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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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47話:皇王国からの旅立ちと、魔法帝国アルカディア

 聖都の医療システムが『バルツァー式聖教典』によって完全に標準化され、平和を取り戻した『株式会社バルツァー・ラボ皇王国支店4号』。


 カウンターの奥で本を読んでいたアレンは、区切りの良いページでパタンと文庫本を閉じると、静かに立ち上がった。


「さて、皇王国の視察はこれで終了だ。そろそろ行くぞ」


 その一言に、棚を掃除していた店長(第一王子)と、お茶を淹れようとしていた副店長(女聖騎士)の手がピタリと止まった。


「あ、アレンさん……!? 行ってしまうのですか……!?」


「アレン様! 4号店は……4号店はどうなるのですか!?」


 ショックで顔を蒼白にする二人に対し、アレンは至って平然とエプロンを畳んでカウンターに置いた。


「どうもこうもない。この4号店はお前たちに任せる。店長、副店長、明日からも今まで通り適当に営業しておけ。売上と特許利用料の管理は本社に自動送信されるようになってるから、変な不正さえしなければ好きにやっていい」


「「……私たちが、4号店を……!?」」


 アレンにとっては「拠点の一つを現地スタッフに管理委託する」というだけの話だった。だが、二人の受け取り方は違っていた。


(神が……私にこの『真なる神殿』の管理を託してくださった……!)


(あのお方の深遠なる聖域を守る……それが、私に与えられた新たなる聖命……!)


「はい……! 承知いたしましたアレンさん! 私の命に代えても、この4号店と『バルツァー式聖教典』の教えを守り抜いてみせます!」


「私も店長の護衛として、そして副店長として、死力を尽くしてこの店舗を維持いたします!」


 目をうるませながら固い決意を交わし合う二人を前に、アレンは「ただの店番に命を懸けるな」と呆れつつ、影の領域から旅の荷物を取り出した。


「これからは魔法帝国アルカディアを経由して、ゼノリス国へ帰還する。じゃあな」


「「いってらっしゃいませ、アレン様……! お気をつけて!!」」


 数日後。

 アレンは快適すぎる街道をのんびりと歩き、皇王国と隣接する世界最高の魔導大国――『魔法帝国アルカディア』の国境検問所へと到達していた。


 空を飛び交う大型魔導船、街の至る所に配置された立体魔導陣、複雑に交錯する魔力ライン。

 皇王国が「神聖魔法と信仰」の国だったのに対し、アルカディアは「極限まで発達した魔導技術」を誇る文明国家だ。


 アレンが検問所に近づくと――そこには異様な光景が広がっていた。


 通常なら長蛇の列ができるはずの国境ゲートがすべて封鎖され、中央の特設貴賓レーンだけが静まり返っている。

 そして、その両脇には、豪華な礼装に身を包んだ帝国の高位魔導騎士団と、検問所の最高責任者が、滝のような冷や汗を流しながら直立不動で並んでいた。


(……来た! 帝国中枢を恐怖のどん底に陥れ、我が国の経済圏を完全に掌握された『バルツァー・ラボ』の総帥……アレン様がお戻りになられた……!!)


 検問所の最高責任者は、膝の震えを必死で抑えながら、遠くから歩いてくるアレンの姿を認めた瞬間に、腹の底から叫んだ。


「全軍――ッ!! 最高敬礼でお迎えせよぉぉっ!!」


 ガチャンッ!!と甲冑の擦れる重厚な音が響き渡り、数百人の魔導騎士が一斉に右拳を胸に当て、地べたに頭が届かんばかりの深々と頭を下げた。


「ア、アレン様……! アルカディア帝国国境検問所へようこそお戻りになられました! 貴賓用特設ゲートおよび全関門の通行許可、事前にすべて完了しております! 審査等の無駄な手続きは一切ございません!」


 責任者は、震える両手で最高位の『全関紋章フリーパス』を差し出し、冷や汗を拭いながら恭しく頭を下げ続けた。

 かつてアレンが宰相に送った「最低限の社交には工数を割く」という手紙を「いつでも帝国のインフラを麻痺させるという無言の脅し」と誤読して以来、帝国中枢から全関門へ「アレン様のお手を1秒でも煩わせたら即座に首が飛ぶと思え」と厳命が下されていたのだった。


 アレンは小脇に文庫本を抱えたまま、特に驚く様子もなく淡々と提示された貴賓レーンを通過していった。


(ふむ……無駄な検問の待ち時間がゼロか。CEOの手配と以前送った挨拶状の連絡手順がしっかり機能しているな。実に合理的だ)


 アレンにとっては「無駄なロスタイムがない素晴らしい手筈」としか思っていなかった。


「では、通り抜けるぞ」


「ははぁぁっ!! どうか快適な旅路となりますよう、帝国全土の魔導網を挙げてバックアップいたします!!」


 直立不動で拝み倒す魔導騎士たちの脇を通り抜け、アレンは悠々とアルカディア帝国の街並みへと足を踏み入れた。


 かつて本拠地として立ち上げ、今や時価総額4兆円超の巨大プラントへと成長したアルカディア第4倉庫(バルツァー・ラボ本社)。

 そしてその先にある故郷、ゼノリス国への帰還路。


 世界の裏側を書き換え続けるアレンの旅は、穏やかに、事故なく、そして帝国側の過剰な恐怖と敬意に包まれながら続いていくのだった。


【アレンの『スイート』と、帝国の誤読】


 国境検問所をゼロ秒でフリーパスし、魔法帝国アルカディアの都市へと足を踏み入れたアレン。

 彼を出迎えたのは、帝国中枢から派遣された特別接遇官と、金糸の刺繍が施された最高級の魔導馬車だった。


「アレン様! 帝国へのご帰還、心より歓迎申し上げます! ご滞在先につきましては、アレン様からの事前のご要望通り『最高のスイート』をご用意いたしました!」


 接遇官はもみ手をしながら、うやうやしく頭を下げた。


 案内されたのは、帝都市街の中心にそびえ立つ七つ星の超高級魔導ホテル『グランド・アルカディア』。その最上階をまるごと占有する、一泊だけで大金貨数十枚(数千万円)が吹き飛ぶ最高峰の『インペリアル・グランド・スイート』であった。


 自動で温度と湿度が管理され、足元には高級な魔獣の毛皮が敷き詰められ、部屋の隅々には金箔と宝飾が施された調度品が立ち並んでいる。


 だが――足を踏み入れたアレンは、入り口でピタリと足を止めると、心底うんざりした顔で深く溜め息をついた。


「……なんだこの部屋は」


「は、はいっ!? 当ホテルが誇る最高峰のスイートルームでございますが……!」


「天井が無駄に高すぎて熱効率が最悪だ。移動の邪魔になる位置に無意味な調度品が配置されていて歩く時の邪魔になっているし、何より過剰な飾りの光芒のチラつきが多すぎて静かに本が読めん。キャンセルしろ」


「え、えええぇぇっ!?」


 接遇官が目玉を飛び出させて絶叫するのを横目に、アレンは返された荷物を小脇に抱えると、迷いのない足取りでホテルを後にした。


「あ、アレン様!? お待ちください! では、アレン様のおっしゃる『スイート』とは一体……!?」


「自分で探す。ついてくるな」


 アレンが向かったのは、華やかな中央通りから何本も路地を折れた、裏通りの最も奥まった区画だった。


 そこに佇んでいたのは、看板の文字すら掠れかけた築数十年はあろうかという古びた安宿『路地裏の木かげ亭』。


 ギシギシと音を立てる扉を開け、番台で欠伸をしていた老店主の前に、アレンは大銅貨7枚(約7,000円)をポンと置いた。


「角部屋をくれ」


「はいよ。二階の一番奥、204号室だ。鍵とランプを持っていきな」


 アレンは鍵を受け取ると、ギシギシと軋む階段を上り、廊下の最奥にある204号室の扉を開けた。


 四畳半ほどの狭い室内。壁紙はところどころ剥がれ、部屋の隅からは微かにカビと湿気の匂いが漂っている。だが、その部屋の二面には、外に面した小さな窓がそれぞれ設置されていた。


 アレンは窓を少しだけ開けると、スーッと室内に通り抜ける風を感じ、満足そうに口元を緩めた。


「よし。二方向に窓があることで排気と通気が完結する完全な対角換気構造……これぞ正真正銘の『スイート』だ」


 アレンの言う『スイート』とは、豪華な調度品や広い客室のことではない。

「ギルドや会社の経費の範囲内であり、二面採光によって空気循環の仕組みが成立している安宿の角部屋」のことだったのだ。


 カビ臭さや湿気に関しても、アレンにとっては周囲の魔力の規定範囲内に過ぎない。文庫本を広げ、安物のベッドに腰掛けたアレンは、実に心地よさそうにページをめくり始めた。


「無駄な広さも装飾もない。費用の無駄遣いも最小限だ。やはり旅の拠点はこうでなくてはな」


 一方その頃。

 安宿の周囲を気配を殺して取り囲んでいた帝国の接遇官と暗部たちは、建物の影で滝のような冷や汗を流しながら、がたがたと震えていた。


(……な、なぁ、見たか……!?)


 接遇官は蒼白な顔で隣の暗部頭の服を掴んだ。


(時価総額4兆円超を誇るバルツァー・ラボの総帥……世界の富と理を統べ給うアレン様が……一泊大銅貨7枚(約7,000円)のカビ臭い安宿を選ばれたぞ……!?)


(おお……! おお、なんということだ……!!)


 暗部頭は溢れ出る涙を拭いもせず、安宿の204号室を見上げて震える声で呟いた。


(豪華絢爛な最高級スイートを『無駄』と一蹴され、あのような質素極まりない密室に身を置かれるとは……! あのお方は富や欲などという次元を完全に超えておられるのだ……!)


(それだけではない! あのカビ臭く湿気た部屋は……世界の理の乱れを誰にも知られずに修正するための、隠された『神の極密作戦室』に違いない……!!)


(そうだ……! あのような場所でなければ、世界の理を書き換えるほどの密作業は行えぬ! 我らが用意した豪華な部屋など、あのお方の深遠なるご思慮の前にはただの邪魔でしかなかったのだ……!!)


 帝国中枢の人間たちは、アレンの「単なるドケチかつ極端な合理主義」をまたしても壮大に勘違いし、その圧倒的な禁欲と深遠なる美学に感涙を極めていた。


「全暗部に命じる! アレン様が集中できるよう、半径数百メートルの足音と雑音を一切遮断せよ! 蚊一匹通すな!!」


「「「ははぁっ!!」」」


「……なんだか外が異様に静かだな。帝国の防音設備は優秀なのか?」


 静まり返った安宿の角部屋で、アレンはカビの匂いをうっすらと感じつつ、心置きなく読書に没頭するのだった。


【第四倉庫の素通りと、歪みのリスト】


 レムリア法皇国での一連の仕事と、面倒な調合マニュアルの整理を終えたアレンは、拠点であるアルカディア魔法帝国内の第四倉庫へと戻っていた。


 帝都の喧騒をすり抜け、彼が向かったのは裏通りに佇む安宿ではなく、帝国の広大な敷地の一角を占める巨大な倉庫だった。帝国中枢からは最高級の部屋を用意されかけたものの、無駄に居心地が悪いうえに無駄銭を使いそうな雰囲気を嫌って一蹴し、実務的な物資が集まるこの倉庫へ直接足を運んだのだった。


 しかし、倉庫の敷地内に足を踏み入れたアレンの視界に飛び込んできたのは、整然とした日常とはかけ離れた、極めて泥臭い労働風景だった。


 入り口付近の荷捌き場では、見覚えのある金髪の少女――神界の管理官から日雇いの下働きへと落とされたエルエルが、額に汗を滲ませながら重い荷物の入った木箱を必死に抱えて往復していた。その傍らでは、同じく過酷な労働にやつれたルカが、虚ろな目で手押し車の車輪を回している。


(……相変わらずあちこちでアルバイトに精を出しているようだが、関わるとろくなことになりそうにない)


 アレンは彼女たちの働く姿を視界の端で捉えると、何食わぬ顔で足早に倉庫の奥へと通り過ぎていった。


 迷路のような資材棚の通路を抜けて奥の執務スペースへ到着すると、そこでは待ち構えていたかのように、息を切らせたエルエルが先回りして待ち受けていた。先ほどまでの荷物運びを終えていつの間にか先回りしていたらしい彼女は、疲労の色を濃く滲ませた顔で、手元にまとめていた羊皮紙の束をアレンの胸元へ突き出すように荒々しく差し出した。


「……ボス、遅かったわね。帝国中を我が物顔で闊歩している間に、こっちはこっちで『世界の歪み』の全データ収集に奔走させられてたのよ!……ほら、これが帝国領内で発生している空間異常箇所のリストよ」


 差し出された羊皮紙を受け取り、アレンは静かに目を通していく。そこには、アルカディア魔法帝国領内において、世界の理に致命的なほころびをもたらしている五箇所の特異点座標が緻密に記されていた。


 1.帝国の商業区外れにある古い路地裏

 詳細: 異空間の物理理論矛盾の縫い目にほころびが生じ、周囲の環境に二次的な負荷を及ぼしている空間の歪み。


 2.帝国南部の古い石造りの水路付近

 詳細: 魔導インフラの密集地帯において、座標データのエラーにより局所的な空間のねじれの渦が生じている場所。


 3.古い職人街の片隅

 詳細: 老朽化した魔術回路の干渉を受け、微量の魔素が術式干渉により染み出すことで空気が歪んでいる一帯。


 4.帝国外郭の廃魔導炉跡

 詳細: 長期間放置された旧式炉の残留エネルギーが、空間構造そのものに影響し変形している亀裂箇所。


 5.魔導学園旧館の地下倉庫付近

 詳細: 過去の高出力な魔術行使によるログの蓄積が空間の同期ズレを引き起こし、局所的な次元の歪みを発生させている特異点。


「ご苦労だな。……これだけの数があれば、当分の間は厄介事を片付ける口実ができるか」


 リストの内容を頭に叩き込むと、アレンは羊皮紙を無造作に鞄へとしまい込んだ。


 神から頼まれた「因果律の辻褄合わせ」を遂行し、世界の崩壊を防ぐには、これらの座標を一つずつ回って修正していく必要がある。面倒なほころびをそのまま放置して後々により大きな面倒を背負い込むほど、アレンの頭は悪くなかった。


「やれやれ、のんびり読書に浸る時間はまたお預けというわけか。……行くぞ、エルエル。次の現場へ向けて最短の道順を考えろ」


「って、休む暇もないわけ!? ちょっと、私にも少しくらい……!」


 疲弊しきった女神の抗議の声を背中で華麗にスルーしながら、アレンは漆黒の羽織の裾を翻す。世界の理に綻びをもたらす不具合を最小限の手間で片付けるため、アレンは冷徹な足取りで第四倉庫の扉を再び押し開くのだった。


【商業区外れの路地裏と、最初の綻び】


 第四倉庫を後にしたアレンは、エルエルが持ってきた羊皮紙のリストを確認しながら、帝都の商業区外れへと足を向けていた。


「……まったく、休む間もなく面倒な雑用を押し付けられるとはな。せめて移動のついでに、安くてボリュームのある香辛料の効いた煮込みでも見つければいいが……」


 財布の紐を固く締めつつ、アレンがたどり着いたのはリストの第一番目――古い路地裏だった。周囲の石畳や壁の隙間から、空間の縫い目がほころび、周囲の環境にじっとりと二次的な負荷を及ぼしている特異点である。


(ふむ、これを放置すれば後々により大きな面倒や余計な出費を招く原因になる。さっさと片付けて、今日の安宿代と夕食の買い出しを済ませるに限るな)


 アレンは余分な魔力を消費しないよう最小限の動作で手を伸ばすと、空間の歪みにピンポイントで干渉し、乱れた座標を淡々と押し戻していく。周囲の空気がピシリと音を立てて整い、世界の不具合は最小限の手間で綺麗に修正された。


「よし、第一件目完了だ。……次へ向かう前に、さっそく近くで安くて美味いパン屋でも探すか」


 トラブルの種を一つ潰したアレンは、疲弊して後ろをついてくるエルエルの文句を右から左へ受け流しながら、現実的で手堅い足取りで次なる歪みへと向かって歩き出すのだった。


【帝国南部の水路と、安上がりの昼食】


 商業区の安価なパン屋でボソボソとした全粒粉のパンを購入し、かじりながら移動したアレンがたどり着いたのは、リストの第二番目である「帝国南部の古い石造りの水路付近」だった。


 周囲は魔導インフラの密集地帯であり、局所的な空間のねじれの渦が生じている一帯だ。水面が不規則に歪み、周囲の魔素流動に余計な負荷をかけている。


「ふむ、放置すれば魔導ポンプの摩耗を早め、無駄な修繕費が発生する原因になるな。さっさと修正して、次の仕事へ移るとしよう」


 アレンは無駄な魔力を一滴たりとも消費しないよう、最小限のエネルギー制御で水路のねじれポイントをピンポイントで辻褄合わせし、一瞬で座標を同期させ直した。渦を巻いていた空間は嘘のように穏やかな流れへと戻り、不具合の痕跡はきれいに消え去る。


「ねぇ、これで二件目だよ。……にしても、歩き通しで小腹が空いたし。この近くに、確か一泊大銅貨数枚で食べられる具だくさんのスープを出す屋台があったと思うんだ。だからさっさと終わらせてよ……って、なんで私までこんな泥臭いドブさらいみたいな歪み修正につき合わされてるわけ!?」


 背後で埃まみれになりながら抗議するエルエルに対し、アレンは冷ややかにそれをスルーする。


「文句を言うな。お前が帝国中でデータ収集をサボっていたからこうして現場を回る羽目になっているんだ。それに、労働の後のスープ代は自腹だからな、無駄遣いするなよ」


 現実的でケチくさい言葉で女神の文句を切り捨てると、アレンは次なる歪み――古い職人街の片隅へ向けて、着実に足を進めるのだった。


【古い職人街の片隅と、微細な魔素リーク】


 スープ屋の屋台で安上がりの昼食を済ませたアレンは、エルエルを従えてリストの第三番目である「古い職人街の片隅」へと足を踏み入れていた。


 周囲には古い工房や鍛冶場が立ち並び、職人たちがハンマーを振るう金属音が響いている。その一角、一際古びた魔術回路の配線がむき出しになった壁際で、空間がぼんやりと霞むように歪んでいた。


「ふむ……老朽化した魔術回路の干渉か。微量の魔素が術式干渉を引き起こし、空気を無駄に歪ませているな」


 回路全体を取り替えるとなれば莫大な修繕費と工数がかかるが、アレンの目的はあくまで世界システムの「エラーパッチ適用」であり、無駄なインフラ投資ではない。


「根本的な配線交換は帝国のギルドにでも丸投げの稟議書を回しておけばいい。今の俺に必要なのは、この局所的な魔素リークの絶縁と座標の強制同期だ」


 アレンは指先を軽く一閃させ、環境マナの流動を書き換える低負荷の辻褄を壁面へ流し込む。ピシリと響いた乾いた音と共に、染み出していた魔素のリークは完全にシャットアウトされ、歪んでいた空気が何事もなかったかのようにクリアな日常へと戻った。


「よし、これで三件目だ。残り二つもさっさと片付けて、今日の分の読書タイムを確保するとしよう」


「ちょっとボス! 職人街ってことは、あそこの名物の焼き立てパイとか、美味しそうな差し入れが期待できるんじゃないの!? なんで一目散に素通りするわけ!?」


 背後でエルエルが不満タラタラに声を上げるが、アレンは小さく息をつくと、懐からわずかに硬貨を取り出す。


「……まったく、これだから効率の悪い女神は面倒だ。今日の作業進捗が予定より少し早上がりに着地したからな、その分の歩合としてスープ一杯分くらいは特別に出してやる。……ほら、ぐずぐずせずにさっさと買ってこい」


「えっ、本当!? やったぁ、ボスって案外太っ腹じゃない!」


 パッと顔を輝かせたエルエルが慌てて屋台へと駆け寄っていくのを見送りながら、アレンは次なる歪みの現場へ向けて、淀みのない足取りで職人街を抜けていくのだった。


【帝国外郭の廃魔導炉跡と、残留エネルギーの圧縮】


 職人街を抜けたアレンとエルエルがたどり着いたのは、リストの第四番目である「帝国外郭の廃魔導炉跡」だった。


 周囲はかつての帝国中枢を支えた旧式魔導炉の残骸が巨大な鉄の墓場のように転がり、その中心部では、長期間放置された残留エネルギーが空間構造そのものに干渉し、歪な亀裂を生み出していた。空気が熱を帯び、ピリピリとした静電気が肌を刺す。


「……ふむ。旧式炉の非効率な熱エネルギーがそのまま空間構造へ負荷をかけ続け、構造変形を引き起こしているな。下手に刺激すれば二次爆発を起こしかねないが……」


 アレンは冷徹な視線で亀裂のベクトルを鑑定で解析すると、無駄な出力を完全にカットした局所冷却の辻褄合わせを構築する。


「まあ、大元の炉心に直接干渉する必要はない。周囲の残留魔素を逆位相の冷却回路で包み込み、熱膨張のエネルギーを相殺して構造体ごと一瞬で固めれば事足りる」


 アレンが指先を軽く弾くと、空間の亀裂を囲むように微細な魔素の網目が展開され、膨大な残留エネルギーがピタリと沈静化した。歪んでいた空間構造は元の正しい座標へと綺麗に巻き戻され、危険な亀裂はただの硬い瓦礫の残骸へと変わる。


「よし、これで四件目だ。……残るはあと一つだな」


「はぁ、はぁ……ちょっとボス、こんな危なっかしい廃墟まで歩かされて、私の足はもう限界よ……! ていうか、こんな危険な修復作業、どうして私がタダで付き合わなきゃいけないわけ!?」


 背後で煤まみれになりながら膝をつくエルエルに対し、アレンはポケットから冷えたペットボトルを取り出しつつ、容赦のない現実を叩きつける。


「タダ働きとは心外だな。お前の月給銀貨20枚のなかに、こういった現地踏査やデータ収集の作業報酬もちゃんと含まれている。労働対価の計算に不服があるなら、次月の給料明細を上司(神)に交渉するが、どうする?」


「……すみませんでした、真面目に歩きます」


 金銭的なペナルティの提示に一瞬で大人しくなった女神を背中に従え、アレンは残る最後の一件――「魔導学園旧館の地下倉庫付近」へ向けて、軽快な足取りで最後のルートを踏み出していくのだった。


【魔導学園旧館の地下倉庫と、全件パージの完了】


 疲労の色を隠せないエルエルを引き連れ、アレンが最後にたどり着いたのは、リストの第五番目である「魔導学園旧館の地下倉庫付近」だった。


 薄暗い地下通路の一角。そこでは、過去の生徒や教員たちによる高出力な魔術行使の痕跡が蓄積され、空間の同期ズレを引き起こすことで、局所的な次元の歪みを発生させている特異点がぽっかりと口を開けていた。空間の境界がかすかに波打ち、周囲の物理定数に細かなノイズを走らせている。


「……なるほど。無駄に大出力の魔術を乱用した歴史的痕跡が境界を圧迫し、空間の配列を乱しているわけか。定期的なゴミ掃除を怠るからこういう不具合が起きる」


 アレンは呆れたように息を吐くと、自身の【時空制御】の術法展開を展開する。


「根本的な解決には至らないが、このゴミデータの蓄積を古い痕跡ごと別次元の領域へ退避させ、座標の揺らぎを強制的にリセットすれば十分だ」


 アレンが指先で空間の歪みに軽く触れ、内部の同期ズレを修復する辻褄合わせを流し込む。次の瞬間、重苦しく歪んでいた地下の空気が澄み渡るようにパチンと整い、空間の歪み痕跡は完全にクローズされた。


「よし、これで帝国領内の全五箇所の特異点座標の最適化および破棄は完了だ。……やれやれ、これでようやく無駄な魔力維持費の発生を防げたな」


 すべての歪みを最小限の工数で完全に片付けたアレンは、身じろぎ一つせず、手元の羊皮紙のリストに冷徹なチェックマークを脳内で書き入れる。


「ふう……これで、ようやく……これでやっと、あの薄暗い第四倉庫に戻って、静かに読書に浸る時間が……」


 後ろで床にへたり込み、魂の抜けたような顔で呟くエルエルを一瞥しつつ、アレンはトランクケースに羊皮紙をしまい込む。


 神から外注された「因果律の泥臭い辻褄合わせ(ラフ・アジャスト)」の第一陣を鮮やかに完遂したアレンは、無駄なメンテナンスコストの消滅に密かな満足感を覚えながら、次なる日常のコーヒーブレイクへと向けて冷徹な足取りで学園の地下を後にするのだった。

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