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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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54/121

54話:シャルロット・ローゼンベルク入学編

「――まったく、お父様の圧力ったら凄まじかったわ。絶対に学園へ入学して成果を持ち帰れだなんて、言葉の端々にどれほどの脅迫が含まれていたか……」


 ゼノリス王国魔法学園の壮麗な正門をくぐりながら、私――シャルロット・ローゼンベルクは、扇で口元を隠して小さくため息を吐き出した。


 我がローゼンベルク家は、鉱山・魔石資源および兵装基盤を独占する最高峰の貴族階級。その長女である私が入学するとなれば、倍率の跳ね上がりようも尋常ではない。何でも今年度の新入生枠は、各国からの関心も相まって過去例を見ない大激戦だったという。


 門を越えたところで後ろを振り返れば、私をここまで送ってきた豪華な馬車と従者たちが、名残り惜しそうに控えていた。


「ここからはお供の立ち入りは厳禁、か……。まあ、学園の規律なら仕方ありませんわね」


 取り巻く環境が変わろうと、社交界で培った私の立ち回りが鈍ることはない。それに、この学園生活を退屈させないための頼もしい顔ぶれも揃っている。


「シャルロット様! お聞きになりましたか? 今年度の新入生、例年以上に凄まじい倍率だったそうですわ」

 華やかな笑みを浮かべて寄り添ってきたのは、伝統ある伯爵家の令嬢、ソフィア・フォン・ハルトマン。育ちの良さと品格を備えた彼女は、社交の場でも私と話が合う数少ない友人だ。


「ええ、知っているわ。我が家でもその件でひと揉めあったくらいですもの。……あら、リゼット。貴女、そんなところで何を真剣に見つめていらっしゃるの?」


 私が声をかけると、視線の先で立ち止まっていた子爵令嬢のリゼット・フォン・ブライトが、ハッとして振り返った。彼女の実家は薬草学や魔導草の栽培を家業としており、学園の敷地に植えられた植物に目を奪われていたらしい。


「あ、シャルロット様! すみません、庭園の魔導草の育ちが素晴らしくて……。あ、あの、ニーナさんもちゃんとついてきていますか?」


 リゼットが心配そうに振り返ると、少し離れた後ろから、大きな鞄を抱えたニーナ・フォン・バウムが縮こまりながらついてきていた。地方の零細男爵家の娘でありながら、優秀な成績で特待生枠を勝ち取った苦学生の彼女は、私たち豪華な面々の中にいるのがまだ気恥ずかしいらしい。


「は、はいっ! 大丈夫です、リゼット様……! シャルロット様のお召し物が眩しすぎて、直視すると目が潰れそうで少し距離を置いていただけです……!」


「ふふ、相変わらず大袈裟な子ね、ニーナは。いいこと? 私たちの前でそんなに小さくなる必要はありませんわ。貴女のその優秀な頭脳は、学園で大いに私たちの役に立ってもらうのですから」


「は、はいぃっ!」


 ソフィアの華やぐ淑女の微笑み、リゼットのマニアックな知識、そしてニーナの真面目な学習能力。

 この3人を従え、最高位の公爵令嬢として学園の頂点に君臨する――それが私の描いていた、完璧なキャンパスライフの第一歩だった。


 ……この時までは。


 ◇


「――では、新入生代表挨拶および生徒会の紹介に移る」


 講堂で行われた入学式。

 壇上に上がったのは、仕立てのいい制服を着た一人の少年だった。


 年齢は私たちと同い年。どこか浮世離れした静けさを纏い、最前列に並ぶ名門貴族たちの視線を浴びても、微動だにしない圧倒的な冷徹さと合理性を漂わせている。


「あの方……どこの大貴族のお方かしら? ヴァルグレイヴ家? それともベルンハルト家?」

 ソフィアが小さく囁く。


「……いえ、聞き覚えがありませんわ。ですが、あの立ち振る舞い、只者ではありません」

 私も扇を強く握りしめ、壇上の少年――アレンを凝視した。


 彼こそが、多忙を極める生徒会を統括し、学園運営の重責を一身に背負う「完璧なる優等生」として噂される人物。


 しかし、私がこの時まだ知る由もなかった。

 彼が学園の真の創設者であり、生徒会室という最高級の個室を占拠しては自作の小説を読んで一人でにやけているだけの男だということも。


 そして、私が実家の鉱山・魔石技術という「誇り」を引っ提げて彼に接近した結果、彼の規格外すぎる魔理と化学的アプローチによって、私の常識が木っ端微塵に打ち砕かれる未来が待っていることも――。


「シャルロット・ローゼンベルク。この学園でも、私が一番でなくては気が済みませんわ」


 私は口元に優雅で強気な笑みを浮かべ、壇上の「隠れた絶対者」を見つめていた。


【学園学食の日常】

 クラス分けが発表され、私――シャルロットとニーナはAクラス、ソフィアとリゼットはBクラスとなった。


 クラスこそ離れてしまったものの、授業以外の時間や放課後は、自然といつもの4人で集まって過ごしている。


 そして、やってきた昼食の時間。


 私たちは学園が誇る広大な大食堂へと足を運んでいた。


「――見てちょうだい、今日のメニューもなかなかの充実ぶりですわね」


 この学園の学食は少々特殊だ。毎日日替わりで異なるメニューが提供され、その月ごとの献立表が事前に発表される仕組みになっている。噂によれば、これは姿を現さない例の理事長様の強い拘りらしく、『学生の健やかな成長と探究心のため、学食のメニューは毎日異なるべきである』という理念のもと運営されているのだとか。


(ふぅ……調理師の方々の苦労を思うと、少々大変すぎやしませんかしら?)


 メニューは毎日のセットメニュー(Aセット・Bセット・Cセット)に加え、単品メニューが3種類、さらに日替わりのデザートまで自由に選べる仕様になっている。


 支払いは学園の受講証を通す形の後払いで、月締めで各実家へ一括請求される仕組みだ。そのため、実家の財力に物言わせる貴族の生徒たちが金額を気にする必要は基本的にない。


「あ、あの……シャルロット様。私、Cセットのパンとスープだけにしようかと思います……。実家に請求がいった時、お父様の顔が青ざめそうで……っ」


「ニーナ、何を言っているの。特待生である貴女の食事代くらい、学園の奨学金枠でちゃんと控除されますわ。しっかり栄養を摂りなさいな」


「ひぇっ、本当ですか……!? よ、よかったぁ……」


 おどおどとトレーを持つニーナをなだめつつ、ソフィアとリゼットも合流して料理を選び終える。


 学食の内部は圧倒されるほど広い。6人掛けの立派な木製テーブルが整然と並び、端から端までは100メートル近くありそうな大空間だ。昼時ともなれば数百人の生徒でごった返している。


「シャルロット様、あちらの席が空いていますわ」


 ソフィアが差し示した中央寄りのテーブルへ向かおうとした時――ふと、私の視線が食堂の『端』にとまった。


 喧騒から離れた窓際の静かな席。

 そこに、ポツンと一人で座っている生徒がいた。


 ――あの、新入生代表のアレン。


 仕立ての良い制服を綺麗に着こなし、端正な顔立ちを崩さず、静かにスープを口へ運んでいる。周囲の生徒たちは彼の漂わせる圧倒的な近寄りがたさに気圧されているのか、一定の距離を保って誰一人近寄ろうとしない。


「……あの方、いつも一人でお食事をとっていらっしゃるの?」


 私が小さく呟くと、Bクラスの事情に通じているリゼットが小声で教えてくれた。


「ええ。Bクラスでも噂になっていますわ。講義が終わるとすぐに姿を消してしまって、誰とも交流を持たないのだとか。休み時間もずーっと難解な手記を読み込んでいるそうです」


「友達がいらっしゃらないのかしら……? あんなに端正なお顔立ちで、生徒会業務も完璧にこなしていらっしゃるのに」


 ソフィアも不思議そうに首をかしげる。


(多忙を極める生徒会の重責を背負い、一人静かに孤独に耐えながら食事をとる優等生……)


 私の目に映る彼は、まさに学園の影の功労者であり、孤高の天才そのものだった。


 まさか彼が、「一人で静かに自著(『小説の先の世界』)の展開について思いを巡らせながら、優雅に学食のBセットを楽しんでいるだけ」だとは、この時の私は知る由もなかったのだ。


「……少し、気になりますわね」


 私は扇の端で唇を隠しながら、遠くの席でポツンと一人、完璧な作法でパンをかじる彼の姿を、じっと見つめてしまうのだった。


【孤高の追跡劇と重なる謎】

 学園の西棟に位置する巨大図書館。吹き抜けの天井からは静かな陽光が差し込み、重厚な革装丁の書物が数千冊も並ぶその空間は、豊かな知の静寂に包まれていた。


 その静けさを破らぬよう、私――シャルロット・ローゼンベルクは、巨大な本棚の影に身を潜め、呼吸すら殺してアレンの姿を注視していた。


(……見つけましたわ)


 書棚の隙間から覗く視線の先。陽光が降り注ぐ窓際に、一人の青年がポツンと佇んでいた。新入生代表、アレン・ノア。


 彼は静かに背の高い本棚から一冊の分厚い古書――羊皮紙が黄ばんだ、解読の難しそうな羊皮紙本を手に取ると、すっと指先を走らせた。

 指先一つ、視線の移動一つをとっても、一切の無駄がない。優雅でありながら洗練されたその所作は、まるで美しい舞踏を見ているかのようだ。


(な、なんて絵になるお方……! あれほど分厚く難解そうな書物を、流れるような速度で読み解いておられるなんて……!)


 私は胸の前で強く両手を組み、感嘆の息を呑んだ。


(きっとあのお方は、学園の重責を支えるため、古代の膨大な魔導理論や結界の維持構造について思考を巡らせていらっしゃるのだわ。一学生の身でありながら、世界の真理と向き合う孤高の天才……! ああ、なんという志の高さ……!)


 私が一人で感動のあまり目頭を熱くさせていた、まさにその時。


 当のアレンは、本を流し読みしながら、心底退屈そうに思考を巡らせていた。


(……ふむ。どれもこれも、知っている自然科学や知識の記述を、わざわざ回りくどい表現に言い換えているだけの本ばかりだな。目新しい発見が何一つない)


 アレンにとっては、眼前の難解な記述もすでに理解の及ぶ範囲であり、真新しさは感じられなかった。


(特に興味を引くような珍しい書籍はないか……。もっとこう、娯楽性の高い物語本か、未知の魔石の性質について書かれた変な奇書でもあれば良かったのだが。……まあ、暇つぶしの立ち読みとしてはこんなものか)


 期待していたような収穫が得られなかったのか、アレンは微かに息を吐くと、パタリと無造作に本を閉じた。そして、その所作だけは優雅なまま本棚へ戻すと、未練の一片もなく、静かな足取りで図書館を後にするのだった。


(……お、追いかけますわよ……! あの方の背負う重責の真実を、この目で確かめるまでは……!)


 アレンの落胆の理由が「面白い本がなかっただけ」とは知らず、私は勝手な使命感と崇拝の念をさらに燃え上がらせ、そーっと彼の後を追うのだった。


 ◇


 図書館を後にしたアレンが次に向かったのは、学園の中央に位置する最上級の個室――生徒会室だった。


 気配を消して後を追ってきた私――シャルロットは、重厚な扉の少し開いた隙間から、そっと中の様子を覗き込んだ。


 アレンは立派な執務机に向かって腰を下ろすと、真剣な表情で一冊の分厚い手帳を開いていた。その眼差しはどこまでも冷徹で深く、時折、満足げに口元を微かに緩めている。


(あのお顔……! きっと学園の膨大な予算運用や、複雑な組織運営の計画を完璧に組み立てていらっしゃるのだわ。一学生でありながら、これほどの重責を笑顔すら浮かべてこなしてしまうなんて……!)


 私が一人で胸を熱くし、彼の圧倒的な手腕に感動していたその頃。


 当のアレンの脳内は、至って平和で個人的な満足感に満ちていた。


(……ふむ。我ながら、俺の書いた小説はなかなかに面白いな。主人公の覚醒の瞬間と、散りばめた謎が綺麗に繋がる展開が完璧だ。ふふ……次はどうやって話を動かそうか)


 彼はただ、誰にも邪魔されない最高のプライベート空間で、自作の物語『小説の先の世界』の出来栄えに一人悦に入っていただけだった。


 やがて、夕刻の訪れを告げる鐘の音が、学園全体に響き渡った。


 下校の時間が来たのだ。


 アレンは満足そうに手帳を閉じると、机の上を綺麗に整え、静かに立ち上がった。


(さあ、今日の作業はここまでにして、そろそろ帰るとするか)


 彼が生徒会室を後にする気配を感じ、私は慌てて廊下の陰へと身を潜めたのだった。


 ◇


 生徒会室を出たアレンは、そのまま迷いのない足取りで学園の正門を潜り、夕暮れ時の王都の街並みへと向かって歩き出した。


(ふふ、ここからが本番ですわ。あの方の自宅が分かれば、その謎に包まれた身分や素性が判明するかもしれない……!)


 私――シャルロット・ローゼンベルクは、建物の陰や街頭の人波に紛れながら、息を殺してそーっと彼の後を追跡した。


 大通りをしばらく進み、やがて彼が曲がり角を折れて辿り着いたのは、少し路地に入った場所に佇む一軒の建物の前だった。


 看板には素朴な文字で宿の名が刻まれている。外観は年季が入っており、お世辞にも豪華とは言えない。どころか、王都の基準で見れば「安宿」と言った方が早い建物だ。


 アレンは何の躊躇もなく、その宿屋の扉を開けて中へと入っていった。


(ま、まさか……あのような圧倒的な気品を持つお方が、ここに住んでいるなんて……!?)


 物陰からその光景を目撃した私は、驚きのあまり扇を握りしめたまま固まった。


(い、いえ、違いますわね! きっと何らかの極秘調査か、訳ありの知人に会いに来られただけに違いありませんわ……! そうに決まっていますわ!)


 自分に言い聞かせるように首を横に振る私をよそに、アレンがなぜその安宿に向かったのか――その理由は至ってシンプルだった。


(ふぅ、今日も無事に終わったな。さて、部屋に戻って足を伸ばすとしよう。ここは静かで賃料も手頃だし、一人の時間を過ごすには実に居心地が良い宿だ)


 アレンの本当の住処がその安宿であることなど知る由もない私は、彼が再び出てくるのを待ちながら、必死に頭の中で「孤高の優等生」としての彼のイメージを保とうとしていた。


 ◇


 安宿の前で思考を巡らせていた私であったが、やがて宿を出てきたアレンは、王都の最旬エリアへと足を進めていった。


 次に彼が訪れたのは、何と世界的規模の大企業『株式会社バルツァー・ラボ』の本社ビルであった。


(な、なんですって……!? なぜ、あのバルツァー・ラボへ……!?)


 私は建物の物陰から、その壮大な外観を見上げて絶句した。

 世界の王侯貴族や各大国の中枢すらもが、革新的な技術と資材を求めてかの企業に縋り付いている状態なのだ。どれほど高貴な血筋であっても面会のアポイントを取ることすら極めて困難だと聞く。

 普通の方はもちろん、名門貴族ですらそう簡単に面会させてもらえない。とりわけ現場を指揮する総括責任者は、王族ですらおいそれと面会できず、その素性すら噂の域を出ないほどの神秘のヴェールに包まれているはずなのだ。


(あ、あの方がなぜ、あの場所に……? まさか、何か特別なお買い物でもなさるのかしら……?)


 私が混乱と動揺で頭を痛めていた、その時だった。


 正面玄関の重厚な扉が開き、アレンが静かに出てきた。

 知識と威厳を纏った彼のすぐ後ろから出てきた人物の姿を目にした瞬間、私は呼吸を忘れた。


 この巨大企業を率いる最高経営責任者――あのCEO本人が、恐縮したような、至極丁寧な態度でアレンに頭を下げて送り出していたのだ。


(ど、どういうことですの……!?!?)


 王族すら一見でお断りされるような企業のトップが、まるで最上級の主君を送り出すかのように、深く恭しく腰を折っている。


 私の頭の中で、常識の枠組みがガラガラと崩れ落ちていく。


(あ、あのお方は……ただの生徒会筆頭でも、一学生でもない……? あのバルツァー・ラボの最高幹部……いえ、それ以上の『絶対的な存在』だとおっしゃるのですか……!?)


 私――シャルロットの困惑と誤読は、もはやとどまる所を知らない領域へと達していた。


 当のアレンが「ラボのCEOに今月の収支報告と新商品の売り上げデータを受け取りに行き、『今月も順調だな。ご苦労』と声をかけて帰ってきただけ」であることなど、今の私には知る由もなかったのだ。


 ◇


 バルツァー・ラボの最高経営責任者(CEO)から恐縮した様子で送り出されたアレン。私の混乱が最高潮に達する中、彼の手に『何か』が手渡されるのが見えた。


 ラボの重厚な門をくぐり抜けたアレンは、手渡された包みを無造作に開くと――なんと、そこに入っていた香ばしい「串肉」を、実に美味しそうに頬張り始めたのだ。


(あ、あら……? 意外と庶民的なのかしら……?……って、違いますわ! なぜあの世界一の大企業で串肉!? そもそも、あのような超一流企業で串肉が手渡されるなんて、どういうことですの……!?)


 世界の頂点に君臨する企業のトップから、まるでお土産のように串肉を受け取り、それを堂々と街頭で頬張るアレンの姿。私の頭の中は「庶民的」という親近感と「意味がわからない」という困惑でグチャグチャになっていた。


 一方、当のアレンは、ジューシーな肉汁を口いっぱいに広げながら心底満足そうに頷いていた。


(……ふむ、やはりいつ食べても肉は最高だな。あの店は夕方になると売り切れることが多いからな。CEOに頼んで事前に買い置きしてもらっていて正解だった。忙しい時に個人的な用事を言いつけて悪いな、CEO)


 アレンの思考は「ただ大好きな名物の串肉を確実に食べるために、CEOに買い出しを頼んでおいた」という、どこまでもマイペースなものであった。


 何も知らない私――シャルロットは、夕暮れ時の街頭で串肉を頬張る「謎の絶対者」の威容に気圧されながら、ただただ呆然と扇を握りしめ続けるしかなかった。


 ◇


 串肉を美味そうに頬張るアレンの姿に、私――シャルロットが困惑を深めていた、まさにその時。


 人混みをかき分けるようにして、一人の女性が歩み寄ってきた。

 目を奪われるような輝く金髪と、神々しさすら感じさせる浮世離れした美貌を持つ女性だ。彼女は迷いのない足取りでアレンに近づくと、親しげに寄り添い、何事かを小声で話しかけ始めた。


(あ、あの美しすぎる女性は一体……!?)


 私が物陰から息を殺して注視していると、女性――エルエルは、周囲を伺うようにしながら、通りすがりの人に聞こえないよう身を寄せ、アレンに囁きかけた。


「ねえアレン……給料、少しだけでいいから前借りできないかしら……? お願いだから……」


「却下だ。先週前借りした分すらまだ働いていないだろう。計画性というものを覚えろ」


「もう無理だよぉ……! これじゃ今月越せないのよー!」


 にべもなく断るアレンに対し、エルエルは涙目になりながら彼の羽織の袖をガシッと掴み、駄目押しするように必死にせがみ続けた。


 物陰からその光景を目撃した私は、口元を扇で覆ったまま、あまりの衝撃に目を見開いた。


(え、恋人なの……!? あんなに気品あふれる美しい女性と、そこまで親密な間柄……!?)


 だが、二人のやり取りを頭の中で反芻するうちに、私の思考はさらなる混乱の渦へと叩き落とされた。


(……待ってかしら。あんなに必死にすがりつく女性を、あそこまで冷たく突っぱねるだなんて……一体どういうことですの……!? 別れ話をなさっているのですの……!?)


 世界の頂点に立つような大企業の伝手がありながら、美貌の女性にすがりつかれながらも、一歩も引かずに冷たい態度を貫いている。


 二人の間に漂う異様な緊張感と関係性に、私の常識と推測は完全に許容量を超えて打ち砕かれていた。


 当のアレンが「ただの浪費家な専属派遣社員(女神)の無謀なおねだりを、ラボの厳格な経理規程に基づいて冷たく却下しているだけ」であることなど、今の私には到底思い至るはずもなかったのだ。


 ◇


 やがて、美貌の女性(エルエル)の必死のすがりつきを淡々とあしらいきったアレンは、そのまま一人で歩き出した。


 彼は賑やかな大通りを抜け、夕闇の迫る街を当てもなく練り歩いていく。そして辿り着いたのは、王都の中でも日差しが届かず、薄暗く湿り気のある、明らかに治安が良くない路地裏だった。


(な、なぜこのような危険な区画へ……!? 一体ここで何を行おうとしていらっしゃるのですの……!?)


 私――シャルロットは、壁の影や立ち並ぶ木箱の後ろに身を隠しながら、息を殺してそーっと後を追う。


 入り組んだ暗い路地を曲がり、慎重に角から覗き込んだ――その瞬間。


(……え? 消えた……!?)


 不自然なほどすっぱりと、アレンの姿が視界から掻き消えていた。

 行き止まりの路地裏には誰もいない。焦った私を一歩前へ踏み出させ、周囲を見回そうとしたその時だった。


「――シャル嬢、ここはお嬢さんが一人で来ていい場所じゃないよ」


「っ……!?」


 耳元で響いた静かで低い声に、私は悲鳴を上げそうになりながら跳び上がって振り返った。


 いつの間に回り込まれたのか、私のすぐ真後ろにアレンが立っていたのだ。一切の動揺を見せない冷徹な瞳で、彼は私を静かに見下ろしていた。


(あ、追跡が……完全に破られていましたの……!?)


 あまりの気配の遮断と移動の完璧さに、私の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。


 ◇


「……こんな治安の悪い場所に一人で来たら、危ないよ。物騒な奴らに目をつけられたら大変だ。大通りまで送るから、今日はおとなしく家に帰りなさい」


 アレンは静かにそう言い放つと、何事もなかったかのように身を翻し、暗い路地から抜ける道へと歩き出した。


「あ……あのご親切に、ありがとうございます……」


 声を詰まらせながら、私は彼の少し後ろを小さくなってついていくことしかできなかった。大通りに出ると、彼は「じゃあ」と一言だけ残し、人混みのなかへとあっさりと消えていってしまった。


 ――夕暮れ時の大通りに取り残された私、シャルロット・ローゼンベルクは、ぽかんと佇んだまま、遠ざかる群衆を見つめていた。


(一体……あのお方は、どんなお方なのですの……?)


 学園の重責を背負い、一人静かに孤独に耐える完璧な優等生。

 安宿に暮らし、屋台の肉を愛好する庶民的な青年。

 世界の頂点に立つバルツァー・ラボの最高責任者から、敬意を捧げられる存在。

 そして、絶世の美女からすがりつかれても、一切の情を見せずに突っぱねる謎の男――。


 知れば知るほど、調べようとすればするほど、彼という人間の実態は混沌の闇へと消えていく。


(私には……何一つわかりませんわ……)


 自分の誇りも、社交界で培った洞察力も何ひとつ通用しない。

 私は深くため息をつき、迎えの馬車を呼ぶために、茫然とした足取りで歩き出すのだった。


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