公爵家の跡取りであり、道路の問題についても関わっている。


 けれど、彼にもすぐには変えられないことがあるのだ。


 立場が高いからといって、何でも思いどおりにできるわけではない。


 その事実を、シアは不思議と安心できるものとして受け止めていた。


 無理な約束をしないこと。


 分からないことを、分からないまま伝えること。


 それは、彼女が《麦穂亭》で学んでいる仕事の姿勢とも、どこか似ていた。


     ◇


 レオンハルトがパンの袋を受け取ったあと、ふとシアの足元へ視線を向けた。


「そういえば、今日はいつもと違う靴を履いているんだね」


 突然の言葉に、シアは少し驚いた。


 自分でもまだ慣れていない靴ではあるが、店の仕事中にそれほど目立つものではないと思っていたからだ。


「はい。実は、いつもの靴を修理に預けておりまして、今は靴屋さんからお借りしたものを履いております」


「修理に?」


「はい。踵と靴底が傷んでいたので、冬になる前に直していただくことにしました」


 レオンハルトは納得したように頷いた。


「それはいい判断だと思う。これからは朝の石畳も滑りやすくなるし、靴底の状態は大切だからね」


「ありがとうございます。靴屋さんにも、同じように教えていただきました」


 シアは少し微笑んだ。


「修理の間に履く靴まで貸していただけて、とても助かっています」


「親切な靴屋さんなんだね」


「はい。息子さんも《麦穂亭》へ買い物に来てくださるのですが、とても元気な方で……。靴のことも、いろいろと気にかけてくださいました」


 シアはニコのことを思い出し、自然と表情を和らげた。


 レオンハルトはその様子を見て、少しだけ目を細めた。


「シアは、この街で知り合いが増えたんだね」


 その言葉に、シアは一瞬だけ考えた。


 マルタとオットー。


 ミレイユ。


 ニコと、その父親。


 何度も店へ来てくれる客たち。


 そして、目の前にいるレオンハルト。


 ここへ来たばかりの頃には、知っている人など誰もいなかった。


 それなのに今は、名前を呼んでくれる人がいる。


 自分のことを気にかけ、困ったときには相談に乗ってくれる人たちがいる。


「……はい。少しずつですが、知っている方が増えました」


 シアはゆっくり答えた。


「この街へ来たばかりの頃は、こんなふうに誰かとお話しできるようになるとは思っておりませんでした。でも、皆さんが親切にしてくださるので、今は毎日がとてもありがたいです」


 レオンハルトは、その言葉を静かに聞いていた。


 彼女がなぜこの街へ来たのか、詳しい事情は知らない。


 けれど、初めて会った頃のシアが、何かを話すたびに慎重に言葉を選び、必要以上に遠慮していたことは覚えている。


 今も丁寧な口調は変わらない。


 それでも、以前より少しだけ、自分の気持ちを言葉にするようになった。


 その変化が、レオンハルトには嬉しかった。


「この街を、少しずつ好きになってもらえているなら嬉しいよ」


 彼がそう言うと、シアは顔を上げた。


「はい。私は、この街が好きです」


 その答えは、思っていたよりも自然に口から出た。


 シア自身、少し驚いたほどだった。


 けれど、言い直そうとは思わなかった。


 朝の広場。


 焼きたてのパンの香り。


 図書館の静かな空気。


 道端に並ぶ店の窓。


 夕方に灯る明かり。


 そして、自分が帰る場所。


 その一つ一つが、今のシアにとって大切なものになっていた。


「……そう言ってもらえると、僕も嬉しい」


 レオンハルトは穏やかに微笑んだ。


 その声には、公爵家の跡取りとしての礼儀だけではない、柔らかな喜びが混じっているように感じられた。


 シアはなぜか少しだけ頬が温かくなり、視線を下げた。


 自分がこの街を好きだと伝えただけなのに、相手がそんなふうに喜んでくれるとは思っていなかったのだ。


     ◇


 入口の鈴が鳴り、次の客が入ってきた。


 シアがそちらへ顔を向けると、レオンハルトはすぐに一歩横へ移動した。


「仕事の邪魔をしてしまったね。今日はありがとう、シア」


「いえ。こちらこそ、お越しいただきありがとうございました」


 シアは丁寧に頭を下げた。


 レオンハルトはパンの袋を持ち直し、扉へ向かいかけたが、そこで少しだけ足を止めた。


「シア、靴が直ったら、また安心して街を歩けるね」


「はい。冬の道でも困らないように、きちんと直していただこうと思っています」


「そうか。それなら、よかった」


 レオンハルトは微笑んだ。


「寒くなると、街の景色も変わるんだ。広場の木々や店先の飾りも、今とは違う雰囲気になる。もし機会があれば、冬の街も楽しんでほしい」


 シアはその言葉を聞き、少しだけ目を輝かせた。


「冬の街、ですか?」


「うん。もちろん、寒さには気をつけなければならないけれどね。晴れた日の朝は、石畳に差す光が綺麗なんだよ」


 レオンハルトは、窓の向こうへ視線を向けた。


 外では雲の切れ間から淡い光が差し、通りを歩く人々の影が長く伸びている。


 シアはその光景を見ながら、まだ知らない季節の街を想像した。


「……見てみたいです」


 思わず口にすると、レオンハルトは少し驚いたように彼女を見た。


 シアも、自分が自然にそう答えたことに気づき、慌てて言葉を続けた。


「あの、もちろん、仕事のお休みの日などに、時間があればという意味なのですが……」


「うん。分かっているよ」


 レオンハルトは柔らかく笑った。


「無理をする必要はないからね。もし街を歩く機会があったら、ぜひ見てみてほしい」


「はい。ありがとうございます」


 シアは小さく微笑んだ。


 具体的な約束を交わしたわけではない。


 けれど、冬の街を歩いてみたいという気持ちが、彼女の中に新しく生まれていた。


 レオンハルトはもう一度礼を述べ、店を出ていった。


 扉が閉まると、外の冷たい空気が少しだけ店内へ残った。


 シアは次の客へ向き直り、いつもどおり注文を聞いた。


 それでも、胸の奥には、先ほどの会話の温かさがしばらく残っていた。


     ◇


 昼食の時間になると、マルタが温かなスープを用意してくれた。


 シアはオットーとともに卓につき、焼きたてのパンを添えて食事を始めた。


 しばらくは午前中の売上や午後の予約について話していたが、やがてマルタがシアへ視線を向けた。


「レオンハルト様、今日は少しゆっくりお話しできたみたいだね」


 シアは匙を持つ手を止めた。


「はい。黒麦粉のことや、靴の修理についてお話ししました」


「そうかい。道路のことも、いろいろ気にかけてくださっているんだね」


「はい。ただ、補修が進んでいても、荷車が通れるかどうかは別の問題だと教えていただきました。ですので、材料の到着日については、まだ分からないそうです」


 シアが答えると、オットーは頷いた。


「それはそうだろうな。荷車が通れるようになったとしても、どの荷がいつ動くかまでは別の話だ」


「ええ。ですから、今までどおり仕入れ先からの連絡を待ちながら、予約の確認を続けようと思います」


 シアの答えに、マルタは満足そうに微笑んだ。


「うん。それでいいよ」


 そして、少しだけ表情を和らげた。


「それにしても、シアは前よりずいぶん自然に話せるようになったねえ」


 突然の言葉に、シアは目を瞬かせた。


「そ、そうでしょうか?」


「そうだよ。最初の頃は、何か聞かれるたびに、間違えないようにって随分緊張していたからね。今も丁寧だけど、自分の考えをちゃんと話せるようになってきた」


 マルタはスープを一口飲み、穏やかに続けた。


「それは、いい変化だと思うよ」


 シアは返事を探しながら、匙をそっと置いた。


 自分では、そんなに変わったつもりはなかった。


 今でも人の表情を気にしてしまうことはあるし、言葉を選びすぎてしまうこともある。


 けれど、以前よりも話しやすくなったと感じる場面は、確かに増えていた。


「……ありがとうございます。まだ緊張することもありますが、皆さんが話を聞いてくださるので、少しずつ安心できるようになりました」


 マルタは微笑んだ。


「それならよかった」


 オットーも、静かに頷いた。


「仕事でも同じだな。分からないことを聞けるようになったし、気づいたことも伝えてくれる。助かってるぞ」


「ありがとうございます、オットーさん」


 シアは頭を下げた。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 褒められることには、まだ慣れていない。


 けれど、今はその言葉をすぐに否定しなくてもよいと思えた。


     ◇


 午後になると、空を覆っていた雲が少しずつ厚くなってきた。


 窓から差し込む光は弱まり、通りを歩く人々の多くが外套の襟を立てている。店内では窯の温かさが残っていたが、入口が開くたびに冷たい空気が流れ込んできた。


 シアは棚のパンを整え、午後の予約分を確認していた。


 そのとき、入口の鈴が鳴り、見覚えのある男性が店へ入ってきた。


「こんにちは。マルタさんはいるかい?」


 男性は、仕入れ先であるハンス・ロイヴェンだった。


 シアはすぐに顔を上げた。


「こんにちは、ハンスさん。少々お待ちください。マルタさんをお呼びいたします」


 厨房へ声をかけると、マルタがすぐに出てきた。


「ハンス、いらっしゃい。何か知らせがあったのかい?」


「ああ。北方道路のことで、今朝新しく聞いた話がある。ただ、先に言っておくが、黒麦粉の到着日が決まったわけじゃない」


 その言葉に、マルタは真剣な表情で頷いた。


「分かったよ。聞かせておくれ」


 ハンスは帽子を取り、会計台の近くへ進んだ。


 シアは二人の邪魔にならない位置へ移動し、必要なら記録を取れるように紙と筆を用意した。


「北方道路の補修は、予定されていた箇所の作業が少しずつ進んでいるらしい。ただ、重量のある荷車については、まだ通行制限が続いている。安全確認が終わるまでは、積み込みの予定も確定できないそうだ」


 ハンスは落ち着いた声で説明した。


「だから、注文している黒麦粉についても、積み込みの日はまだ決まっていない。荷物がなくなったという話は来ていないし、注文量を変える必要があるという連絡もない。ただ、いつ届くかは今のところ分からないままだ」


 マルタは静かに息を吐いた。


「そうかい。補修が進んでいるのはありがたいけれど、まだ待つ必要があるんだね」


「そういうことだ。俺も、はっきりした日を伝えられればいいんだがな」


 ハンスは少し申し訳なさそうに眉を寄せた。


 シアはその表情を見て、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


 ハンスも、店へ知らせを届けるために動いてくれている。


 けれど、彼自身にも決められないことがあるのだ。


「ハンスさん。ご連絡いただき、ありがとうございます」


 シアがそう言うと、ハンスは少し驚いたように彼女を見た。


「いや、まだいい知らせとは言えないんだがな」


「はい。ですが、今どこまで分かっているのかを教えていただけると、私たちも準備ができますので」


 シアは静かに答えた。


「到着日が決まっていないことも、大切な情報だと思います」


 ハンスは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「そう言ってもらえると助かるよ。曖昧な話を持ってきても仕方ないかと思うこともあるが、何も伝えないわけにはいかないからな」


 マルタも頷いた。


「知らせてくれて助かったよ。こちらも、予約の確認を続けているところなんだ」


 ハンスは会計台の上の紙へ目を向けた。


「それなら、今のうちに準備しておいた方がいいかもしれない。まだ注文を変える必要はないと思うが、ほかの粉を増やせるかどうか、相談する余地はある。ただ、それも在庫や運搬の都合を確認してからの話になる」


 マルタは少し考えた。


「分かった。必要になったら、改めて相談させてもらうよ。今はまだ、注文を変えずに様子を見ることにする」


「ああ。それでいいと思う」


 ハンスは頷き、帽子を持ち直した。


「また確かな知らせが入ったら伝える。今度こそ、もう少し具体的な話ができるといいんだがな」


「ありがとう、ハンス。気をつけて帰っておくれ」


 マルタが声をかけると、ハンスは軽く手を上げて店を出ていった。


 扉が閉まったあと、店内には少しだけ静けさが戻った。


     ◇


 マルタは会計台の上へ手を置き、しばらく考えていた。


 シアは紙と筆を持ったまま、声をかけるタイミングを待った。


 やがて、マルタが顔を上げた。


「シア、今の話を整理しておいてもらえるかい?」


「はい。補修は進んでいますが、重量荷車の通行制限は継続中。黒麦粉の積み込み日と到着日は未定で、注文量の変更や紛失の報告はない、という内容でよろしいでしょうか?」


「うん。それで合っているよ」


 マルタは頷いた。


「ほかの粉を増やせるかもしれないという話もあったけれど、まだ何も決まっていないからね。そこは相談の可能性がある、という程度にしておいておくれ」


「承知しました」


 シアは丁寧に書き留めた。


 確定していることと、まだ決まっていないこと。


 その二つを混ぜないようにする。


 以前なら、何か少しでもよい話を聞くと、それを安心できる材料として大きく受け止めてしまったかもしれない。


 けれど、今は違う。


 補修が進んでいることは、確かによい知らせだ。


 しかし、それだけで黒麦粉が届く日を決めることはできない。


 シアは紙を見直し、曖昧な表現がないことを確かめた。


 マルタはその様子を見ながら、静かに言った。


「こうして書いておくと、何が分かっていて、何がまだ分からないのか、はっきりするね」


「はい。私も、記録に残すことで落ち着いて考えられるようになりました」


 シアが答えると、マルタは微笑んだ。


「それならよかった。さて、今日はまだ営業が残っているからね。続きは店を閉めてから、オットーとも相談しよう」


「はい」


 シアは紙を所定の場所へ置き、会計台へ戻った。


 外では、風が少し強くなっていた。


 入口の看板が揺れる音が、時折店内まで聞こえてくる。


 シアはその音を聞きながら、静かに仕事を続けた。


     ◇


 夕方になると、店内の客足は少しずつ落ち着いてきた。


 シアは残ったパンの数を確かめ、会計台を拭き、棚の布を整えた。


 今日も、黒麦パンの店頭販売は再開していない。


 予約分は予定どおり引き渡され、ほかのパンもいつもどおり販売された。


 ただ、材料の問題はまだ続いている。


 それでも、今日のハンスの知らせによって、今の状況を少しだけ詳しく知ることができた。


 店を閉めたあと、マルタとオットーは必要数一覧をもう一度確認した。


 シアも卓の端へ座り、今日の引き渡し分を反映した紙を広げた。


「ハンスの話だと、やっぱりまだ日程は決まらないんだな」


 オットーは紙を見ながら、静かに言った。


「そうだね。補修が進んでいるのはありがたいけれど、いつ届くか分からない以上、こちらも慎重に考えないといけない」


 マルタは頷いた。


 シアは二人の会話を聞きながら、必要な数字を指し示した。


「今日の引き渡し分を反映すると、残りの予約はこのようになります。現在の材料だけで考えた場合、先の予約については、引き続き確認が必要です」


 オットーは紙へ目を落とした。


「うん。分かった。まだ今すぐ変更する必要はないが、次の知らせが遅れるようなら、予約先と相談する準備はしておいた方がいいな」


「そうだね」


 マルタは少し考えたあと、シアへ視線を向けた。


「シア、明日は《銀鹿亭》の予約について、もう一度確認しておこう。今のところ予定を変えるわけじゃないけれど、必要になったときに、こちらから正確に話せるようにしておきたいんだ」


「はい。承知しました」


 シアは頷いた。


「先方へお伝えする内容と、まだ決まっていない内容を分けて整理しておきます」


「ありがとう。ただ、実際に話す内容は、私たちで決めるからね」


「はい。分かっております」


 マルタは満足そうに微笑んだ。


 シアは紙をまとめながら、胸の奥に静かな充実感を覚えていた。


 問題は解決していない。


 けれど、何もできないわけではない。


 自分の役割を理解し、その範囲でできることを進める。


 それだけでも、店の役に立てるのだと思えた。


     ◇


 夕食を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 厨房の灯りが壁へ柔らかな影を落とし、窯の熱が少しずつ弱まっていく。マルタは明日の準備を確かめ、オットーは最後の道具を片づけていた。


 シアは食器を洗い終えると、二人へ声をかけた。


「本日もありがとうございました。明日もよろしくお願いいたします」


「お疲れさま、シア。今日はハンスの知らせもあったし、いろいろ考えることが多かったね」


 マルタは穏やかに微笑んだ。


「でも、今夜はもう休んでおいで。明日のことは、明日また考えればいいんだから」


「はい。ありがとうございます」


 シアは丁寧に頭を下げ、階段へ向かった。


 自室へ戻ると、窓の外には夜の街が広がっていた。


 向かいの建物の窓から漏れる灯りが、石畳の一部を淡く照らしている。遠くでは鐘の音が響き、昼間の賑わいが少しずつ静けさへ変わっていくのが分かった。


 シアは外套を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。


 今日一日を振り返ると、いろいろなことがあった。


 黒麦粉の予約を確認し、ハロルドと話し、レオンハルトが店へ来てくれた。


 そして、ハンスから新しい知らせが届いた。


 どれも、すぐに大きな変化をもたらすものではなかった。


 けれど、今の暮らしに確かにつながっている出来事だった。


 シアは机の上へ置いた帳面を開き、今日の出来事を簡単に書き留めた。


 仕事の記録とは別に、自分が覚えておきたいことも少しだけ書く。


 靴の修理は、まだ終わっていない。


 黒麦粉の入荷日も、まだ決まっていない。


 それでも、今日できることは進められた。


 シアは筆を置き、窓辺の秋灯草へ目を向けた。


 黄色い花は、夜の灯りの中でも柔らかな色を保っている。


 その姿を見ながら、シアは昼間のレオンハルトとの会話を思い出した。


 冬の街。


 晴れた朝の石畳。


 季節が変わることで、今とは違う景色が見られるという話。


 シアは、まだその景色を知らない。


 けれど、見てみたいと思った。


(私は、これからもこの街で、いろいろなものを見てみたいのですね)


 その気持ちに気づくと、胸の奥が少し温かくなった。


 以前の自分は、未来を考えることが怖かった。


 明日何を命じられるのか、どんな失敗を責められるのか、誰の機嫌を損ねてしまうのか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど、今は違う。


 明日の仕事を考え、次の休日を楽しみにし、冬の街を歩くための準備をしている。


 そして、誰かと話したことを思い出して、自然に微笑むことができる。


 シアは胸元の銀のペンダントへそっと触れた。


 母の形見である小さな銀の飾りは、今も変わらずそこにある。


 ベルフォード家を出た日から、彼女は多くのものを置いてきた。


 けれど、今は自分で選んだ暮らしがある。


 働く場所があり、帰る部屋があり、自分の名前を呼んでくれる人たちがいる。


 その一つ一つが、シアにとって大切なものになっていた。


 彼女は帳面を閉じ、図書館で借りた本を手に取った。


 植物の手入れについて書かれた頁を少し読み進めると、寒い時期には変化を急がず、状態をよく見ながら世話をすることが大切だと説明されていた。


 シアはその文章を読み、今日の仕事を思い出した。


 黒麦粉の問題も、同じなのかもしれない。


 すぐに解決できないからといって、何もできないわけではない。


 今あるものを確かめ、必要な準備をし、変化があればその都度考える。


 それは、植物を育てることにも、仕事を続けることにも、少し似ているように思えた。


 シアは本を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 夜の街は静かだった。


 遠くの灯りが小さく揺れ、冷たい風が窓枠をかすかに鳴らしている。


 明日もまた、《麦穂亭》での仕事が待っている。


 黒麦粉の入荷はまだ分からず、予約について確認しなければならないこともある。


 靴の修理も、仕上がりの知らせを待っているところだ。


 それでも、シアは以前ほど不安を感じていなかった。


 分からないことを、無理に分かったことにしなくてもよい。


 できることを、一つずつ進めていけばよい。


 そのことを、ここで出会った人たちが教えてくれた。


 シアは灯りを落とし、寝台へ入った。


 マルタから借りた厚い毛布を肩まで掛けると、冷えた身体がゆっくり温まっていく。


 窓の外では、遠くの鐘が夜の時刻を告げていた。


 その音を聞きながら、シアは今日のレオンハルトの笑顔を思い出した。


 この街が好きだと伝えたとき、彼は嬉しいと言ってくれた。


 その言葉が、なぜか今も胸の奥に残っている。


(……私がこの街を好きだと言ったことを、喜んでくださったのですね)


 シアは毛布の中で小さく微笑んだ。


 その理由を、今すぐ考える必要はないように思えた。


 ただ、あの穏やかな声を思い出すと、少しだけ安心できる。


 それだけで、今夜は十分だった。


 シアは静かに目を閉じた。


 遠い街で始まった新しい暮らしは、今日も少しずつ続いている。


 届かない知らせを待つ日々の中でも、彼女には守りたいものが増えていた。


 《麦穂亭》の仕事。


 大切な人たちとのつながり。


 そして、自分で選んだこの暮らし。


 その一つ一つを大切にしながら、シアは穏やかな眠りへ落ちていった

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