プロローグー 夜の瞬き:実
”有機する” …… 生命力を有すことーー
実はまどろんでいた。夜の隅っこで、虫たちが大気を震わせている。湿った土の匂いのする風が、レースのカーテンをすり抜けて無防備な体へ染みこんでいく。どれもこれもが、いっしょくたになる心地がした。
そのやわらかな暗闇を、カチ。コチ。カチ。コチ。と乱すモノ。実はパチリと瞼をあげた。勉強づくえへじっと目をこらす。カチ。コチ。カチ。コチ。おぼろげな輪郭が形になるころ。目覚まし時計の針は、すっかり真夜中をさしていた。
ふぅん、と鼻にかかった息をこぼして、ぱったりとふとんへ倒れこむ。洗いたてのシーツのなめらかさと、人肌のぬくもりがきもちよくて、しらず頬擦りする。ふと、鼻先へ桜の匂いがかすめる。肌寒さに身をすくませていると、もう吹き過ぎてしまう。ごろんと寝返りをうつ。真昼の陽気がつい嬉しくて、窓を開けたまま寝てしまったのだ。
実はしばらくぼんやりと暗がりをながめた。もう一度、目を閉じてみる。けれどなんだか眠れそうにない。思い切って、ベッドを抜け出すことにする。イスに引っかけていた薄手のカーディガンをはおり、そっとドアを開けた。
廊下へ踏み出すと、ひんやりとした床の感触が足の裏へ張りつく。手すりごしに階下をのぞく。キッチンから、薄くあかりがこぼれている。あれはコンロの真上、換気扇の隣へ備えつけられた豆電球の色。音をたてないように階段を降りる。すりガラスのはめこまれたドアを、そっと押す。
キッチンには、想像通りの背中があった。ちょうど卵を一つ、コンと調理台へ打ちつけている。殻の割れる湿った音、菜箸がボールの底を引っかく音。それらに耳を澄ませながら、その後ろ姿をみつめる。
有機は去年大学に合格した。今は寮で暮らしている。長期の休みには、ときどきこうして帰ってくる。久しぶりにみる、けれど幼いころに見慣れた背中。
彼がまだこの家にいたころ。いつからか、朝になるとテーブルの上にお菓子が現れるようになった。クッキー、スコーン、パウンドケーキに、マドレーヌ。どら焼き、なんてこともあった。特別な朝は、実をすっかりご機嫌にさせた。右手にも左手にももって、心ゆくままに頬張る。すると優しい兄はいつもくすくすと肩を揺らして、誰もとったりしないよ、と笑う。
部屋の内側へ体をすべりこませる。そっと近づいていく。包丁を持っていないこと、火を使っていないこと。それだけ確認して、ぴょんと腰へ跳びついていく。ハッ、としたように肩甲骨が揺れる。そこへ頬を寄せながら、実はクスクスクス、と笑みをこぼした。心地よい溜息が聞こえる。
「……びっくりした」
振り返った有機は、小さなこどものように唇を尖らせている。それを上目づかいで受けとめながら、実は悪戯っぽく笑んでみせた。兄は呆れたように鼻息をついたあと、困ったような笑顔をくれる。実は、有機のこの表情がとても好き。しょうがないなぁ、と甘やかされている感じがして、とても好き。
手元をのぞくと、ホットケーキミックスのふうが切られていた。実は目を輝かせて有機を見上げた。彼は密やかな声で、食べる? と小首を傾げてくれる。それに大きくうなずく。待ってて、と微笑まれたので、ダイニングテーブルの方へ向かう。いつもの席へ腰をかけて、両肘をつく。頬のお肉を、ムニっ、と持ち上げながらキッチンを眺める。冷蔵庫の白い光りが、有機の横顔を照らしている。
コンロがチチチとぐずって、ボッ、と鳴く。フライパンが火にかけられる。いったんあげられ、濡れ布巾へ。ジュワアァっという音、モワぁんっと湯気、フライパンは火の上へ。投入されたバターは、フライパンと手に手を取ってくるくるとダンス。こっくりと、香ばしい匂いが満ちて、実は思わずぺろりと舌なめずりする。ボールが手にされる。実はたえきれずにいそいそとキッチンへ向かった。目を輝かせてフライパンをのぞきこむと、有機がくすくすと笑うのが聞こえた。
おたまで掬う。ここで少し待つ。縁から余分な生地がトットットと溢れていく。それが収まって、ようやくフライパンへ垂らす。シュンッと、生地はまるく広がっていく。実はそれをみつめる。じっくりと、みつめる。しばらくすると、生地の表面にふつり、ふつり、と穴があきはじめる。縁がじりじりと焼きあがりだす。有機がフライ返しを手にする。スっと生地に指し込み、ポテン、とひっくり返す。ふちはミルク色、表面はこんがりキツネ色。
実はいてもたってもいられなくて、食器棚へ急ぐ。大皿と銀色のフォーク、それからナイフを用意する。そして冷蔵庫へ向かう。がちゃり、とビンがぶつかる。こうこうとした光を浴びながら吟味する。やっぱり牛乳、と心に決めてパックをとりだす。ガラスのコップに、とぷとぷと白い液体をそそぐ。次に納戸から瓶を取り出す。琥珀色の液体がとろりとするのを眺めて戸をしめる。
ぱすん、と音がした。振り返ると、有機がお皿に一枚のホットケーキをのせてくれていた。それを受け取って、テーブルにつく。有機がマグカップをもって向かいへ座る。
切り分けたバターをそっと落とす。そこへハチミツをたっぷりかける。琥珀色の液体が夜の明かりに照らされてキラキラと瞬く。実は、すっと手を合わせると、薄く色づいた唇を開いた。
「いただきます」
どうぞ、とはにかむような笑みが返ってくる。ほどよくバターの溶けたホットケーキにナイフをさす。ふかっと、狐色の生地が沈む。切り分けて、バターと蜂蜜をたっぷりすくって、唇の向こうへ。舌のうえがあったかい、そして甘く、香ばしい。実はほろほろと笑みを浮かべ、有機がひっそりと微笑んだ。食べ進めていると、有機が立ち上がってシンクへ向かう。真夜中のホットケーキに舌づつみをうちながら、その背をみつめる。
有機の作るホットケーキ。どっしりと厚みがあって、そのくせ、銀色の食器をひとたび差せば、ふかっと沈む。ホットケーキミックスのパッケージそのもののような、立派な姿をしている。
カチャ、カチャ、と食器のぶつかる微かな音。しばらくすると、控えめに水を流すのが聞こえてくる。
大好きな有機が作ってくれる、大好きなお菓子。実にとって、それは特別だった。その特別は、有機にとっても等しいものだと、昔は疑いもしなかった。あの日まで。
木漏れびの溜まる午後、金木犀の匂いたつリビング。そこでみた有機の、涙に濡れた瞳の輝き。その形の良い頭を幼い胸にかき抱いてはじめて、誰かと、ナニかわからない存在へ祈った。あの時から、朝のお菓子は真夜中のお菓子になった。キッチンに立つ有機の背をみつめて、実は思う。
この胸に今も続いているあの祈りは、未だ、きっと誰にも届かずにいる。
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