最終話
あれから幾日が過ぎただろう。
あの日に心を置き去りにしてきたみたいに、私の心はまるで身体から切り離されてしまったかのような感覚だ。
目が覚めて数日後、スイファさんたちにお礼を言いに行き、ローラさんと再会した。だけど私の記憶は酷く曖昧で、あまりその時のことを覚えていない。
『今はゆっくり、心を休めて下さい』
悲しそうな顔で困ったように笑ったスイファさんの顔が、やけに印象的だった。
スイリュウ様曰く、私の心は今物凄く消耗していて、そのせいで記憶が曖昧なのだという。今までならその言葉の意味を正しく理解できたように思うが、今の私の頭はふわふわとしていて、「スイリュウ様が言うのならそうなのだろう」と思うだけだった。
スイリュウ様は私の体調が戻ると、住処である洞窟や精霊の集落以外には今までほとんど連れて行ってくれなかったのに、急に色々な場所に連れて行ってくれるようになった。
この大陸で一番高いという山の頂上だったり、秘境にあるピンクに染まった湖だったり、極寒の地にあるとても美しい氷の洞窟だったり。
ぼんやりとした頭なりに、瞳に映った景色に感動したのを覚えている。そして私は少しずつ以前の私に戻っていき、ずっと目を逸らしていた事実と少しずつ向き合い始めた。
あの時こうすれば。ああしていれば。
向き合えば向き合うほど後悔は地層のように積み重なり、胸を締め付けられたかのように苦しい。でもそんな私の側にずっとスイリュウ様はいてくれて。私が大切な人たちの死を受け入れていくことを、優しいあの眼差しでずっと見守っていてくれた。
何か言葉をかけられてもきっと何も答えられなかったから、何も言わずに側に寄り添っていてくれるのが、すごく嬉しくて、心強かった。
ああ、やっぱり私はこの方が好きなんだ。そう素直に思った。
スイファさんが私がスイリュウ様を想う事は悪いことじゃないと、そう言ってくれて。だから想うだけならいいかなって、そう思えるようになった。
そういえば目を覚ましてから一つ変わったことがあって、それはスイリュウ様が前以上に側を離れなくなったことだ。スイリュウ様は私が攫われた時、どうしてあの場を離れてしまっていたのかと激しい後悔をしたらしい。
例えばソーファさん宅にお邪魔した時、今までだったら家の外で待機していたのに、魔法で体を小さくして隣にくっついていた。寝る時もそうだ。今までは別々のところに寝ていたのに、今では狼みたいな大きさになって、一緒にベッドに入って隣ですやすやと寝ている。
私が一度攫われたことが、スイリュウ様の心の傷のようになってしまったのかもしれない。
でもそれが嬉しくて、仄かで暗い喜びを感じる自分に呆れた。
私に寄り添い続けてくれたスイリュウ様にますます惹かれる私のこの想いは、底無し沼のように深いのかもしれない。
スイリュウ様もほんの少しでも同じ気持ちを抱いてくれていたらいいなって、欲張りになってしまったのは誤算だったけれど、そんなふうに思える自分が確かにスイリュウ様のそばにいる事実が、どうしようもなく嬉しかった。
◇
あの事件から半年が経った頃、私はスイリュウ様に連れられ、ライアンさんの隣の眠りについたフウリュウ様のお墓の前に立っていた。
フウリュウ様は亡くなっているのが見つかった時、狼ほどの大きさだったそうだ。それはライアンさんに会う時に好んでいた大きさらしく、フウリュウ様は彼の墓の前で、当時を思い出していたのかもしれない。
ライアンさんのお墓の隣に作られた墓石はまだ新しく、あのお方がこの世を去ってからまだ半年しか立っていないことをまざまざと感じさせられる。二つの墓石の前にに持ってきた花束をそれぞれ置き、両手を組む。二人がどうかあの世で会えたことを祈り、二人の幸せを願った。
「…本当にいなくなってしまわれたのですね」
友の墓の前で黙祷を捧げていたスイリュウ様は、ゆっくりと目を開く。
その寂しそうな目に、抱きしめたくなる衝動を堪える。
「…そうだな。あやつの愛し子がこの世を去って、あやつは随分長い時を生きた。もう十分、生きたであろう」
フウリュウ様がかけた魔法は今も健在で、この辺りに吹く風はベタつかず爽やかだ。
一陣の風が吹き、ダリアの花びらが舞い上がる。花びらは風に誘われて、水平線の彼方へと舞い踊るように消えて行った。
それから次に向かったのは、寂れた山奥の墓地だ。
妹は…アリスはあの日に自死した。後に王国の調査でこの王国の第三王子を刺殺したというのが分かり、アリスはオールストン家の墓に入ることは許されず、この山奥に罪人として打ち捨てられた。墓に入れてくれたのは、どうやらメアリー元王太子妃らしい。
アリスと彼女にどんな繋がりがあったかは分からないが、だいぶ回復したらしい彼女がアリスの為に墓を作り、そこにアリスを入れてくれた。メアリー元王太子妃を引き取った精霊と知人だったらしいソーファさんが、そう教えてくれた。
彼女にどうしても礼を言いたくて、ソーファさんに頼んで感謝の気持ちを伝えてもらったのだが、彼女は「自分はそんな風に思ってもらえるような人間ではない」と、そう言っていたそうだ。
それでも私の妹をきちんと埋葬してくれた彼女には、感謝してもしきれない。
アリスの墓の前に、かすみ草の花束を置く。
あの子は基本的には派手なものを好んでいたけれど、今思えば地味なものも意外に好きだったように思う。その最たるものがこのかすみ草だ。
小さい頃に中庭に咲いていたかすみ草をこっそり持ってきてくれたことがあって、自分はこういう花が好きなんだと言っていた。今となっては懐かしい思い出だ。
今思えばアリスは、オスカー様が私を娶ろうとしていたことに気付いていたのだと思う。だからあの場所で再会した時、あまり驚いていなかったのだ。
だとしたら、どんな思いであの結婚式に臨んでいたのだろう。あの時のアリスの気持ちを思うと、自分のことのように胸が痛んだ。
祈るのは一つだけ。
この世を旅立ってしまったアリスがどうか、
「幸せでありますように」
◇
さらに半年が経って、あの事件から一年が経過していた。
徐々に前のようにソーファさんの集落に遊びに行ったり、ユリアのいる火の精霊の集落に行ったり、魔法の練習をしたり、以前の日常を取り戻しつつあった。
前と変わらない日常の中で変わったことがあるとすれば、スイリュウ様との距離が物理的にも精神的にも近くなったことだろうか。
そして近頃何故かそわそわしていて不審な様子のスイリュウ様に、私はどう接するべきかという幸せな悩みを抱えながら過ごしていた。
そんなある日、いつものように魔法の練習をしていると、
「ジェシカ、少し出ぬか」
と緊張した様子のスイリュウ様に声をかけられた。かつてない緊張感に何かあるのだろうかと唾をゴクリと飲み込み、頷く。
上達した風魔法を使ってスイリュウ様の上に乗ると、目の前が光に覆われ見ている世界が一転した。
高い山の上にいるようで、眼下には復興中の城を中心に街が広がっている。どうやらここはフィーデン王国王都が見渡せる場所のようだ。
「…ここは昔、愛し子を見守れるようにとフウリュウが巣を作っていたところだ」
「そうなのですね」
見渡してみれば、確かに近くに洞窟がある。あそこを寝床に、ここから見守っていたのだろう。
しばらく周りの景色を眺めていて、スイリュウ様が全然言葉を発していないことに気付く。いつもならどこかに遠出をした時は色々話しかけてくれたものだけれど。
どうしたのだろうと思ってスイリュウ様をじっと見ていると、私の視線に耐えかねた様子のスイリュウ様が口を開く。
「わ、我はジェシカに…言いたいことが、ある…」
どんどん語尾が小さくなっていくスイリュウ様。
普段は自信たっぷりなスイリュウ様の自信なさげな様子は貴重だ。それがなんだかおかしくて思わず笑ってしまった。
「はい、なんでしょう」
「う、うむ…」
言いたいことがあると言いつつ、なかなか言い出す気配のないスイリュウ様。可愛いなぁ。
瑠璃色の鱗に太陽の日差しが反射して、とても眩しい。
「あの、だな…」
「はい」
「その、だな…」
「はい」
とっても大きいのにモジモジとしているそのドラゴンは、とても愛らしい。
大きく深呼吸をした後、スイリュウ様は覚悟を決めたように私の目を見た。
「我と…我と、契約を、してくれない、だろうか…」
真剣な目とは裏腹に、あまりにも弱々しい言葉で語られた内容は予想外のもので、私は驚いて目を見開くことしかできなかった。
毎日が色褪せた日々の繰り返しで、ずっと妹のスペアとして生きていくのだと思っていた。籠に入れられた鳥のように、ずっと必要になるその時まで、飼われて生きていくのだと。
思い切って屋敷を出たあの日、きっと私の運命は大きく変わった。
多くのものが変わり、失われていった。そのきっかけは、自惚れでもなんでもなく私の起こした行動だろう。私があの屋敷に変わらずいたとしても、いずれこの王国は現在のような未来を迎えていた。それが早かったか遅かったか。それだけの話。
だけど私のせいでこうなってしまったのではないかと、そう思えて毎日ベッドの中で怯えていた。
そんな気持ちを抱えきれず、ある日隣で眠っていたスイリュウ様に吐露したことがあった。眠っていたと思って独り言のように呟いたその思いに、起きていたスイリュウ様はこう答えた。
『確かに、ジェシカがあそこを飛び出してきたことで、フィーデン王国の罪が明らかになり、このような結末を迎えることとなった。だがな、ジェシカ。お主が言っているように、いずれはこうなる運命だったのだ。王家の目論見によってフィーデン王国は属国となり、魔法ももう使うことはできぬ。だがそれはいずれ来るはずのことで、先延ばしになっていただけだ。それよりも、お主のように苦しい思いをしていた愛し子や、王家に嫁いで絶望にくれた者たちがもう生み出されることはない。そちらの方が、大事なのではないのか』
かつての私のように心を殺して生きていくことも、アリスのように、好きな人に裏切られて亡き者にしてしまう程、辛い思いをすることもない。
『お主はフィーデン王国の王家の目論見によって生まれた数々の悲劇に、終止符を打ったのだ』
私はその言葉に、どれ程救われただろう。
『だからお主がもう、苦しむことはない。幸せにおなり、ジェシカ』
私が攫われたことで、沢山の悲劇が起きた。
私があの塔から抜け出さなければ、あんなことにはならなかったのでは。あの時アリスの前に現れなければ、アリスは思いとどまって命を奪うことも、命を断つこともしなかったのでは。私がオスカー様の前に現れなければ、ユリさんが暴走せず、沢山の命が失われることはなかったのでは。
こんなことになってしまったのは全て私のせいで。私が苦しくとも、その苦しみは沢山の人々が亡くなるきっかけを作ってしまった私が背負うべき当然の苦しみで、幸せになどなってはいけないのだと。
あの事件の日からスイリュウ様に言われるまで、ずっと思っていた。
でも。私も、幸せになっても良いのかな。
許されるのかな。
優しく見つめる満月が、そんな私の気持ちを肯定してくれている気がした。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、私は『契約』という二文字の言葉の衝撃に言葉を返せずにいたのだが、何故かそれに焦った様子のスイリュウ様。
「嫌で、あるなら、別に無理にとは…」
などど言い始めた。
私が幸せになっても良いのだと、そう言ってくれたスイリュウ様。ならば私は、目の前にある幸せを拒む理由などない。
スイリュウ様が普段なら見せないような姿を見せてまで、言ってくれている。気付けば私は何も考えずに、その言葉に答えていた。
「契約します」
「…ん?」
「契約、させて下さい」
「…っ良いのか?」
「私はスイリュウ様を愛しています。そんな貴方が契約して下さると言うんですから、断るわけがないじゃないですか」
「……そうか、そうか!」
いつもは落ち着いていて、ツンとしつつも優しいスイリュウ様が、今は子供のように無邪気に笑っている。それが眩しくて、嬉しくて、私もつられるように笑った。
慌てて我に返った様子のスイリュウ様が小さく咳払いをし、聴き馴染みのない言語を何度か呟くと、地面が急に白く光る。地面に描かれているのはどうやら巨大な魔法陣のようだ。
「ジェシカ、この中にお入り」
「はい」
魔法陣に足を踏みれるとなんだか不思議な心地がして、魔法陣の中が外界と切り離されているような錯覚を覚えた。そのままスイリュウ様の目の前の前に立つと、スイリュウ様はさらに言葉を紡ぐ。
≪古の契約に従い、血を捧げてここに名を紡ごう≫
今度は不思議と理解できた言葉は、私が次に何をすべきかを教えてくれる。私は風魔法で指を少し切り、血が指から流れ落ちた。
スイリュウ様もいつの間にか腕から血を流していて、お互いの流れ落ちた血が魔法陣に触れた途端、魔法陣は白から赤へと色を変えた。
「ジェシカ・オールストン」
「ファラ・エル・ブラウ」
同時に互いの口から名を告げれば、魔法陣の光が私たちを包み込み、気付けば光は消えていた。
「これで…契約は終わったのでしょうか」
「ああ、終わったよ」
今のところ体に何か変化を感じたり、そういったことはない。あまりにもあっけなく終わったそれに、私は今ここで契約をしたことが夢だったのではないかとさえ思えてくる。
だけど…。
「ジェシカ」
スイリュウ様に名を呼ばれれば、私がスイリュウ様の魂と深く繋がっていることを感じさせてくれる。前にユリアが言っていたのはこういう事だったんだなと、感覚で理解した瞬間だった。
「ファラ・エル・ブラウ様…」
「それが我の真名だ。ブラウ、と呼ぶが良い。ただし、その名を呼ぶのは我とジェシカのみのときだけだ」
真名を知られるのを嫌がるというのは出会った頃に教えてもらった。気軽に呼ばないように気を付けなくては。
だけど今は二人きり。今なら呼べる。ずっと呼びたかった、貴方の名を。
「ブラウ様」
「なんだ?」
「…これから末長く、よろしくお願いします」
「ああ。死を分かつその時まで、お主と共にあろう」
ブラウ様の額に、自分の額を当てる。
「ブラウ様。…愛しています」
「我もジェシカのことを、愛しく思っておるよ」
寿命と力を分けてまで契約してくれたブラウ様の、その言葉と想いを疑うことはない。
ああ、なんて幸せなんだろう。こんなに幸せな気持ちにしてくれるのは、貴方だけ。
ゆっくりと額を離して目の前を見れば、優しい眼差しが私を見つめていた。
その黄金の瞳に映るのは、失った半身によく似た女性。その女性があまりに幸せそうな顔をしている事に、少しだけ驚いた。
私はブラウ様といると、こんな顔もできるのね。
思わず笑えば、その黄金の双眸はいつかのように優しく私を見つめていた。