第15話:天草家
水曜日の夜。
帰宅途中、いつもの角を曲がったところで、ライトアップされたおこげが見えた。
また、妙なものをつけられているらしい。
歩くイルミネーションと化している。
続けて、黒縁メガネに、ワイドパンツ。
対照的に、こっちは地味オブ地味。
今日のTシャツは——
「……ぬか漬け」
「あっ、大塚さん! こんばんは!」
「こんばんは。いよいよ発酵食品に手を出しましたね」
「渋くてカッコよくないですか? ぬか漬け。日本の伝統ですよ」
「伝統的な人はあんまりTシャツで表現しないと思いますけど」
軽口を叩きながら、並んで歩き始める。
おこげが嬉しそうに俺と天草さんの間を行ったり来たりしている。
もうすっかり、この帰り道が「日常」になりつつある。
一ヶ月前にはただの暗い通勤路だったこの道が、今は少しだけ特別に見える。
街灯も、等間隔に並ぶ電柱も、温かみのある色をしている気がする。
◇
天草さんのマンション——グランドレジデンス・エスポワールの前まで来たところで、おこげが玄関に向かって猛然とダッシュした。
「あっ、おこげ! こら、引っ張らないの!」
エントランスの自動ドアが開き、おこげが突進する。
その先に、見覚えのあるシルエットが立っていた。
天草暁。
黒のスウェットに、筆文字Tシャツ。今日の文字は『休肝日』。守っているんだろうか。
「おい、散歩長くないか。夕飯冷める——」
暁さんが俺に気づいて、口を閉じた。
数秒、無言。
おこげだけが尻尾をブンブン振っている。
「……入れば? 立ち話もアレだろ」
暁さんが顎でエントランスを指した。
天草さんがちらっとこちらを見る。「どうします?」という目。
「あ、いえ、俺は——」
「おこげが許さないと思うぞ」
暁さんが無表情で言った。
事実、おこげは俺の靴紐をくわえて引っ張っている。
「……お邪魔します」
抵抗は無意味だった。
◇
天草家のリビングは、想像していたよりずっと温かい空間だった。
15畳はありそうなリビングに、ベージュのソファ。
テレビの横には暁さんの手作りらしい犬用のおもちゃ箱。
壁にはおこげの写真がいくつか飾ってある。どれもいい表情をしている。
暁さんが無言でお茶を出してくれた。ほうじ茶だ。湯気が柔らかく立ち上っている。
「……ありがとうございます」
「ん」
言葉数の少ない人だが、不愛想というよりは言葉を選んでいる感じだ。
犬にだけは饒舌で、おこげに「おい、ソファ噛むな」と小声で話しかけている。
天草さんが廊下から戻ってきた。
「大塚さん、Tシャツ見ます?」
「え?」
「兄のコレクション! せっかくだから見てもらいたくて」
天草さんの目がキラキラしている。完全に豆腐モード全開だ。
暁さんが「好きにしろ」と呟いて、テレビのチャンネルを変えた。
◇
天草さんがクローゼットの扉を開けた瞬間、俺は声を失った。
筆文字Tシャツが、ハンガーにずらりと並んでいる。白、黒、紺、グレー。二十枚は軽くある。
「えっ……こんなにあるんですか」
「はい! 兄が自分で書いてるんです。布用の塗料で、一枚一枚」
天草さんが次々とハンガーを引き出していく。
自分で書いてる!?
市販ではなかったわけか。何者なんだ、暁さん。
「これが『大根』。冬限定です」
「冬限定って……季節感あるんですね」
「こっちが『もろみ味噌』。渋いでしょう?」
「渋いというか、もはや何を目指しているのか……」
「そしてこれが最新作、『日曜大工』!」
「食べ物ですらない」
笑いが止まらなくなった。
天草さんも、腹を抱えて笑っている。
二人で声を潜めているつもりだが、全然潜められていない。
リビングの奥から、暁さんの声が飛んできた。
「おい。それ1枚作るのに三日かかってんだぞ」
「兄さん、三日って何に時間かけてるの?」
「構図だよ。『日曜大工』の『日』の入り方に三パターンあってだな——」
暁さんが急にクローゼットに歩いてきて、Tシャツの文字について解説を始めた。
この人、普段は無口なのに、筆文字のことになると止まらないらしい。
「この『豆腐』は初期作だ。線が若い。技術的にはまだ未熟、勢いだけ」
「……美術評論みたいですね」
「Tシャツは芸術だ」
真顔で言い切った。
天草さんが俺の横で肩を震わせて笑っている。
「兄、いつもこうなんです。おかしいでしょ?」
◇
気づけば小一時間が経っていた。
食卓にはいつの間にか暁さんが作ったらしい焼きうどんが三人分並んでいた。
「あの、すみません。こんなに長居して」
「別に。おこげが喜んでる」
暁さんの言葉は愛想がないが、三人分ちゃんと作ってくれている時点でもう答えは出ている。
焼きうどんは見た目は豪快だが、味付けは丁寧だった。鰹節と胡麻油の香りがたまらない。
天草さんが小皿におこげ用のごはんを用意しながら、暁さんとなにやら談笑している。
暁さんがぼそっと何か言って、天草さんが「ひどい!」と笑う。
(いいな、この空気)
この食卓には、温度がある。
スープが熱いだけのカップ麺とは、何もかもが違う。
◇
「じゃあ、失礼します」
玄関で靴を履くとき、おこげが寂しそうに足元にまとわりついてきた。
「おこげ、また会えるから。大丈夫」
天草さんがおこげを抱き上げて、俺に向かってその前足を振らせた。
「おこげが『またね』って言ってます」
「……天草さんが言ってるだけでは」
「おこげの気持ちは、私が一番わかるんですー」
ふふっ、と笑う天草さんの笑顔は、会社では絶対に見られないものだった。
暁さんが奥から「ちゃんと鍵閉めろよ」とだけ言った。
◇
帰り道。
エスポワールの灯りを背にして、ボロアパートへの道を歩く。
わずか数十メートルの距離。
だが、あっちとこっちでは、何もかもが違う。
天草家には、会話がある。温もりがある。犬がいる。手料理がある。
俺のアパートには——カップ麺と、静まり返った六畳間だけだ。
だが、不思議と惨めな気持ちにはならなかった。
むしろ、胸の奥がほんのり温かい。
あの空間に、自分が入ることを許された。
それだけで、今日一日が充実したものに変わった気がする。
「……普通の暖かい家、だったな。あんなマンション、どんな奴が住んでんのかと思ったけど」
呟いて、自分のアパートの鍵を開けた。
がらんとした部屋。
いつもの暗さ。いつもの静けさ。
だが、今夜だけは、少しだけ寂しさの質が違った。
温かさを知ってしまったから、冷たさが際立つ。
スマホが鳴った。
『今日は来てくれてありがとうございます! 兄も喜んでました(本人は絶対否定しますけど)』
俺は少し笑って、返信を打った。
『焼きうどん美味しかったです。暁さんによろしくお伝えください。あと、筆文字Tシャツコレクション、相当ヤバいって伝えてください』
すぐに返信。
『伝えたら「褒め言葉として受け取る」って言ってました(笑)』
『あと、おこげが大塚さんがいた場所の匂いを掘り掘りして、寝床作ってました(笑)』
添えられた写真には、俺が座っていたソファの窪みに鼻を押しつけて眠るおこげの姿。
「ははっ」
あの雰囲気を思い出して、笑いがこぼれてしまった。
スマホを枕元に置いて、天井を見上げた。
温度のある場所を知ってしまった。
それを知る前には、もう戻れない。




