第39話 種倉には、白麦だけが眠っていなかった
第39話です。
第38話では、種麦畑に入り込んだ《灰斑虫》を、すぐに焼かずに止める方法を探しました。
畑全体を一つのものとして扱えば、燃やすか、放置するかの二択になります。
しかし澪たちは、種麦畑を赤帯、黄帯、青帯に分けました。
赤帯は虫が多い感染帯。
黄帯は監視が必要な警戒帯。
青帯は種穂を守る保全帯。
さらに種穂も、成熟済み、半成熟、観察群に分け、すべてを畑に残さず、すべてを倉に入れず、すべてを捨てない形へ変えました。
その結果、種麦畑の全焼は避けられ、種麦の一部は守られます。
しかし、そこで新たな問題が見つかりました。
共同種倉に、灰斑虫の卵反応が出ていたのです。
さらに、白麦だけを保存しているはずの倉の奥から、《旧作物種子反応》も検出されました。
今回は、共同種倉と、そこに眠る古い種へ向かいます。
共同種倉の扉は、朝の光の中でも暗く見えた。
石造りの低い倉。
厚い壁。
古い木の扉。
扉の上には、白麦の穂をかたどった紋章が刻まれている。
この地域にとって、白麦がどれほど大切なものだったか、その紋章だけで分かる。
けれど今、その扉の向こうから感じるのは、安心ではなかった。
湿った麦の匂い。
古い煙の匂い。
閉じ込められた空気。
そして、調律核の赤い表示。
《共同種倉:外部走査》
《湿度:想定より高》
《床下泥層:反応》
《種麦袋:多数》
《灰斑虫卵反応:微弱》
《旧作物種子反応:検出》
神代澪は、扉に手を触れない距離で立ち止まった。
「一気に開けません」
レイムが鍵を握ったまま、硬い顔で頷く。
「中に虫がいるなら、すぐ閉じた方がいいのではないか」
「閉じっぱなしだと、湿気がこもります。卵があるなら、むしろ孵化しやすくなるかもしれません」
ミルカが扉の下を覗き込む。
「床が近すぎる。石倉だけど、下に湿った泥層がある。水が戻り始めて、下から湿気が上がってるんだ」
ティナが青ざめる。
「この倉は、乾いた倉のはずです」
「乾いた年は、そうだったんだと思う」
澪は言った。
「でも、水が戻ると条件が変わる」
ライカが鼻をひくつかせた。
「虫の匂いは強くない。でも、湿った袋の匂いがする」
フィリアは胸に手を当てる。
「種が、重い空気の中で眠っています。眠っているというより、息を潜めている感じです」
ルシェリアは扉の隙間に指先を向けた。
「強く風を入れれば、虫や卵殻を舞わせる可能性があります。弱く、上へ抜く風が必要です」
「空気も段階開放か」
ライカが言う。
澪は頷いた。
「水も、霧も、空気も、種倉も。急に動かすとだいたい悪化する」
セラフィナが記録板を開く。
「種倉開放手順。第一、扉を指二本分開く。第二、虫受け布を下部に設置。第三、上部換気口を確認。第四、入室者を制限。第五、袋を一度に動かさない」
「そこまでやるのか」
上畑の女が言う。
「やります」
セラフィナが即答する。
「ここに三村分の種があるなら、手順を省略する理由はありません」
女は言い返しかけて、黙った。
昨日の夜、種麦畑で火を持ち込もうとした男も、その場にいた。
彼は松明を持っていない。
両手を固く握り、倉の扉を見ている。
「燃やすなよ」
ライカが小声で言う。
「分かってる」
男は苦い顔で答えた。
「昨日で懲りた」
「ならよし」
澪はレイムへ頷いた。
「お願いします。少しだけ」
レイムが鍵を回す。
ぎしり、と古い音がした。
扉が、ほんの少し開く。
その隙間から、湿った空気が流れ出した。
白麦の匂い。
煙。
石。
そして、かすかな生き物の気配。
ライカの耳が動く。
「いる」
調律核が赤く点滅する。
《灰斑虫卵反応:上昇》
《成虫反応:微弱》
《倉内湿度:高》
《急換気時、乾燥粉塵拡散リスク》
「入る前に、床を見ます」
ミルカが低く言った。
「床?」
「袋より先に床。種倉で一番怖いのは、見えている袋じゃなくて、下から来る湿気」
アオイが盾を構えた。
「危険があれば、私が前に」
「ありがとう。でも、今回は盾より足元」
ミルカが細い棒で扉の内側の床を軽く叩く。
こつ。
こつ。
どす。
三回目だけ、鈍い音がした。
ミルカの顔が変わる。
「下、抜けてる」
「抜けてる?」
「石床の下に泥が溜まってる。床板……いや、敷石が一部浮いてる」
調律核が更新される。
《種倉床下:湿泥層》
《灰斑虫卵反応:床下側に集中》
《保存種麦袋:下段汚染リスク》
《推奨対応:下段袋廃棄》
レイムが息を呑む。
「下段には、三村分の予備種がある」
「廃棄は最後です」
澪は即座に言った。
「まず、下段と上段を分けます」
「また分けるのか」
下畑の男が言う。
「はい。種倉も、一つの倉として見ない。床、下段、中段、上段、奥、入口。全部違う状態です」
セラフィナが記録する。
「区分名。床下赤域、下段黄域、中上段青域、奥部未確認域」
ライカが呟く。
「赤、黄、青、便利だね」
「分かりやすいからね」
澪は扉の隙間から中を見た。
薄暗い倉の中には、白麦の袋が積まれている。
整然としているように見えた。
けれど、よく見ると袋の下段が少し沈んでいる。
壁際の袋には、薄い湿りの跡がある。
煙で虫を避けるための香草束が天井近くに吊るされていたが、湿気を吸って黒く変色していた。
虫除けの煙も、乾いた倉なら機能したのだろう。
だが今は、湿った空気の中でこもり、種の呼吸を邪魔している。
「開けます。少しずつ」
澪は言った。
「でも、中へ入るのは最小人数」
アオイ、ミルカ、フィリア、ルシェリア、澪。
ライカは外で虫の動きを見る。
セラフィナは記録と入退室管理。
レイムとティナは入口で袋の印を確認する。
農民たちは、赤、黄、青の作業班に分かれて待機。
それだけ決めてから、扉はゆっくり開かれた。
***
種倉の中は、思った以上に息苦しかった。
空気が重い。
白麦の匂いはある。
だが、収穫の香ばしさではなく、湿りと煙に包まれた匂いだ。
ルシェリアが指先を動かす。
「上へ逃がします。下から巻き上げません」
細い風が、床ではなく天井近くを流れた。
吊るされた香草束の間を抜け、上部の小さな換気口へ向かう。
換気口は半分詰まっていた。
鳥の巣の跡と、古い藁。
「換気口が詰まってる」
ミルカが言う。
「ここを一気に開けると粉が舞う。少しずつ」
アオイが慎重に藁を取る。
強く引っ張らない。
ぽろぽろと落ちる粉を、フィリアが湿らせた布で受ける。
「粉の中にも卵があります」
フィリアが言った。
ライカが外から叫ぶ。
「外へ出てきた虫はいない! でも、扉の下に集まりかけてる!」
「虫受け布、交換!」
セラフィナが指示する。
外側の農民たちが、扉の下に置いた湿った布を取り替える。
昨日の種麦畑で使った方法と同じだ。
灰斑虫は湿った隠れ場所を好む。
なら、見えない場所へ散る前に、見える布へ集める。
澪は調律核で倉内を確認した。
《倉内換気:段階開始》
《粉塵拡散:低》
《成虫移動:扉下部へ誘導》
《卵反応:床下/下段袋に集中》
「まず下段袋を動かしたいけど、動かした瞬間に床下の卵が舞うかも」
「袋を持ち上げる前に、下に受けを入れる」
ミルカが即答する。
「薄い板と布。袋を上げるんじゃなくて、滑らせる」
「持ち上げない?」
アオイが聞く。
「持ち上げると中身が動いて粉が出る。滑らせて検査台へ」
「了解しました」
アオイは力がある。
だが、この場では力を抑える必要がある。
彼女は慎重に袋へ手を添え、ミルカが差し込んだ薄い板へゆっくり滑らせた。
袋の底には、黒い斑点のようなものがついていた。
ティナが入口から見て、口元を押さえる。
「卵……ですか」
フィリアが頷く。
「一部は卵です。でも全部ではありません。湿った麦粉と泥も混じっています」
「つまり、見た目だけでは判断できない」
澪は言った。
「袋を開ける?」
ミルカが聞く。
「全部は開けない。角だけ。少量を検査皿へ」
セラフィナが外で記録する。
「下段一番、検査開始」
袋の角を少しだけ開く。
白麦が数粒、皿へ落ちる。
その中に、灰色の小さな粒が混じっていた。
卵なのか、泥なのか、砕けた麦なのか。
調律核が反応する。
《種麦袋:下段一番》
《種子生存率:72%》
《灰斑虫卵混入:低〜中》
《外袋汚染:高》
《推奨:外袋廃棄/内部選別》
「中は全部駄目じゃない」
レイムの顔が少し明るくなる。
「袋の外が汚れているだけのものもある」
澪は頷いた。
「外袋を替えて、中身を選別。全部捨てない」
「どこで選別する?」
「外に検査台を作ります。風下ではなく、風の止まる場所。水路から離して」
ミルカが外へ指示を飛ばす。
「平たい板! 浅い皿! 湿った布! 乾いた袋! 赤、黄、青の印!」
農民たちが動き出した。
倉の中から一袋ずつ。
下段の袋は黄域へ。
明らかに湿りが強いものは赤域へ。
中段、上段の乾いた袋は青域へ。
ただし青域も安心しきらない。
袋を開けずに印を確認し、虫反応を見てから一時保全する。
「共同種倉なのに、袋の印が混ざっています」
セラフィナが言った。
レイムが答える。
「公平にするためだ。上畑、中畑、下畑の袋を交互に積んでいた」
「なぜですか」
「一番上だけ良い場所を取った、という争いを避けるためだ」
澪は、その説明に納得しかけて、すぐに問題に気づいた。
公平に混ぜた。
その結果、汚染も混ざる。
「公平のために混ぜたことで、全部にリスクが広がった」
レイムは苦い顔をした。
「そういうことになる」
「誰かが悪いわけじゃないです。でも、これからは混ぜ方を変える必要があります」
セラフィナが記録する。
「保存規約案。村別、段別、袋別の三重記録。混合積みは禁止。ただし、保管位置の抽選制で公平性を確保」
ライカが首を傾げる。
「難しい」
澪は説明する。
「袋を混ぜるんじゃなくて、場所の条件を同じにする。どの村の袋も床に直置きしない。上段だけ得をしないように、棚を作る」
ミルカが即座に頷く。
「床上げ棚が必要だね。下に空気を通す。湿気が来たら分かるように、床下検査口も作る」
「また工事だ」
農民の一人が呻く。
ミルカは容赦なく言った。
「工事しないと、種が腐る」
「……やる」
中流農耕帯編に入ってから、何度も同じ構図を見る。
面倒な手順。
でも、それをしなければ、もっと大きな損失になる。
畑も、倉も、人の暮らしは面倒の上に成り立っていた。
***
倉の奥へ進むと、空気が変わった。
白麦の匂いが薄くなり、代わりに乾いた土と古い木箱の匂いがする。
そこには、普段使われていない小部屋があった。
入口は古い棚で半分隠されている。
レイムが驚いた顔をする。
「こんな部屋があったのか」
ティナも首を振る。
「私も知りません」
倉の壁に、薄く文字が刻まれている。
煤と埃でほとんど読めない。
ルシェリアが風ではなく、柔らかい布で埃を払う。
フィリアが小さな水滴で文字を浮かび上がらせた。
そこには、こう書かれていた。
《白麦だけを残すな》
《乾いた年には石粟を》
《湿った年には畔豆を》
《虫の年には苦葉草を》
《種は税のためだけに眠るのではない》
澪は、その言葉をじっと見た。
「税のためだけに……」
レイムが低く呟く。
「古い水守の言葉かもしれない」
小部屋の中には、土器の壺や木箱が並んでいた。
白麦の袋とは違う。
小さく、丁寧に封をされている。
それぞれに古い札がついていた。
《石粟》
《畔豆》
《霧菜》
《苦葉草》
《深根麦》
《赤莢豆》
ライカが目を丸くする。
「白麦じゃない種?」
調律核が青く反応した。
《旧作物種子:確認》
《品目:石粟/畔豆/霧菜/苦葉草/深根麦/赤莢豆》
《発芽可能性:低〜中》
《遺伝的多様性:高》
《灰斑虫選好:白麦より低》
《一部作物:灰斑虫誘導/遮断帯候補》
「これ……」
澪は思わず息を呑んだ。
白麦だけに頼る地域で、白麦以外の種が眠っていた。
ただの古い種ではない。
乾いた年。
湿った年。
虫の年。
それぞれに使い分けるための作物。
つまり、この地域は昔から白麦だけで生きていたわけではなかった。
いつの間にか、一つに絞りすぎていたのだ。
上畑の女が小部屋を覗き込み、複雑な顔をした。
「そんな種、今さら植えてどうなる。白麦ほど売れない」
下畑の男も言う。
「税に出せるのは白麦だ。豆や粟を作っても、納める分が足りなくなる」
レイムは黙っている。
ティナは壺を見つめていた。
「でも、白麦が駄目になったら、何も残らない」
その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。
ミルカが壺を慎重に持ち上げる。
「全部使えるとは限らない。古すぎる種もある。発芽しないものも多いと思う」
フィリアが種壺へ手をかざす。
「でも、眠っているものがあります。完全には死んでいません」
ルシェリアが札を見る。
「苦葉草。虫の年に使う、とあります」
「苦葉草って食べられるの?」
ライカが聞く。
レイムが首を横に振る。
「少なくとも、主食ではないはずだ。昔、畔に植えたという話を聞いたことがある」
澪は調律核を見る。
《苦葉草:灰斑虫誘導候補》
《白麦への侵入速度低下効果:推定》
《注意:過繁茂時、白麦生育阻害》
「畔草帯の強化に使えるかもしれない」
ミルカが頷く。
「食料じゃなくて、虫止め帯として」
「畔豆は?」
《畔豆:根圏改善候補》
《土壌窒素固定類似反応:微弱》
《灰斑虫選好:低》
「土を少し助ける作物かも」
澪は言った。
「白麦の間に入れれば、全部白麦の畑より虫が広がりにくくなる可能性がある」
上畑の女が眉をひそめる。
「白麦の場所を減らすのか」
「全部ではありません。まず試験区から」
「試験区?」
「小さな区画で試します。いきなり全畑を変えない」
セラフィナが記録する。
「旧作物試験区案。白麦保全区、畔豆混作区、苦葉草虫止め帯、石粟乾燥区、深根麦観察区」
ライカがまた首を傾げる。
「すごく農業っぽくなってきた」
「第四部だからね」
澪は思わずそう返しかけて、セラフィナを見た。
セラフィナは真顔で頷きそうになっている。
「物語構造の記録は禁止でお願いします」
「承知しました」
本当に承知したかは怪しい。
その時、外から叫び声が聞こえた。
「下段の袋が崩れる!」
一同が振り返る。
倉の入口側で、湿った下段袋を移動していた棚が傾いていた。
床下の敷石が沈み、袋の山がゆっくり崩れようとしている。
アオイが即座に走る。
「支えます!」
「一人で受けるな!」
ミルカが叫ぶ。
「袋を止めるんじゃなくて、逃がす!」
澪も走る。
種袋の山が崩れれば、虫卵も麦粉も一気に舞う。
青域に移した保全袋まで汚染される。
調律核が赤く点滅する。
《下段袋群:崩落予測》
《粉塵拡散リスク:高》
《灰斑虫卵拡散リスク:高》
《保存種麦汚染拡大予測》
「また時間制限!」
ライカが叫ぶ。
「本当に休ませてくれない!」
***
崩れかけた袋の山は、右へ傾いていた。
下段が湿気で重くなり、床の敷石が沈んだのだ。
その上に中段の袋が乗り、さらに上段の乾いた袋が滑り始めている。
アオイは盾を袋の山へ当て、崩落の勢いを止めていた。
だが、真正面から支え続ければ、袋が破れる。
袋が破れれば、麦と粉と卵が散る。
「ミルカ!」
澪が叫ぶ。
「横へ逃がす!」
ミルカはすでに板を持っていた。
「滑り台を作る! 上段の青袋だけ、右じゃなく左の検査台へ流す!」
「赤と黄は?」
「下に落とさない。湿った布を敷いて受ける!」
「農民班!」
セラフィナが外へ声を飛ばす。
「青袋受け取り班、左。黄袋隔離班、右。赤袋に触れる者は湿布を持ってください。袋を投げない。引きずらない」
「言われなくても!」
農民たちが叫びながら動く。
ルシェリアは風を止めた。
「今は風を流すと粉が舞います」
「完全に止める?」
「上だけ抜きます。床は動かしません」
「お願い」
フィリアは袋の山の下に手を向ける。
「虫が、動き始めています。崩れる前に逃げようとしています」
「扉下の虫受けを増やして!」
ティナがすぐに湿った布を広げる。
ライカは袋の上へ軽く飛び乗ろうとして、セラフィナに止められた。
「上に乗らないでください」
「乗らない! 横から行く!」
ライカは壁の棚を使って素早く移動し、上段の乾いた袋に手をかける。
「これ、青!」
「左へ!」
アオイが盾の角度を変える。
袋の山が一瞬、左へ流れる。
ミルカの板が滑り台になり、青袋が検査台へ滑った。
農民二人が受け止める。
「破れてない!」
「次!」
今度は黄袋。
湿り跡があるが、内部はまだ確認できていない。
これは右の隔離台へ。
赤袋は動かさない。
下に湿った布を差し込み、周囲を土のうで囲む。
動かせば破れる。
だから、まずその場で閉じる。
澪は調律核を見ながら、袋の反応を読み上げる。
「上段二つ青! 中段右、黄! 下段左、赤! 下段中央、動かさない!」
「分かった!」
「青袋、共同保全区へ! 黄袋、検査待ち! 赤袋、封じ!」
「赤袋、封じ!」
作業者たちが復唱する。
復唱があるだけで、混乱が減る。
セラフィナが作った手順は、こういう時に強い。
崩落は、完全には止まらなかった。
だが、制御された。
袋の山は一気に崩れるのではなく、段階的に受けられた。
最後の赤袋が、湿った布の上にゆっくり沈む。
粉は舞わない。
虫も広がらない。
調律核が青へ変わる。
《下段袋群崩落:制御》
《粉塵拡散:低》
《灰斑虫卵拡散:抑制》
《青域種麦袋:保全》
《黄域検査待ち:継続》
《赤域隔離:成立》
アオイが盾を下ろした。
額に汗がにじんでいる。
「……間に合いましたか」
「間に合った」
澪は頷いた。
「ありがとう」
「はい」
ライカが息を吐く。
「種袋の雪崩、怖すぎる」
ミルカが床を見ながら言う。
「これ、今日気づかなかったら、明日の配布で崩れてたかも」
レイムの顔が青ざめる。
「そのまま三村へ配っていたら……」
「卵ごと広がっていた可能性があります」
澪は言った。
場が静まり返る。
誰もが、その意味を理解した。
共同種倉は、食料を守る場所だった。
けれど、管理が追いつかなくなれば、虫を三村へ配る場所にもなる。
安心の仕組みが、拡散の仕組みに変わる。
その危うさを、全員が見た。
***
昼前には、種倉の一次検査が終わった。
すべてが救えたわけではない。
下段の一部は赤域として隔離。
内部まで虫卵が入った袋は、種用として使えない。
ただし、すぐ燃やさない。
虫泥、外袋、内部の麦を分け、使えるものと使えないものを確認する。
中段の一部は黄域。
袋の外を替え、少量検査を続ける。
上段と奥の乾いた袋の一部は青域として保全。
そして、小部屋の旧作物種子は別管理になった。
調律核が表示する。
《共同種倉一次検査:完了》
《保存白麦種:保全 61%》
《検査待ち:24%》
《種用不可候補:15%》
《灰斑虫卵拡散:抑制》
《旧作物種子:保全》
《食料供給網リスク:微低下》
ティナが数字を見て、胸に手を当てた。
「六割……残った」
レイムは目を閉じた。
「全部駄目かと思った」
上畑の女は、青域の袋を見つめている。
「六割で足りるのか」
誰もすぐには答えられなかった。
足りるかどうかは、作付けの仕方による。
白麦だけを同じように植えるなら、足りないかもしれない。
でも、旧作物を試験区へ入れ、畔草帯を作り、種を分散し、病害虫の拡散を抑えれば、別の形が見えるかもしれない。
澪は、旧作物の壺を見た。
「足りるかどうかを、白麦だけで考えるのは危険です」
「だが、白麦がなければ税が払えない」
レイムが言う。
「そこも問題です」
澪は頷いた。
「作物の問題だけじゃない。税と取引の仕組みも、白麦に寄りすぎています」
その時、倉の外から馬蹄の音が聞こえた。
いや、馬だけではない。
車輪の音。
金属の飾りが揺れる音。
複数の人の声。
村の入口の方から、誰かが叫んだ。
「穀物検査官だ!」
レイムの顔色が変わる。
「今日来る予定ではなかったはずだ」
ティナが不安そうに言う。
「白麦の種配布を確認しに来たんでしょうか」
上畑の女が旧作物の壺を見た。
「まずい。旧種を見られたら、また白麦以外を植えるつもりかと咎められる」
澪は眉をひそめた。
「咎められる?」
レイムが低く答える。
「白麦は納税作物だ。畑を白麦以外に替えすぎると、税が足りないと見なされる」
「でも、白麦だけだと虫で崩れます」
「検査官が、それを聞いてくれるとは限らない」
調律核が新しい表示を出す。
《外部勢力接近》
《王都穀物検査官》
《目的:種麦配布確認/白麦作付面積維持》
《旧作物試験区計画:制度抵触可能性》
《農民不安:再上昇》
ライカが小声で言う。
「虫の次は役人?」
「そうみたい」
澪は思わず額を押さえたくなった。
第四部は、人間関係が濃い。
水と虫だけでも大変なのに、今度は制度が来た。
白麦を守らなければ食料が危ない。
でも、白麦だけでは脆い。
旧作物を使えば多様性は増える。
しかし、税と取引の仕組みがそれを許さないかもしれない。
種倉の中で、旧作物の壺が静かに並んでいる。
乾いた年の石粟。
湿った年の畔豆。
虫の年の苦葉草。
深く根を張る深根麦。
赤莢豆。
それらは、長い間眠っていた。
必要な時を待つように。
けれど、目覚めさせるには、畑だけでは足りない。
人の決まりも変えなければならない。
倉の外で、硬い声が響いた。
「ミレア水守レイム殿。王都穀物局の検査である。共同種倉を開けられよ」
レイムが澪を見る。
澪は静かに息を吸った。
種を守る戦いは、虫との戦いだけでは終わらない。
次は、白麦だけを正しいとする制度との調律だ。
「開けましょう」
澪は言った。
「ただし、見せるものは隠しません。白麦も、虫卵も、旧作物も、全部です」
セラフィナが記録板を開く。
「説明資料を作成します」
「今から?」
「必要です」
ライカが苦笑した。
「役人相手にも必要なんだ」
「たぶん、一番必要です」
澪は旧作物の壺を見た。
白麦だけでは、この地域は守れない。
けれど、白麦を捨てても守れない。
守るべきは、作物そのものではなく、食料を生み続ける仕組みだ。
倉の扉の向こうで、検査官の足音が近づいていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第39話では、共同種倉と、そこに眠っていた旧作物の種を扱いました。
前回のラストで、共同種倉に灰斑虫の卵反応が確認されました。
種麦畑を一晩かけて守っても、その種を汚染された倉に入れてしまえば意味がありません。
今回は、種倉そのものを調べる回でした。
共同種倉は、もともと三つの村の種麦を公平に保管するための場所でした。
しかし、袋を混ぜて積むことで、一つの村だけが良い場所を取ったと争うことを避けていた反面、汚染や湿気も混ざりやすくなっていました。
さらに、床下には湿泥層があり、水が戻ったことで下から湿気が上がり、下段の袋に灰斑虫の卵反応が集中していました。
乾いた年には安全だった構造が、水が戻ったことで危険な構造に変わっていたのです。
澪たちは、倉を一気に開けず、段階的に換気しました。
虫や卵殻を舞わせないように、床の空気を動かさず、上部から湿気を抜く。
袋も一度に運び出さず、床下赤域、下段黄域、中上段青域、奥部未確認域に分けました。
その結果、すべてを捨てるのではなく、外袋が汚染されたもの、内部まで疑いがあるもの、保全できるものを分けることができました。
今回のテーマは、「共同で守るものほど、一つに混ぜすぎてはいけない」です。
共同管理は大切です。
しかし、共同だからといって、すべてを同じ袋、同じ棚、同じ床に預けると、一か所の異常が全体へ広がります。
公平とは、混ぜることだけではありません。
条件をそろえること。
記録を残すこと。
保管場所を分けること。
異常が出ても全体へ広がらないようにすること。
そうした仕組みもまた、公平を支えるものになります。
そして、倉の奥では白麦以外の古い種が見つかりました。
石粟。
畔豆。
霧菜。
苦葉草。
深根麦。
赤莢豆。
それらは、乾いた年、湿った年、虫の年に備えて保存されていた旧作物でした。
この地域は、もともと白麦だけで生きていたわけではありません。
しかし、白麦が税や取引に有利だったため、いつの間にか白麦への依存が強くなっていきました。
旧作物は、すぐにすべてを救う魔法の種ではありません。
発芽率も低く、収量も不明です。
けれど、畔豆や苦葉草には、灰斑虫の広がりを抑える帯として使える可能性があります。
深根麦や石粟は、白麦とは違う条件に耐えるかもしれません。
つまり、白麦を捨てるのではなく、白麦だけにしない道が見え始めました。
ただし、そこには新たな障害があります。
ラストで登場したのは、王都穀物局の検査官です。
彼らは、種麦配布と白麦作付面積の維持を確認するためにやってきました。
白麦は納税作物です。
そのため、旧作物の試験区を増やすことは、制度上の問題になる可能性があります。
虫を止める。
水を分ける。
種を守る。
そこまでは現場の調律でした。
しかし次は、税と制度の調律が必要になります。
次回は、王都穀物検査官と、白麦だけを正しいとする仕組みとの対話へ進みます。
白麦を守るために、白麦だけでは守れないことを、どう説明するのか。
第四部は、畑から制度へ広がっていきます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




