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第八章:これは雇用契約なので溺愛は不要です、と思っていたはずなのに(4)

 エーヴァルトはイリヤの両手をとって、ぶんぶんと振り回す。


「え?」


 もちろんイリヤには瘴気を祓う力などない。それは聖女にのみが使える力だから。


「あ~あ~」


 マリアンヌもクライブに抱っこされながら、腕をぶんぶんと振り回していた。


「マリー?」


 イリヤがマリアンヌを見つめると、彼女は上機嫌で声をあげている。


「クライブ様?」


 彼は黙って深く頷いた。

 クライブもイリヤの言いたいことを理解したようだ。


 瘴気を祓ったのはマリアンヌしかいない。エーヴァルトと共に魔物を倒していたあのときに、一緒に瘴気まで祓っていたのだろう。


 しかしここにいる者たちは、イリヤが聖女だと思っている。


「だが、正式には魔法使いを派遣して確認してもらおう。時空の歪みについても、彼らにみてもらう。イリヤ殿、時空の歪みは確認できるか?」


 それはイリヤにもはっきりとわかった。時空の歪みと呼ばれるものは、何もない空間がもやもやっと歪んでいるように見えるのだ。その場では、『|』が『<』になるように見える。


「……はい。その辺りがもやもやっとしているかと」

「あいあい」


 マリアンヌが返事をしているから、間違いないだろう。


「なるほど。これをどうにかするのは、難しいか?」


 イリヤが本物の聖女ではないとわかっているくせに、エーヴァルトは畳みかけてきた。


「そうですね。今日のところは、少し……」

「陛下。今日は魔物が不意に襲ってきて、それで魔力も消耗しております。さらに、瘴気も祓ったとなれば、いくら聖女であっても力の限界というものがあるのでは?」

「あだあだ」


 先ほどまでエーヴァルトとよいコンビであったマリアンヌは、今は、完全にクライブの味方になっている。


「聖女様、このたびはご協力、誠に感謝いたします」


 アレンが深く腰を折れば、彼らの部下も同じようにイリヤに向かって頭を下げた。


「あ、いえ……私はできることしかやっていませんので……」


 その言葉に偽りはない。イリヤが行ったのは魔物に対して魔法を放ち、こんがりと焼いただけ。

 瘴気を祓ったのは、まちがいなくマリアンヌの力。それに気づいているのは、クライブとエーヴァルトだけ。


「それでは、聖女様は先にお戻りください。あとは、我々が周辺を確認しておきます」

「オロス侯爵、少しいいか?」


 アレンを呼び止めたエーヴァルトは、彼に何かをこそっと告げていた。





 ごとごとと揺れる馬車の中で、マリアンヌはこくりこくりと船をこいでいた。


「眠ったのか?」


 イリヤの腕の中にいるマリアンヌは、ぴたっと頬を胸にくっつけて眠っている。まるでイリヤの心音を聞くかのような姿。


「そうみたいですね。マリーも、エーヴァルト様と一緒に魔物を倒しましたからね」


 そのエーヴァルトは、この馬車にはいない。

 アレンと一緒に現地に残って、もう少し周辺を確認してから戻るとのことだった。


「疲れましたね。戻ったら、すぐにお湯をもらいましょう。クライブ様の顔、まだ魔物の血が……」


 拭ってみたが、すべては拭いきれなかった。赤黒い何かが、まだ頬にこびりついている。


「そうだな」


 なぜかクライブの手が、イリヤの腰に回された。


「か、閣下……?」

「なぜ、そこで呼び方が元に戻る? オレのことは名前で呼べと、あれほど……」


 わかってはいるが、クライブの顔が近いのだ。鼻先が触れ合うくらいに近すぎて、動揺して。だから、ここで彼の名を口にしたら、気持ちはすべてもっていかれてしまう。


「イリヤ、いいか?」

「な、何をですか?」

「オレは約束通り、イリヤを守った。頑張ったと思わないか?」

「そ、そうですね……」

「褒美をねだってもいいか?」


 褒美だなんて、何を子どものようなことを言っているのだろう。


「もう、子どもみたいなことを言って。何が欲しいんですか?」


 近くにあるクライブの顔がもっと近づいてくる。


 唇と唇が触れ合おうとした瞬間、「ふぇっ……」とマリアンヌから声が漏れ出た。

 イリヤが慌ててマリアンヌを見ようとしたら、クライブとごつんと頭がぶつかる。


「いたっ」

「う、うわ~ん」

「イリヤ、すまない。あ、マリアンヌが……」


 イリヤと頭をぶつけたうえに、マリアンヌが泣き始め、クライブもあたふたとし始めた。


「はいはい、マリー。どうしたの?」


 イリヤはマリアンヌを抱き直し、背中をぽんぽんとやさしくなでて宥める。


「まんま?」

「なあに?」

「ぱぁぱ?」


 クライブに向かって手を伸ばしたマリアンヌを、そのままクライブに預けた。


「どうした? うちの聖女様は。急に甘え始めて」

「そういうときもあるんじゃないですか?」

「あ~あ~」


 目尻に大粒の涙をためているマリアンヌは、もうニコニコと笑っていた。


 城館に着くと、すぐさまクライブはマリアンヌをつれて浴室を借りた。魔物の体液が飛び散って、汚れていたのは、マリアンヌもイリヤも同じだった。

 マリアンヌを着替えさせてから、イリヤも浴室を借りて汚れを落とし、動きやすい平素なドレスを身に付けた。


 イリヤが部屋へ戻ったときには、クライブがマリアンヌの両手を引いて、一緒に歩いていた。マリアンヌは動き回りたいらしい。


「まんま~」


 イリヤを見つけたマリアンヌは、満面の笑みを浮かべた。

 アレンたちもエーヴァルトも、まだ戻ってこない。

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