第三章:お仕事はきっちりとこなします(2)
「で、では、私。着替えて参ります」
よろよろと寝台から下りたイリヤは、クライブが何か言う前に扉続きの自室へと向かった。
着替が終わると、彼と共に朝食をとった。その間、マリアンヌは必死になってミルクを飲む。その姿が愛らしくて、つい手の動きが止まってしまう。クライブに注意されるが、そんな彼だってマリアンヌの様子をちらちらと見ていた。
「では、いってくる」
王城へと向かうクライブを見送ると、イリヤは開放感に包まれた。彼がいると窮屈というわけではないのだが、変に緊張して身体が強張ってしまう。
寝室も分けてほしいと言ったのだが、新婚の二人が別々に寝ると使用人たちに勘ぐられてしまうとのこと。そうなると、噂がどうのこうのと言い出したので「あ~、もういいです、いいです」と言って、彼と一緒に眠ることとなった。
クライブとの結婚が契約結婚みたいであるのを知っているのはチャールズだけ。それ以外には、仲のよい夫婦関係を見せておかなければならない。
今日も腕の中にいるマリアンヌは、絶好調である。あ~う~あ~う~と楽しそうに声をあげ、ぱっちりと大きな目を開けている。
そろそろ離乳食を始めたらどうだろうかとナナカに相談してみたところ、彼女もその意見には同意した。となればやはり月齢は七か月くらいなのだろうか。
「奥様……」
声がした先に目を向けると、チャールズとサマンサがあたたかな眼差しでこちらを見つめている。
「勉強の時間です」
さすがに、ぐうたら生活とはいかないようだ。
「わかりました」
クライブから『とにかく、オレに恥をかかせるな』と言われてしまうと、恥をかかせてやってもいいかなとは思うのだが、そうなるとファクト公爵家全体の恥となり、それがマリアンヌにも影響する。となれば、やはりクライブに恥をかかせてはならないのだ。
「お嬢様をお預かりします」
マリアンヌをナナカに預けると、図書室へと向かう。ここがイリヤの勉強部屋である。
イリヤだって子爵令嬢の端くれであった。語学や作法の教養面に関しては特に問題はない。むしろ、それを子どもに教える家庭教師の立場であったのだ。
クライブが不在のときは、女主人として屋敷を切り盛りする必要がある。小さなマーベル子爵邸と、国内の四大公爵とも言われるファクト公爵邸では、まったくもって采配が異なる。
今まではチャールズとサマンサが主体となって行ってきた屋敷のことを、イリヤにも覚えてほしいとクライブがその二人に伝えたようだ。
ふとイリヤは思う。
イリヤはマリアンヌの母親になるということでこの結婚を引き受けた。だが、クライブの妻としての立ち居振る舞いを求められるのは、契約外なのではないか。
と、そんなふうに考えてしまうくらい、数字が絡むものは苦手だった。
クライブが帰ってきたとサマンサから連絡があったとき、ちょっとだけわくわくしながら彼を出迎えようとしていることにふと気づく。
この感情はいったいなんなのか。
ナナカからマリアンヌを預かり、彼女を抱くと、ずっしりとした重みを感じた。
「今日も元気ね。マリーは何をして遊んだのかな?」
「あ~だ~」
早く一緒に歩いて散歩をしてみたいと思いながらも、その頃になれば今を懐かしく思うのだろう。
マリアンヌを抱いたまま、クライブを迎える。
「おかえりなさいませ……え?」
「だ~だ~」
イリヤはクライブの隣にいる男を確認する。
「ええと、陛下?」
なぜかクライブの隣にエーヴァルトが立っている。それでも顔を隠すかのように深くフードをかぶっているのは、その正体を他の者に知られないという配慮からのようだ。
「きちゃった」
「きちゃった、じゃねぇよ」
エーヴァルトの言葉に、クライブが顔を引きつらせながら隣で答えた。
「クライブ、冷たい。君がマリアンヌに会わせてくれないからだろぉ? あぁ、マリアンヌ、二日ぶりだね。会いたかったよ」
エーヴァルトはフードを脱ぎ、イリヤの腕の中にいるマリアンヌに顔を近づけている。
「雑菌をマリアンヌに近づけるな」
雑菌は昨日、イリヤがクライブに向かって放った言葉である。それをクライブがエーヴァルトに向かって強い口調で言った。もしかして雑菌を根に持っているのだろうか。
それはさておき。
「閣下……これは、いったい?」
「一体も二体も三体も。見ての通りだ」
見ての通り。つまり、エーヴァルトがマリアンヌに会いたかった。そう思えるのだが。
「ああ、マリアンヌ。やっぱり私と一緒に城へと戻ろう」
「ぶぶぶぶぶぶぅ」
エーヴァルトの言葉を理解しているかのようなタイミングで、マリアンヌは口をぶぶと鳴らして涎を出す。
「陛下。申し訳ないのですが、そろそろマリーの食事の時間でして……」
クライブの帰宅を待っていたのだ。彼が帰ってきたらマリーに離乳食を与えよる予定だった。初めての離乳食は、父親であるクライブが一緒にいるときがいいだろうと、そう思っていた。マーベル子爵邸では、イリヤの記憶のあるかぎり、三人の妹の初めての離乳食は、両親が揃ったところで与えたような気がするからだ。
些細なことだけれど、子どもの成長はできるだけ共有したい。
「マリー? イリヤ嬢はマリアンヌをマリーと呼んでいるのか? ああ、いいな。マリー、私もそう呼ばせてもらおうか」
「あぶ、ぶぶぶぶぅ」
マリアンヌが仏頂面をしたとしても、エーヴァルトを喜ばせるだけである。
イリヤは困り、クライブの顔を見上げた。クライブからもほとほと参っている様子が伝わってきた。彼は今までこんなエーヴァルトと一緒にいたのだ。それを想像しただけで、クライブに同情すら覚えてきた。そんな彼は首を横に振り、無言で「無駄だ」と言っている。つまり、エーヴァルトに何を言っても無駄である。




