第38話 種麦は、燃やす前に分ける
第38話です。
第37話では、第四部・中流農耕帯編が始まりました。
源流森林の六つの泉を調律し、雲見の母樹の新芽を守ったことで、森の局所臨界は回避されました。
しかし、森の水が戻るということは、下流の川にも変化が起きるということです。
中流農耕帯では、戻り始めた水をめぐって、上畑・中畑・下畑の水利衝突が起きていました。
ミレア分水門では、水門を全開にすれば上畑の水路が崩れ、閉じれば下畑が乾くという状態でした。
澪たちは、仮の分け板と土のう、中央貯水池の導水溝を使い、水を一気に走らせず、分けて歩かせる形で衝突を一時的に抑えます。
しかし、中央貯水池の泥を掘り返したことで、《灰斑虫》が現れました。
乾いた泥の中で眠っていた虫が、水の回復とともに目を覚ましたのです。
さらに、夕暮れの白麦畑で灰斑虫の群れが確認されました。
そこは、来年の作付けを支える《種麦畑》。
ここを失えば、今年だけでなく、次の年の食料供給にも影響します。
今回は、種麦畑と灰斑虫。
燃やせば虫は止まるかもしれない。
けれど、種麦も失われる。
澪たちは、焼く前に、まず分ける方法を探します。
種麦畑は、夕暮れの中で灰色に揺れていた。
風のせいではない。
麦の根元から這い上がる、小さな虫の群れ。
細い脚。
灰色の背。
白麦の葉に取りつくと、そこに薄い斑点が広がる。
最初は小さな点だった。
しかし、点は葉脈に沿って広がり、麦の青さを奪っていく。
神代澪は、畑の縁で足を止めた。
「……これは、見た目からして嫌なやつ」
ライカが耳を伏せる。
「匂いも嫌。乾いた泥と、青い葉が傷んだ匂い」
フィリアは畑へ手をかざし、顔を曇らせた。
「麦が痛がっています。でも、虫も焦っています」
「虫も?」
澪が聞く。
「はい。水が戻ったから、急いで食べ場所を探しています。悪意ではありません。でも、この数では麦が持ちません」
調律核が赤く表示を重ねる。
《灰斑虫群:白麦圃場へ侵入》
《感染初期圃場:種麦畑》
《夜間拡大予測:高》
《推奨対応:感染圃場焼却》
《注意:種麦損失時、翌期作付面積 42% 低下》
「推奨が焼却で、注意が種麦損失って、相変わらず選ばせ方がきつい」
澪は思わず眉を寄せた。
ティナが青ざめた顔で畑を見ている。
「ここを失ったら、来年の白麦が足りません」
レイムも到着していた。
水守である彼は、分水門の泥を落とす暇もないまま駆けつけたらしい。
「種麦畑は、ミレアだけのものではない。上畑、中畑、下畑、三つの村へ分ける種だ」
上畑側の女が叫んだ。
「燃やすしかない! 灰斑虫が広がれば全滅する!」
下畑側の男が怒鳴り返す。
「燃やしたら来年の種がなくなるだろうが!」
「では虫を放っておくのか!」
「お前たち上畑が水を取りすぎたから、虫が出たんだ!」
「下畑の泥を掘り返したからだろう!」
怒鳴り合いが、すぐに始まる。
水の次は虫。
虫の次は責任の押しつけ合い。
中流農耕帯は、想像以上に人の感情が近い。
森や泉では、相手が水や霧や菌糸だった。
ここでは、人間の不安がそのまま前に出てくる。
澪は一度、深く息を吸った。
「燃やしません」
その一言で、周囲が静まった。
上畑側の女が、信じられないという顔をする。
「何を言っているんだ。灰斑虫は燃やさなければ止まらない!」
「燃やせば、この畑の種麦も失われます」
「虫が広がれば、もっと失われる!」
「だから、まず分けます」
「分ける?」
レイムが聞き返した。
澪は調律核の地図を畑の上へ投影した。
白麦畑が、淡い光の線で区分される。
中心部。
水路側。
畑の高い側。
すでに虫が出ている場所。
まだ虫が少ない場所。
葉に斑点が出ている場所。
出ていない場所。
「全部を一つの畑として扱うと、焼くか、放置するかの二択になります」
澪は言った。
「でも、畑の中にも濃淡がある。虫が多い場所。まだ少ない場所。種として残せる可能性がある場所。まず、それを分けます」
ミルカが頷く。
「感染帯、警戒帯、保全帯だね」
「はい」
セラフィナが即座に記録板へ書き込む。
「区分名を設定。赤帯、黄帯、青帯」
ライカが小声で言う。
「分かりやすい」
「必要です」
「もう言うと思った」
澪は畑を指した。
「赤帯は虫が多い場所。ここは麦を種としては使わない。けれど、いきなり燃やさない。虫泥と虫を閉じ込める場所にする」
「虫を閉じ込める?」
ティナが聞く。
「はい。虫を水路へ流さない。畑全体へ散らさない。赤帯の中で、湿った藁と布に誘導して集める」
上畑の女が顔をしかめる。
「そんなことをして何になる」
「焼くにしても、場所を小さくしてからです」
澪は答えた。
「畑全体を焼くより、虫を集めた藁や泥だけを処理する方が失うものが少ない」
レイムが低く唸った。
「黄帯は?」
「警戒帯。葉を調べて、斑点のある株は印をつける。穂が使えるかどうかを分ける。水を強く入れない。虫を流さない」
「青帯は?」
ティナが身を乗り出す。
「種を守る場所です。虫が少ないうちに、種穂を一部だけ先に採って隔離する」
農民たちがざわついた。
「まだ早い!」
「熟しきっていない種もある!」
「早く採ったら弱い種になる!」
澪は頷く。
「全部は採りません。けれど、今ここに残したまま夜を越せば、虫に入られる可能性があります」
セラフィナが記録板を読み上げる。
「種穂の分割保存。第一群、成熟済みの穂。第二群、半成熟だが虫未確認の穂。第三群、畑に残す観察群」
「種麦を三つに分ける?」
ティナが呟いた。
「はい。全部を畑に残さない。全部を倉に入れない。全部を捨てない」
澪は小さく息を吐いた。
第三部で何度も学んだことだ。
全部流すな。
全部閉じるな。
全部一つに預けるな。
水も、霧も、種も、同じだった。
***
作業は、日が沈む前に始まった。
まず、畑の周囲に細い溝を切る。
深く掘りすぎない。
水路へつなげない。
虫を流すための溝ではなく、虫を止めるための浅い境界線だ。
ミルカが鍬の角度を指示する。
「深く掘るな! 水が走る! 浅く、幅広く!」
「溝なのに浅くていいのか!」
農民が叫ぶ。
「止めたいのは水じゃなくて虫と泥! 水を走らせたら逆に広がる!」
「分かった!」
アオイが土のうを運び、畑の低い側を塞ぐ。
「ここへ置きますか」
「もう少し斜め!」
ミルカが叫ぶ。
「水を止め切らない。溜めすぎると根が腐る!」
「はい!」
ルシェリアは風を弱く抑えている。
「灰斑虫は軽くありませんが、乾いた泥は風で飛びます。畑の上へ強い風は流しません」
「匂いは流せる?」
澪が聞く。
「できます。新しい麦の匂いを薄め、湿った藁の匂いを赤帯へ寄せます」
「お願いします」
フィリアは赤帯の前で、ネレイアの水をほんの少しだけ湿った藁に落としていた。
「虫たちは、乾いた葉より、湿った藁の陰へ集まりやすいようです」
「麦より藁?」
「麦の汁も欲しがっています。でも、夜の冷えと湿りを避ける場所も探しています」
「そこを使う」
澪は頷いた。
灰斑虫を全滅させる方法ではない。
だが、今夜の拡散を抑えるには使える。
ライカは畑の縁を走りながら、虫の濃い場所を見つけていく。
「ここ、多い!」
セラフィナが赤い印を立てる。
「赤帯拡張」
「こっちは少ない!」
「黄帯維持」
「こっち、葉がまだきれい!」
「青帯候補」
ティナは青帯へ入り、種穂を見極めていた。
手つきは慎重だった。
まだ若いが、水路見習いとして畑も見てきたのだろう。
「この穂は使えます。こっちはまだ早い。これは斑点あり。これは……迷います」
澪は横に立ち、調律核で虫反応を見る。
「迷うものは第二群へ。完全に安全扱いしない」
「はい」
上畑の女も、しばらくして青帯へ入った。
最初は不満げだったが、穂を見始めると表情が変わる。
「違う。これは残せる。こっちは駄目だ。茎の下に斑点がある」
ティナが驚いたように見る。
「分かるんですか」
「毎日見てるんだ。虫は嫌いだが、麦の顔くらい分かる」
その言葉に、澪は少しだけ安心した。
農民たちは感情的だ。
だが、畑を知らないわけではない。
むしろ、一番見ている。
その知識を争いではなく、分ける作業に使えば、力になる。
「上畑の人、青帯の見極めを手伝ってください」
澪が言うと、女は一瞬だけ目を丸くした。
「私が?」
「はい。麦を一番見ている人が必要です」
女は口を結び、頷いた。
「分かった」
下畑側の男が不満そうに言う。
「上畑のやつだけに種を選ばせるのか」
セラフィナが即座に答えた。
「選別記録は公開します。下畑側からも確認者を出してください」
「俺が見る」
「では、記録します」
「……本当に全部書くんだな」
「必要です」
この一言には、もう誰も逆らわなかった。
記録は面倒だ。
だが、水をめぐる不信がある場所では、記録がなければすぐに争いが戻る。
種麦も同じだ。
誰が選び、どれを残し、どこへ保存し、どの村へ配るか。
曖昧にすれば、必ず揉める。
***
日が沈み、畑は松明の光に照らされた。
だが、火は畑へ近づけない。
焼くための火ではない。
作業のための明かりだ。
セラフィナが光剣を低く浮かせ、畑の境界を照らす。
ルシェリアが煙を上へ逃がし、虫や泥を飛ばさないようにする。
赤帯では、湿った藁束に灰斑虫が集まり始めていた。
ぞわぞわと動く灰色の群れに、ライカが露骨に顔をしかめる。
「うわあ……。これ、見たくないけど、見ないと駄目なやつ」
ミルカも眉をひそめる。
「気持ちは分かる。でも、見えないところで広がるよりまし」
「それはそう」
澪は調律核を確認する。
《灰斑虫誘導:進行》
《赤帯虫密度:上昇》
《黄帯拡散速度:低下》
《青帯侵入リスク:中》
「まだ中か……」
「ゼロにはならないね」
ミルカが言う。
「今日の目標は、夜間拡大を止めること。根絶じゃない」
「分かってる」
分かってはいる。
けれど、種麦畑の中で虫が動いているのを見ると、焦りが出る。
この世界では、一手遅れれば食料が消える。
それも今年だけではない。
来年の種まで。
澪は自分の手が少し震えていることに気づいた。
アオイが横に立つ。
「ミオさん」
「大丈夫」
「まだ何も言っていません」
「顔で分かった」
「では、言います。息をしてください」
澪は一度、深く息を吸った。
「ありがとう」
「はい」
その時、赤帯の外側で騒ぎが起きた。
農民の一人が、松明を持って赤帯へ近づいていた。
「もう我慢できん! ここだけでも焼く!」
レイムが叫ぶ。
「やめろ!」
しかし男は止まらない。
「虫が見えてるんだぞ! 燃やせば終わる!」
「湿った藁に火をつける気か!」
ミルカが怒鳴る。
「煙で虫が飛び散る!」
男は聞いていない。
恐怖に呑まれている。
虫がいる。
麦がやられる。
なら燃やす。
分かりやすい答えに飛びついてしまっている。
男が松明を振り上げた瞬間、アオイが動いた。
盾で殴るのではない。
男と赤帯の間に入り、盾を地面へ立てる。
松明の火が盾に当たり、火花が散った。
「そこをどけ!」
男が叫ぶ。
アオイは静かに答えた。
「どきません」
「虫を守るのか!」
「麦を守っています」
男は言葉を失った。
その隙に、ライカが松明の柄を横から掴み、くるりと回して火を地面の外側へ向ける。
ルシェリアが小さな風で火の粉を上へ逃がす。
セラフィナが光剣で境界を作った。
「火の持ち込みは禁止します。違反記録を行います」
「記録だと!」
男が怒る。
澪は前へ出た。
今度はアオイに止められる前に、境界の外側で止まる。
「燃やしたい気持ちは分かります」
「分かるものか!」
「分かります」
澪は男を見た。
「目の前で虫が動いていたら、今すぐ消したくなる。でも、ここで燃やせば、煙と熱で虫が散ります。湿った藁は完全には燃えません。燃え残った虫泥が水路へ入ります。種麦は熱で傷みます」
男は肩で息をしている。
「じゃあ、何もしないのか」
「しています」
澪は赤帯を指した。
「虫を集めています。種を分けています。水路へ流さないようにしています。今やっていることは、何もしないことじゃありません」
男の視線が、湿った藁に集まる虫へ向く。
そして、青帯で種穂を選ぶ農民たちへ向く。
下畑の男。
上畑の女。
ティナ。
レイム。
全員が泥だらけで作業している。
「……すまない」
松明を持った男は、力なく呟いた。
「怖かったんだ」
澪は小さく頷いた。
「怖い時ほど、分けましょう」
「分ける?」
「燃やすもの。残すもの。様子を見るもの。助けを呼ぶもの。全部同じにしない」
男はしばらく黙っていた。
やがて、松明をセラフィナへ渡した。
「俺は何をすればいい」
セラフィナが即答する。
「黄帯の見張りをお願いします。虫が青帯へ越えたら報告してください。踏み潰さず、印を立ててください」
「……分かった」
恐怖が消えたわけではない。
けれど、役割があれば、人は少しだけ踏みとどまれる。
澪は、それを第三部で何度も見てきた。
***
夜の半ば、作業はようやく形になった。
赤帯の虫は、かなりの数が湿った藁と種袋の布へ集まっている。
それらは畑から離れた隔離穴へ移される。
穴といっても、深く掘りすぎない。
水路へつながらない場所に、粘土で底を固め、虫泥が外へ流れないようにする。
そこで処理する。
すぐに燃やすのではなく、まず閉じ込める。
黄帯では、斑点のある株に印が立てられた。
麦そのものはまだ立っている。
だが、種として使うか、食用へ回すか、処分するかは明日以降の確認になる。
青帯では、成熟済みの種穂が第一群として集められた。
虫の痕跡がないもの。
斑点がないもの。
穂の重さがあるもの。
それらを布袋へ入れる。
ただし、一つの袋には入れない。
上畑用、中畑用、下畑用でも分けない。
まず、保全袋を三つ。
場所を分けて保存する。
「一つにまとめないんですね」
ティナが聞いた。
「はい。もし一つが汚染されても、全部は失わないように」
「種も、六泉みたいに分けるんですね」
「そうかもしれません」
澪は袋を見る。
種麦。
小さな粒の集まり。
でも、それは来年の畑そのものだ。
一袋失うことは、一枚の畑を失うことに近い。
「今まで、種麦はどこに保存していましたか」
レイムが答える。
「共同種倉だ。三つの村の種をまとめて保管している」
「一か所に?」
「乾いた石倉で、虫除けの煙も焚く。昔からそうしてきた」
澪は嫌な予感を覚えた。
一か所。
まとめて。
昔から。
その言葉は、この世界ではだいたい危ない。
「共同種倉も確認した方がいいです」
レイムの顔が強張る。
「まさか、もう虫が?」
「分かりません。でも、種を一つに預けるのは危険です」
セラフィナが記録板へ書き加える。
「種麦保存規約案。分散保存、袋ごとの確認、配布前検査、感染疑い袋の隔離」
上畑の女が小さく言った。
「面倒だな」
澪は答えた。
「面倒です。でも、面倒なことをしなかった結果が、今です」
女は苦笑した。
「言い返せない」
調律核が静かに更新される。
《種麦畑:夜間拡大抑制》
《赤帯虫誘導:成功》
《黄帯監視:継続》
《青帯種穂第一群:保全》
《灰斑虫水路拡散:一時抑制》
《食料供給網リスク:微低下》
「微低下」
ライカが画面を見て言う。
「ちょっとだけ?」
「ちょっとだけ」
澪は頷く。
「でも、ちょっと下がった」
完全解決ではない。
赤帯はまだ虫を抱えている。
黄帯は明日見なければ分からない。
青帯の種も、保存庫で確認する必要がある。
それでも、畑全体を焼くことは避けられた。
種麦の一部は守れた。
それだけでも、大きい。
フィリアが青帯の畑へ手をかざす。
「麦が、少し落ち着きました」
「虫は?」
「まだいます。でも、迷っています。白麦だけに向かう道が、少しだけ変わりました」
「誘導藁が効いてる?」
「はい。それと……」
フィリアは畑の畔を見た。
そこには、農民がいつも刈り取っていたという雑草が、少しだけ残っている。
灰斑虫の一部は、白麦ではなく、その草の根元に集まり始めていた。
「この草にも集まります」
上畑の女が顔をしかめた。
「畔草だ。いつも抜いている。麦の邪魔になるから」
ミルカがしゃがんで確認する。
「根が浅い。土を少し押さえる。虫も一部受けてる。完全な邪魔者ではないかも」
「でも増えすぎれば麦を弱らせる」
レイムが言う。
「なら、全部抜くでも、全部残すでもない」
澪は言った。
「虫留め帯として、畔に少し残す」
ライカが呟く。
「虫用の誘導草場……」
「やっぱり言い方が嫌だね」
「でも分かりやすい」
調律核が新しい候補を表示する。
《畔草帯:灰斑虫一時誘導効果》
《白麦圃場侵入速度:低下候補》
《注意:過繁茂時、白麦生育阻害》
「また、残しすぎても駄目」
澪は苦笑した。
この世界は、本当に極端を許してくれない。
抜きすぎても駄目。
残しすぎても駄目。
燃やしすぎても駄目。
放置しても駄目。
でも、その間に道がある。
見つけるのは大変だが、ある。
***
夜明け前。
種麦畑は、完全には救われていなかった。
赤帯は隔離。
黄帯は監視。
青帯は一部保全。
畔草帯は仮設。
それだけだ。
けれど、畑全体が灰色に沈むことはなかった。
朝の薄い光の中で、白麦の穂が静かに揺れている。
上畑の女は、保全袋の一つを両手で抱えていた。
「燃やさなくてよかったのか」
誰に聞くでもなく、そう呟いた。
レイムが答える。
「まだ分からん」
女は少し笑った。
「正直だな」
「水守だからな。分からないものを分かるとは言えない」
ティナが泥だらけの顔で、少しだけ笑う。
「でも、全部燃やすよりは、残りました」
下畑の男も、袋の数を確認している。
「この種は、上畑だけのものじゃないな」
上畑の女が彼を見る。
「当たり前だ。三つの村の種だ」
「昨日なら、そう言わなかっただろう」
「昨日なら、あんたも信じなかっただろう」
二人はしばらく睨み合い、それから同時に目を逸らした。
仲良くなったわけではない。
だが、同じ袋を見ている。
それだけで、昨日よりはましだった。
セラフィナが記録板を閉じる。
「種麦畑、第一夜の保全作業を完了。次工程、共同種倉確認」
「やっぱり行くんだね」
ライカが言う。
「行きます」
澪は頷いた。
「ここで保全した種を、汚染された倉に入れたら意味がない」
ミルカが肩を回す。
「倉の構造も見ないとね。湿気、床、袋の積み方、虫の入り口」
「また全部」
ライカが苦笑する。
「第四部、地味にやること多すぎ」
「人の暮らしに近いほど、細かいんだと思う」
澪は言った。
「森は大きく壊れていた。でも、畑は毎日の作業で壊れていく」
フィリアが頷く。
「そして、毎日の作業で戻せます」
その言葉は、少し救いだった。
共同種倉は、ミレア村の中央にあった。
石造りの低い倉。
壁は厚い。
入口には古い木の扉。
扉の上には、白麦の穂をかたどった紋章が刻まれている。
レイムが鍵を取り出す。
「ここに、三村分の種麦がある」
澪は調律核を構えた。
「開ける前に確認します」
《共同種倉:外部走査》
《湿度:想定より高》
《床下泥層:反応》
《種麦袋:多数》
《灰斑虫卵反応:微弱》
澪の胸が冷える。
「卵反応……」
レイムの顔色が変わった。
「中にいるのか」
「まだ微弱です。でも、あります」
上畑の女が保全袋を抱きしめる。
「そんな……」
ティナが震える声で言う。
「明朝、ここから各村へ種を配る予定でした」
調律核がさらに表示を重ねる。
《種麦配布予定:明朝》
《配布先:上畑村/中畑村/下畑村》
《現在のまま配布時、灰斑虫卵拡散リスク:高》
《食料供給網リスク:再上昇》
ライカが低く呟く。
「畑だけじゃなかった」
ミルカが扉を睨む。
「倉ごと見る必要があるね」
アオイが盾を構える。
「中に危険がある可能性があります」
ルシェリアが扉の隙間を読む。
「湿った麦と古い煙の匂い。虫除けの煙が、湿気でこもっています」
フィリアは胸に手を当てた。
「種が、眠れずにいます」
澪は、まだ開いていない種倉の扉を見つめた。
種麦畑は、焼かずに一晩を越えた。
けれど、本当に守るべき種は、すでに倉の中で危険にさらされているかもしれない。
畑を分けるだけでは足りない。
保存の仕組みそのものを、変えなければならない。
「開けましょう」
澪は言った。
「でも、一気に開けない。空気も、虫も、種も、いきなり動かさない」
レイムが鍵を差し込む。
木の扉が、ぎしりと音を立てた。
その隙間から、湿った白麦の匂いが流れ出す。
調律核が赤く光った。
《共同種倉内部:灰斑虫卵反応拡大》
《保存種麦袋:汚染疑い》
《緊急確認推奨》
そして、最後に一文。
《注意:種倉内に、旧作物種子反応を検出》
澪は目を細めた。
「旧作物種子?」
白麦だけの倉のはずだった。
しかし、その奥に、別の種が眠っている。
それが希望なのか。
それとも、さらに別の問題なのか。
まだ分からない。
扉の奥は、暗かった。
第四部の本当の種は、まだ倉の中に眠っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第38話では、種麦畑と灰斑虫の問題を扱いました。
前回、ミレア分水門で水利衝突を一時的に抑えた直後、種麦畑に灰斑虫が入り始めました。
種麦は、来年の作付けを支える大切な麦です。
そこを失えば、今年の収穫だけでなく、次の年の食料供給にも影響します。
調律核は、感染圃場の焼却を推奨しました。
けれど澪は、すぐに焼くことを選びませんでした。
燃やせば虫は減るかもしれません。
しかし、種麦も失われます。
煙や泥で虫が散り、水路へ流れる危険もあります。
そこで今回の中心になったのは、「焼く前に分ける」ことでした。
畑を一つの塊として見るのではなく、赤帯、黄帯、青帯に分ける。
赤帯は虫が多い感染帯。
黄帯は監視が必要な警戒帯。
青帯は種穂を守る保全帯。
さらに、青帯の種穂も一つにまとめず、成熟済みの第一群、半成熟だが虫未確認の第二群、畑に残す観察群へ分けました。
種麦をすべて畑に残さない。
すべて倉に入れない。
すべて燃やさない。
水と同じように、種も一つに預けすぎないことが大切になります。
また、灰斑虫に対しても、ただ踏み潰したり燃やしたりするのではなく、湿った藁や布へ誘導して隔離しました。
これは根絶ではありません。
けれど、夜間の拡大を抑え、水路へ虫泥が流れるのを防ぐための応急処置です。
さらに、畔草にも灰斑虫を一時的に受け止める効果がある可能性が示されました。
畔草は、農民たちが普段は邪魔者として抜いていた草です。
もちろん、増えすぎれば白麦の生育を邪魔します。
しかし、すべて抜けば、虫を受ける場所も失われる。
ここでも、全部抜くか、全部残すかではなく、虫留め帯として管理する視点が出てきました。
今回のテーマは、「種を一つに預けない」です。
白麦畑。
種麦。
水路。
貯水池。
共同種倉。
どこか一か所に集中しすぎれば、そこが壊れた時に全部が危うくなります。
これは第四部全体のテーマにもつながります。
中流農耕帯は、白麦への依存が高い地域です。
白麦は効率がよく、保存しやすく、税にもなり、粉にもできます。
けれど、一つの作物に頼りすぎると、一つの虫、一つの病、一つの水利不全で、食料供給全体が揺らぎます。
ラストでは、共同種倉に灰斑虫卵反応が確認されました。
さらに、白麦だけが保存されているはずの倉の奥に、《旧作物種子反応》も検出されます。
種倉の中には、何が眠っているのか。
白麦だけに頼る農耕帯を変える鍵になるのか。
それとも、また別の問題なのか。
次回は、共同種倉と、眠っていた旧作物の種へ進みます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




