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第六話


     過去・6(高崎一郎視点)


 2011/7/23──三年前


 その日の朝、俺を起こしたのは一本の電話だった。

 ベッド脇に置いておいた携帯が、目覚まし時計よりもずっとやかましく鳴り響いたのは、午前四時前のことだ。相手によって着信音の大きさを変えている俺の携帯によると、その着信を取らないことは死を意味していた。

 つまり、電話をかけてきたのは、鬼よりも恐ろしい上司だった。

 きっちり二つ目のコールが終わったところで、電話を取る。

「おはようございます、良治さん」

 もちろん、心の中では「時間を考えろ、クソ上司」と叫びながら。

「……イチロー、今からこっちまで来られるか?」

 少しの間を挟んで返ってきた声に、驚く。

 その声が、予想して身構えていたものよりずっと弱々しかったからだ。

「もしかして、何かあったんですか」

「あぁ、まあな。とにかく、できるだけ早く来い」

 それだけ言い残されて、電話は切れた。後にはツー、ツーと機械的すぎる機械音だけが残る。

 短すぎる通話に、嫌な予感が脳髄にこびりつく。

 いつも怖いくらい強気で、鬱陶しいくらい余裕があって、迷惑なくらい偉そうなあの良治さんが、切羽詰まって弱々しかったのだ。その事実だけで、否が応でも不安になる。

 俺にしては珍しく、朝早くの呼び出しにも文句を垂れずに、急いで着替えて家を出た。古びた車で良治さんの下へ向かう間、ずっと音楽をかけて不安になるのを抑えていた。



 それから良治さんの下にたどり着くまでは、十分くらいで済んだ。早朝で道路が空いていたからだ。

 急いで非常階段を上り、良治さんの部屋を目指す。ようやく、その木造のドアの前までやってくると、息を整えてからノックをした。

「良治さん、いますか? イチローです。言われた通りやってきました」

 ドア越しに尋ねるが、反応は何もない。

「……良治さん?」

 やはり、何も返ってはこない。部下を呼びつけておいて、本人はどこかに行ってしまったのだろうか。あるいは……

 思い出すのは、受話器越しに聞こえてきたあの弱々しい調子だった。そのせいで、ある可能性が脳裏をよぎる。

 この街には悪人が腐る程いて、人殺しだって、誘拐だって、別に珍しいことじゃない。特に良治さんなんて、多方面から恨みを買っているのだ。動機はあり過ぎるほどだった。

 またも嫌な予感がしてくる。

「勝手に開けますね。ダメでしたら、すぐに返事をください」

 そんな最後通告みたいな文言にも、結局返事はなかった。

 こうなっては仕方がない。どうか、部屋の中に良治さんの死体なんかがありませんように、と祈ってドアノブに手をかける。

 いよいよドアノブに力を込めると、覚悟していたよりずっと呆気なく扉は開いた。

 六畳間の狭い部屋には、一人分の机と椅子がある。机の上には、開きっぱのノートパソコンがあって、画面ではカーソルが点滅していた。そして、近くには『タイターン』関連の資料が散乱している。きっと、何かの作業中だったのだろう。

 いつも通りの良治さんの部屋だ。死体もなければ腐臭もしない。

 一先ず胸をなで下ろしてから、俺を呼び出した上司の居場所について考え始める。まさか、部下を呼びつけておいて、そのままいなくなるだなんて。俺が早起きした意味がないじゃないか。

 もう、帰ってもいいだろうか?

 このまま帰ってしまいたくもなったが、何もせずに帰ると後が怖かった。形だけでも、良治さんを探したという事実を作りたい。

 そう考えて、灰田さんの部屋を訪ねることにする。良治さんが俺の上司であるのと同様に、彼女は良治さんの上司だ。そして、良治さんのことなら大体のことを知っている、頼れる人だ。

 軋む木の廊下を通って、灰田さんの部屋の前に立った。

「失礼します。イチローです。灰田さん、いますか?」

 ノックして、そう尋ねてから返事を待つ。

 返ってきた声は、予想していた人物のものではなかった。

「ようやく来たか、イチロー。早く入って来い」

 それは、この先で居場所を訪ねようと思っていた、直属の上司の声だ。

「良治さん!? どうしてここにいるんですか?」

「……いいから、早く入って来い」

「は、はい」

 電話の時みたいな弱々しさは、もう消えていた。いつも通りの偉そうな口調で、入室を促される。

 すごすごと言われた通りに入って、すぐに部屋の状況に驚いた。

 天井に付いていたお洒落な電灯が砕けていて、窓から差す朝日だけが部屋を照らしていた。綺麗にラベリングされていたはずの引き出しは、床に倒れて中身がぐちゃぐちゃに散乱していて、朝日を通す窓に張られていたはずのガラスは粉々に砕け散っている。

 そして良治さんは、そんな窓の近くで壁に背を預けて座っていた。辺りには、今後の予定が記されているはずのスケジュール表が、ビリビリに引き裂かれて散らばっている。

「一度だけ言うからよく聞けよ、イチロー。……今日を以って、『タイターン』を解散させることになった。お前は今進めている全てを止めて、メンバー全員に通告しろ。俺は、他の後処理に回る」

 俺の顔を一目見た上司は、すぐに視線を外し宙に漂わせながら、そう言った。

「……え?」

 思わず、そんな言葉が溢れ出る。

 まるで何かの冗談のような響きだった。けれど、いくら待っても言葉は取り消されず、時間が経つにつれて冗談みたいな響きは消え入った。

 そもそも、良治さんが『一度だけ言うから』なんて前置きをしたのだ。あの良治さんが、わざわざ前置きをしたのだ。既にそれだけで、どうしようもなく、冗談っぽく聞こえたとしても彼の言葉が冗談ではないことを示していた。

 途端に、不安が頭の中を駆け巡る。『タイターン』がなくなってしまったら、明日の行方すらわからなくなってしまう。折角、『タイターン』の持つ力に預かろうと、雑用でも何でもやってきたというのに、これじゃ意味がないじゃないか。

 ふと、そこで違和感を覚える。

 良治さんが『タイターン』の解散を決めるのは、ちょっとおかしくないか?

 どれだけ良治さんが多くのことを決めていたとしても、『タイターン』の解散を決断することは出来ないはずだ。その権利は良治さんにはない。

 『タイターン』のトップは灰田波依であって、朱良治ではないのだから。

「それは、灰田さんが決めたことなんですか?」

 そう尋ねると、良治さんは自暴自棄気味の半笑いで答えた。

「死んだよ、灰田さんは」

 死んだよ、と繰り返される。

 やはり、その言葉は何かの冗談のような響きをはらんでいた。そして、やはり冗談みたいな響きは、同じように時間と共に消え入る。

……まさか。

 電話での良治さんの弱々しさやこの部屋の荒れ具合から考えても、何か昨日の夜に何かがあったらしいとは推測できたものの、流石に灰田さんの死までは鵜呑みにできなかった。

「冗談ですよね、良治さん?」

 幾ら何でも、タチの悪過ぎる冗談だ。

「嘘だと思うなら、窓の外を見てみろよ。それが一番手っ取り早い」

「窓の外?」

 この部屋に窓は一つしかない。ガラスが粉々に砕け散って、穴みたいになっている窓だ。

 何が何だか分からないまま、言われた通り、窓際に近づいてみる。そして、ガラスの破片に気をつけながら、外に顔を出す。

 そこには、至って普通の『早朝の街』があった。

 依然、車通りの少ない通りを、新聞配達のバイクが少しずつ進んでいく。朝日は路地に面した家々の屋根を照らし、近くの風見鶏が風に煽られてくるくる回っていた。

 変哲のない早朝の街が並んでいて、もちろん灰田さんの死体も、それを匂わす何かも見当たらない。

「……別に、変わったものは何もありませんよ?」

「ハァ? しっかり見ろよ」

 そう言いながら近づいてきた良治さんは、俺を押しのけて窓の外に顔を突き出す。

 そして、目を見開いた。そのまま小さく何かを呟いたけれど、小さすぎて何と言っているかまでは分からなかった。

 良治さんの、壁を掴む手が震える。

 やがて、彼は吐き出すように息を吸い込んだ。

「……『殺さない殺し屋』の仕業だ。きっと」

 『殺さない殺し屋』? 良治さんは、そいつらこそ灰田さんを殺した相手だと言いたいのだろうか。

 まるで、おかしい言葉だった。悪くない不良とか、推理をしない探偵とか、学校に行かない生徒とか、そういうおかしさがあった。

 人殺しをしないのなら、殺し屋とは言わないはずだ。

 そして灰田さんを殺した相手が人殺しをしないと言うなら、灰田さんは死んでいないはずだ。

「『殺さない殺し屋』? それなら灰田さんは、死んでないんじゃ?」

 当然のようにそう尋ねる。

 良治さんは、窓の外から視線を外さずに答えた。

「そういう意味じゃねぇ。……証拠も殺した形跡も残さない、死んだことにすらならない────そう意味での、『殺さない殺し屋』」

 言葉は、散らばったガラスの破片に吸い込まれる。

 朝日は部屋を照らし続ける。

 そして、ガラスのなくなった窓の先には、やはり『早朝の街』が並んでいた。……いつも通り。


     6(高崎一郎視点)


 2014/3/1──四日前


 外国人に間違われることがよくある。

 身長が高く体格ががっしりとしていることや、肌の色が褐色系であることから、そう思われる。けれど外国人ではない。外国人ではないと否定すると、今度はハーフを疑われる。けれどハーフでもない。

 クォーターといって、祖父の一人がアフリカ人なのだ。その血を色濃く受け継いだのだろう。

 けれど両親は日本人だ。そして、生まれも育ちも日本。どころか日本以外の国に行ったことすらない。日本万歳!

 それ故、こんな格好が冗談に思えるくらい、性格も考え方も日本的だった。

 事件があったのは、四日前。悪魔みたいな上司・朱良治に命令されて、俺は女子高生・井上奈々を攫った。そして今更、そのことを後悔し始めていたのだ。……日本人らしく。

 クロロホルムを嗅がせて意識を飛ばし、車の荷台に乗せてしまうなんて、今時B級ドラマもやらない雑な手口だった。

 井上奈々は一人暮らしのはずだから、当分は犯行も明るみに出ないかもしれない。けれど、その内きっと警察が動き出す。その時、誘拐のプロでも何でもない良治さんの手口は、あっさり見破られるに違いなかった。

 力を持つからこそ良治さんに付いてきたものの、雑に誘拐してしまうほど暴走気味では沈み行くのは目に見えている。そして、沈み行く泥舟にみすみす乗るほどバカではないつもりだ。

 井上奈々を誘拐した次の日、俺はすでに良治さんの下から離れていた。



 そして、更にその翌日。

 良治さんの下から離れたはいいものの、誘拐の罪から逃れるために、何をやればいいか分からないまま頭を悩ませていた。『このままでは、実行犯の罪は俺にものしかかるだろう。どうにかして良治さんだけに被せたいけど……』、なんてそんなことを考えていた時だ。

 ある接待の付いている居酒屋で、俺はその女に出会った。

 店の衣装らしいメイドみたいなエプロンをつけて隣に座ってきた彼女は、金髪、派手なネイル・ピアス等……まるでギャルみたいな擦れた格好をしていた。そして、そんな女にどういうわけか見覚えがあった。

 記憶の片隅を探して、やっと思い出す。

 それは、つい最近のこと、井上奈々を攫うにあたって、良治さんから彼女の身辺を調査するよう命じられた際のことだ。始めに彼女の基本情報を集めようと思って、俺は家族について調べることにしたのだ。

 結局井上奈々には家族がいない、という結論に至ったその過程で、五年前に死んだ彼女の姉のことを知った。彼女の姉はさる要人と恋に落ち、様々な厄介ごとの末に、殺されてしまったという。

 要するに、隣に座るこの女は、その姉にそっくりなのだ。

 いや、そっくりというか……

 写真で見た容貌と比べると、幾分世間慣れしたというか、悪い方向に成長したように見えるが、顔の作りは全く同じだ。この女こそ、井上奈々の姉で間違いない。そう確信した。

 あれ、死んだはずじゃなかったのか? とも思って考え直すが、そういえば死体は見つかってなかったと言われていたような気もする。ならば、そういうことなのだろう。何かの都合があって、『井上奈々の姉』ではない人生を送り始めたの

 そして、この女が井上奈々の姉なのならば、俺は誘拐の罪を全て良治さんの被せられるかもしれなかった。

 いわば、この女を撒き餌にすればいいのだ。

 つまり、この女についていれば、井上奈々の行方を捜す警察なり探偵なりが、訪ねてくるに違いない。その調査に協力して良治さんを止めれば、『朱良治に誘拐を強要された』という言い訳も真実味が増す。どころか、助けてくれたお礼さえされるかもしれない。

 この線でいこう、と決める。

 問題は、どうやってこの女と一緒にいるかだったが、それもさしたる難問ではなかった。この手の女は、恋愛を生きる術として考えているのだ。そして俺は、……見かけだけなら筋骨隆々の大男で、金もまあ持っている。

 そこら辺をちらつかせながら告白するだけで、きっとガールフレンドになるはずだった。

 自分で思いついた名案にウキウキが止まらず、ニマニマと笑みを浮かべながらその女──胸の名札を見るに、今は『麻生由美』として生きているらしい──の肩に手を回す。

「ねぇ、由美ちゃん……」


 2014/3/3──二日前


 井上奈々の姉、今は『麻生由美』と名乗る女と行動を共にして、接触してきた警察なり探偵なりの調査に協力する。

 それは思い付きの計画だったが、経過は順調だった。

「悪い悪い、腹が痛かったんだよ。……で、お前らか。由美を呼び出した奴ってのは」

 早速、網にかかった相葉朋久と名乗る探偵と依頼人の高校生の様子を見つつ、良い頃合いで話し合いに割って入る。

 短パンに白のTシャツと恐ろしくラフな格好の探偵が、タバコを吸っているせいで煙い。井上奈々と仲が良いらしい依頼人の高校生は、俺の姿を見た瞬間縮こまった。

 この通り、井上奈々を探しているという探偵が釣れた。そのまま話し合いを続け、結局その日のうちに、俺は金髪の探偵と朱良治をとっ捕まえるための協力を約束したのだった。

 唯一誤算だったのは、あの探偵が、俺のガタイにも牽制がてらの睨みにも、恐怖を抱かなかったことだ。あれで会話の主導権が握れると思ったが、逆に奪われてしまった。

 とはいえ、協力の約束はできたのだ。やはり計画は順風満帆だった。

 その日の晩、早速、アドレスを交換したばかりの探偵から連絡がくる。

『君は今日の昼、元『タイターン』の副トップ・朱良治が、井上奈々を監禁していると言っていたよね? そういうことなら、明後日の三月五日に、朱良治の下へ案内してほしい。こういう場合は、きっと早い方がいいのだろうけれど、僕は明日、用事があるからね。だから明後日の三月五日に頼むよ』

 ということだった。

 善は急げというか、出来れば早く良治さんをとっ捕まえに行きたかったが、そういうことなら仕方がない。良治さんの様子を思い出しても、この一日で井上奈々をどうにかしてしまいそうには見えなかったから、三月五日になっても問題はないはずだ。


 2014/3/5──現在


 そして、三月四日は驚くほど呆気なく過ぎ去った。

 目立ったことは何も起きず、ガールフレンドということになっている麻生由美と、ただ駄弁っているだけで、時間は矢のように進んでいった。流石に恋愛を生きる術としているだけあって、話も面白いし男を喜ばせるツボも抑えている。由美は、俗に言う良い女だった。

 夜が明け、街には三月五日が訪れる。約束の五日だ。

 金髪の探偵──相葉朋久から、送られてきた待ち合わせの場所へ、由美を連れていく。由美を連れていくことは、探偵からの要請だった。曰く、『彼女が必要になる場面が、きっと来るはずだからね』とのこと。

 そんな場面が来るとは思えなかったが。

 駅前から、車で国道沿いを進むこと数分、段々と景色が田舎びていく。田んぼや畑が増え、駐車場や店のスケールも大きくなっていく。信号機ももう随分見なくなってきたところで、待ち合わせ場所のコンビニエンスストアに到着した。

 十数台は入りそうな駐車場の一番端に車を停めると、助手席に座っていた由美と店に向かう。

 探偵と依頼人の二人組は、その入り口付近に突っ立っていた。

「おはようございます、お待たせしました」と、話しかける。

「おはよう。……よし、ようやく揃ったね。それじゃ行こうか」

 俺たちの姿を見た瞬間、探偵はそう言って歩き出した。高校生の依頼人は、やはりビクビクとしながら、探偵を挟んで俺とは反対側に身を置いた。

 右から、由美、俺、探偵、依頼人の並びで歩く。

「それで、今は結局どこに向かってるの? あーし、よく分かってないんですけど」

 少しだけ進んだところで、由美が口を挟む。

 その疑問に答えたのは、歩きタバコにも余念が無い探偵だ。

「そもそも、ここら辺が『タイターン』の所有していた土地なのは、知ってるかい?」

 煙と一緒に、そんな質問が吐き出される。

 『タイターン』、懐かしい名前だ。と言っても、つい最近まで『タイターン』で顔馴染みだった上司と、行動を共にしていたわけだけど。

 由美は首を横に振った。

「まあ、知らないよね。……ここら辺は比較的田舎の方で、地価が安いし、人の目もほとんどないからね。怪しい物を作る工場だったり、秘密の話し合いを行ったりするために、もってこいの場所だったんだよ」

「つまり、朱良治は元『タイターン』の土地を使って、奈々を監禁してるってことですか?」

「そうだね、三上くん。その通り。……なんて言って、この話は全部、一昨日の夜に高崎くんから教えてもらったものなんだけどね」

 探偵はハハッと笑う。

 もう随分と歩いてきたからか、砂利道だった歩道は、いつの間にか舗装されたコンクリートに変わっていた。そして、民家が立ち並んでいた景色には、段々と使われなくなった廃工場が増えてきた。

 もうそろそろ、目的地に近づいている。

 だというのに、俺の注意力は落ちていく一方だった。先ほどの探偵の言葉が、頭に残っていたのだ。

 確かに一昨日の夜、俺は探偵に、朱良治の居場所を話した。けれど、それだけだ。この辺りの土地と『タイターン』の関係については、一度も話していない。

 そして、その関係は一般人が知るはずのない内容だった。何せ、『タイターン』の暗部とも言える内容なのだ。

 やはり、この探偵には何かあるのかもしれない。……格好だって、いつも探偵とは思えないくらいラフだし。ベレー帽もかぶっていないし。

「……そろそろだね。高崎くん」

 考え事に頭を巡らせていると、もう目的地眼前だったようだ。

 探偵の声で顔を上げると、一回り大きい廃工場が視界に入った。

 横に潰れたビルくらいの規模感で、のっぺりとした直方体の建物だ。使われなくなってから、まだ三年しか経ってないからか、壁や屋根は綺麗な白を保っていた。その両脇に道が通っていて、駐輪場や駐車場につながっている。

 この工場の地下室で、良治さんは井上奈々を監禁しているはずだ。

 あそこなら窓もないし、監禁するには都合がいい。

「行きましょうか」

 表から堂々と入るわけにもいかず、駐輪場の方を通って裏に回る。規模が大きい分、裏に回るだけで時間がかかりそうだった。

 その間、今後の身の振り方について考える。

 もちろん、上手く井上奈々を助けられれば、話は簡単だ。あとは『良治さんに強要されていた』と言い訳するだけで、俺の罪は全て良治さんに被せられるはずだ。

 問題は、井上奈々を助ける上で、良治さんに捕まってしまった場合だ。その時は、……出来るだけ早く探偵を裏切ることにしよう。そして、井上奈々の行方を嗅ぎ回る探偵を、良治さんの下まで誘い出したということにしよう。

 そうすれば、どうなっても俺はうまくいく。

 裏切るタイミングだけ逃さないように、とアンテナを張ることにした。

 それから、駐輪場を抜け舗装されていない裏道を通って、ちょうど廃工場の裏口まで回ってきた。この裏口を通ると、吹き抜けのようになっている空間が待っていて、その先に地下へつながる階段があるはずだ。

 ドアノブに手をかけ、開けることを目配せで知らせると、「少しだけ待って」と探偵が制止の声を上げた。

「……それよりさ、麻生由美。君は、この先進んでいいのかい? このまま井上奈々と会ってもいいのかい?」

「それは、約束の話ですか?」

「そうだね。僕は別にいいんだけどさ、君は本当にいいのかい? 僕は別にいいんだけど、井上奈々に会うってことは、約束を破るってことになるんじゃないのかい? 僕は別にいいんだけど、その約束はそんなに軽いものだったのかい?」

 工場の裏に回る途中で、吸っていたタバコの火を消した探偵は、それでも人差し指と中指の間に吸い殻を挟みながら、大きく首を傾げた。

 金髪が揺れる。

「大丈夫です。あーしは、誘拐された妹が不安で、様子を見にきただけですから。会って話すつもりはありませんから」

 手をすっぽりと覆う長い袖を、その口元に持っていきながら由美は答えた。

「そうかい。まぁ、別に僕は、どうだっていいよ」

 そのやり取りが、どういうことを意味するのか、俺にはよく分からなかった。

 約束ってなんだろう? 由美は誰かに、妹と会わないことを約束したのだろうか?

 不思議なやり取りに気を取られ、いつしかそんなことを考えかけていた。急いで首を振る。

 今考えるべきことは、良治さん側に裏切るべきかどうか。そして裏切るならどのタイミングがいいか。それだけだ。

 気を取り直して、ドアノブに手をかける。

「じゃあ、今度こそ開けますよ」

 今度は口に出して確認を取る。

 残りの三人が頷くのを見て、ゆっくりと右手に力を込めた。ドアがゆっくりと開き、吹き抜け部分が露わになる。

 そして、その瞬間思考が止まった。

 扉の先の吹き抜けには、三人の姿があった。

 一人は、レザーコートを羽織った眼鏡の男だ。見たところ三十代後半に見えるが、実はまだ二十九歳。いつも気を張っているからか、目つきが鋭く気の強そうな印象を与える。

 その横に立っているのは、ポニーテールの女子高校生だ。その整った顔立ちからは、可愛さよりもカッコ良さを覚える。前に調べた情報によると、その容姿通り、スカートよりもズボンを好みいつも袖をまくっている、男勝りな女の子のようだ。

 そんな二人と対面するのは、黒いローブを羽織った男だった。腕や首に付いている派手なアクセサリーが、ローブとは不釣り合いに光る。口元に、薄っぺらい笑みが張り付いている。どこか正体の掴めない不気味さを漂わせていた。

……先客? そんなまさか。

 どうして良治さんは、井上奈々を監禁していないのだろうか。

 どうして井上奈々は、縄につながれていないのに、逃げ出さないのだろうか。

 そして、もう一人のローブを羽織った男は、誰なのだろうか。

 状況が掴めない。そんな中、俺たちの存在に気づくことなく、ローブの男が口を開いた。

「凄腕のスナイパーが、あんたの命を狙っている。裏の世界で生きてたら、名前くらいは聞いたことがあんだろ。『殺さない殺し屋』のクロだ。……もしもそこな井上奈々をこちらによこしてくれれば、命だけは助けてやるよ」

 そこが吹き抜けだったせいか、声は驚くほど反響した。

────役者は、その廃工場に揃い始めていた。

 不良グループ『タイターン』の元副総長、誘拐された女子高校生、街の胡散臭い探偵、殺されたはずの訳ありギャル、ただの一般人、そして『殺さない殺し屋』の一味……

 足りないとすれば、あとは少年の殺し屋くらいだ。


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