22話:闇への適応
【光と影の干渉実験】
さて、いつもの見慣れた定食屋のカウンター席に、俺はどっかりと腰を下ろしている。
今日の食卓に並んでいるのは、いつもの硬いパンやスープではなく、どこか哀愁を漂わせる生野菜のサラダと――真っ黒に炭のように焦げた川魚だ。
なんでも店主が焼き加減を盛大に失敗して捨てようとしていた代物らしいが、「もったいない精神」を発揮した俺がタダ同然で譲り受けたものだ。見た目は完全に炭だが、塩気さえあればタンパク質には違いない。
そんな焦げ魚をつつきながら、俺は今、箸を止めて真剣な眼差しで一つの物理現象について考えに耽っていた。
……「闇」についてだ。
一般的に、闇は光と対をなす正反対の存在だと思われている。だが、魔素の挙動を直接いじれる今の俺からすれば、その正体はもっと複雑で、物理的な干渉現象に近い。
イメージしにくいかもしれないが、理屈はこうだ。
もし光が、水面を伝う「波」のような性質で出来ていると仮定しよう。その光の波の頂点に対し、ちょうど180度位相をずらした逆向きの波――つまり「反転した光」を重ね合わせれば、波と波が打ち消し合って光は消滅するはずだ!
「……ふむ。理屈の上では完璧だな」
これで漆黒の闇が生まれると思っただろう?
だが、現実はそう甘くなかった。
実際にやってみると、ただ光が消えた空間が真っ黒な影として浮き彫りになるだけで、肝心の「闇」という物質的な実感が湧かない。
首を傾げた俺は、検証のために自分の右手を目の前に差し出した。
体内の魔素濃度を微調整し、手のひらの周囲で光の屈折率を意図的に狂わせてみる。
手のひらの中心には、完璧に屈折した光が複雑に入り交じる。だが、その周囲には屈折しきれなかった通常の光も容赦なく当たっている。これでお互いの光の波が干渉し合い、完璧な光学迷彩(闇)が完成する……はずだった。
しかし、実際に目の前で起きた現象は、そんな理路整然としたものじゃない。
「……あれ?」
そこにあったのは、周囲の空間から完全に浮き上がった、不自然にぬめり光る黒い物体――まるで目の前にある「さっきの焦げた川魚」と同じような、グロテスクに歪んだ手が、ただ空間にぽつんと不気味に浮いて目立っているだけだった。
「……光の干渉実験、大失敗だな。コリメート値ミスったか?」
俺は苦笑いを浮かべ、黒く歪んでしまった自分の右手をもそもそと動かしながら、気を取り直して真っ黒な川魚に箸を伸ばすのだった。
【空気の読み方、窒息の計算】
ギルドホールの受付周辺は、朝の静寂を破る荒々しい雑音に包まれていた。
「だから急いでるんだって!」
声を張り上げるのは、冒険者特有の泥と汗の匂いをさせた一人の少女だ。切迫した声色が、喧噪の交じる大広間に尖って響く。近くに位置するダンジョン3層にて、深刻なトラブルが発生したらしい。
「いきなり仲間が襲われたんだよ。暗くてよく見えなかったんだけど、多分人だと思う。人がいきなり襲って来るなんておかしいでしょう!?」
対応するギルド職員の表情には、動揺の欠片もなかった。長年の勤務で幾度となく繰り返されてきた惨劇に擦り切れ、機械的な平淡さだけを宿した淡々とした声で応じる。
「……恐らくですが、魔物討伐直後の隙を狙った賊党による襲撃と思われます。直ちに救助隊を編成致しますが、人員の確保には少々お時間が――」
(ギルドが救助隊を編制するだと? ふん、そう安々と集まるはずもない。この過酷な世界にボランティアなどという都合の良い概念は存在しないのだからな。必要なのは確実な金、つまり相応の報酬だ。利害の調整と人員の公募だけで、どうせ半日は潰れる。残念だったな)
事情を察したアレンは冷ややかな思考を巡らせ、関わりを避けるようにその場を立ち去ろうとした。踏み出した一歩は、無関心そのものだった。しかし――。
「まって! 行かないでぇ! 薄情者、絶対聞いてたよね!? お願いだから助けてよ~!」
視線を鋭く向けられ、アレンは足を止めた。大きな瞳に涙を浮かべ、必死にすがりついてくる少女の姿。
「……はぁ、どこのどいつだよ」
吐き捨てた溜め息には、自身の甘さに対する自嘲が交じっていた。不条理を前に見捨てきれない、現代人特有の業とも言えるお人好しが土壇場で発動してしまう。
本来ならばダンジョン3層まで、警戒を怠らず足を進めて2時間はかかる道のりである。だが、アレンは身体強化の法を全身の血流に巡らせると、最速の速度で坑道を駆け抜けた。風を切り、闇を裂く。かかった時間はわずか10分足らず。
「寄り道無しだ。このまま突っ切るぞ。途中の魔物は気にするな、ただの空気に変えてやる」
バシュッ! パン、パン、パンッ!!
1層を徘徊する魔物どもは、アレンの速度に反応することすら叶わない。瞬足の踏み込みから放たれる無慈悲な一蹴は、魔物の肉体を骨ごと砕き、生命の灯火を一瞬で鮮血の霧へと変えて散らした。
疾走を続けておよそ30分。
「ハァ……ハァ……待って、息、できない……!」
追従していた少女の足がもつれ、酸素を求めて胸を上下させる。完全に限界だった。
「チッ、仕方ないな」
アレンは足を止めることなく、少女――名前も聞いていなかったが、思考の便宜上『ミア』と呼ぶことにした彼女の細い胴体を、荷物のように小脇へ強引に抱え直した。
「あたし一応女の子だよ!? 普通、こういう時はお姫様抱っこでしょ!……ッ、オェ」
「走ってる最中に軽口を叩くからそうなる」
加速の衝撃に揺られながら文句を言うミアを無視し、アレンは一気に3層の深部へと躍り出た。薄暗い空洞の奥、冷たい空気の滞留する場所に、その一団はいた。
「3層だぞ。なんだ、まだ居たのか」
そこに屯していたのは、顔半分を薄汚い布で覆った賊と思われる男が3人。そしてそのすぐ足元には、太い縄で硬く縛られ、意識を失ってぐったりと横たわる別の女冒険者の姿があった。どうやら奴らは、先ほど奪い取ったばかりの貴重な戦利品の分配方法を巡り、醜い仲間割れの最中だったらしい。
「あぁん? なんだてめぇは。見世物じゃねえんだよ、さっさと失せな……と言いたいところだが、ここまで足を踏み入れた以上、ここで死んでもらうぜ!」
中心にいた大柄な男が、獰猛な狂気をギラつかせた笑みを浮かべる。剥き出しの殺意を刃に乗せ、アレンへ向けて一直線に襲いかかってきた。
だが、アレンは身構えることすらしない。逃げも、隠れもせず、ただすれ違いざまに、静かな一歩を踏み出しただけだった。
ドサッ……!
「ガッ……ヒュー、ヒューッ……!」
襲いかかってきた賊の男は、凶器を振り下ろすことすら叶わず、突如として足をもつれさせて地面へ倒れ伏した。そのまま完全に意識を失い、白目を剥いて全身を激しく痙攣させ始める。アレンはただそこに立ち尽くしているだけで、指一本すら動かしていない。
「なっ……何をしたんだ、兄貴に一体何をしやがった!」
「あぁ、別に俺は何もしていないさ。ただ……俺の周りの空気が、非常に悪くなっているだけだ」
薄汚い賊どもの横暴な態度に微かな不快感を覚えつつ、アレンは体内で極限まで圧縮・循環させている高密度の魔素を、相手の顔面へ向けて不可視の微量として直接噴出させたに過ぎない。
(俺の魔素は、高濃度に圧縮されると周囲の気体分子と激しく干渉し、特定の成分――特に生命維持に不可欠な酸素だけが極端に呼吸器を通りにくくなる性質を持っている。これを利用すれば、物理的な痕跡を残さず相手を確実に窒息へと追いやることができるのだ。空気中の酸素濃度と生体反応のバランスをほんの少し、意図的に書き換えているだけなのだが……まあ、安全マージンを完全に無視して局所的な酸素濃度を6%以下まで低下させてしまえば、如何に鍛えた生物とて脳の機能停止を免れず、死に至るのも当然か)
「おい、そこのお前。さっきから名前を聞きそびれていたが、何と言ったっけ?」
「えっ!? あたしに聞いてんの!? ちょっと、こんな緊迫した状況の中で今ここで自己紹介すんの!?」
(まったく、めんどくさい女だな。余計なリアクションは挟まずに自分の名だけを端的に答えればいいものを。これだから素人は困る……)
「……ミア、だよ!」
「そうか。ミア、いいか。今足元で突っ立っている奴も、じきにさっきの男と同じように勝手に痙攣して床に倒れ伏す。その後の運搬作業は手伝えよ」
アレンは一瞬だけ不自然な溜めを作り、わざとらしく大きく視線を天井の暗闇へと向けた。そして、微かに不敵な笑みを口元に浮かべながら、芝居がかった言葉を紡ぎ出す。
「……ふっ。俺の右眼が、今ひどく疼く。……おそらく、もうすぐ面倒なことが起きると“右眼が”そう言っているんだがね」
その余りにも唐突で、痛々しいほどに芝居がかった中二病全開の発言に対し、脇で震えていたミアはしばらく言葉を失った。引きつった表情のまま、冷めた視線でアレンの顔をじっと凝視する。
「…………それ、もしかして、ただの疲れ目か何かの一種の中二病的な病気?」
少女の冷ややかなツッコミが洞窟の冷たい空気に虚しくこだました、まさにその瞬間――。
ピキ、ピキキキッ……!
突如として、大洞の空間そのものがガラスのように音を立てて亀裂を走らせた。同時に、アレンの視界の隅にあり得ないエラーの文字が暴力的に明滅を始める。
ジジッ……! バチバチバチッ……!!
『システムメッセージ』
【空間操作】Lv.# Error
世界を構成するはずの絶対的な理が、目の前で静かに、しかし決定的に崩壊を始めていた。




