第二章:契約結婚? いえ、雇用関係です!(6)
とにかく、一日、職業紹介所で求人を見ていたころとは大違いなのだ。
マリアンヌはいつの間にかナナカの腕の中で眠っていた。鼻がつまっているのか、すぴーすぴーと鼻を鳴らしている。
クライブには、マリアンヌの世話は一人でできると啖呵を切ってはみたものの、実際、マリアンヌの世話にはいろんな人から助けてもらっている。幼い妹が三人もいて、彼女たちの世話をしていたはずなのに、マリアンヌのことはそう容易くいかなかった。
変に緊張するし、しっかり育てなければという思いがある。妹のときは、近くに母親がいてくれた心強さもあったのかもしれない。
いや、違う。これが親の気持ちなのだ。子に責任を持つ。
マリアンヌの母親となったのだから、マリアンヌの成長に責任を持つ。
それが、妹たちの世話をしていたときとの大きな違いだ。かわいいかわいいいだけでは、マリアンヌの面倒をみるなどできない。
「……奥様」
お菓子もすっかりと食べてしまったころ、チャールズが部屋へとやってきて、にこやかに声をかけてきた。
「このあとのご予定なのですが……」
まだあるの、と思ったものの、それを口にはしない。ぐっと堪える。
「勉強の時間となっております」
「勉強……」
「はい、旦那様からの伝言でございます。『とにかく、オレに恥をかかせるな』。以上でございます」
その伝言はいらなかった。そしてこのタイミングで言ってくるチャールズは、間違いなく空気を読むのが上手である。彼の目が笑っていた。
クライブが帰ってきた頃には、イリヤもぐったりとしていた。
「お帰りなさいませ……」
マリアンヌを抱っこしたまま出迎えてはみたものの、本音をいえば、ふかふかの寝台に飛び込みたい。
「……イリヤ。顔色が悪いが? 具合でも悪いのか?」
「いえ……旦那様が心配なさるようなことではありません」
その言葉に、クライブの顔は陰った。
「オレは妻を心配することも許してもらえないのか?」
目を伏せて呟く様子に、イリヤの心がきゅるるんと音を立てる。
「そういうつもりではなくて……わざわざ私のために、旦那様が気を使う必要はないということです」
「だが、イリヤはオレの妻だろう? 夫は妻を気にかけるものだと聞いたが?」
誰の入れ知恵か。
もちろん、チャールズしかいない。隣でニコニコとしているチャールズに、チラリと視線を向ける。
昨夜、あの半裸状態のクライブは、いったい何を吹き込まれたのか。気になるところでもある。
それに、彼の言うことは間違いではないし、普通の夫婦であれば喜ぶべきところだろう。この人、本当に私のことを愛してくれているのね、と。
しかし、イリヤとクライブの関係は普通の夫婦とは異なる。婚姻関係にあっても雇用関係みたいなもの。
「心配してくださってありがとうございます。ただ疲れただけです」
事務的に答えてみると、ふたたびクライブの顔は曇るが、彼がなぜそのような表情をするのか、イリヤにはわからない。
「そうか……マリアンヌは? 暴走したりしなかったか?」
暴走とは、部屋の調度品を浮かせたりひっくり返したりすることを指す。
「はい」
今もイリヤの腕の中で両手を突き出して「あ~う~」と何かをしゃべっている。
「こうやって、愛嬌を振りまいていました。本当に、昨日のあれが夢だったのでは、と思えるくらいにかわいらしいです。抱いてみます?」
「そうだな」
クライブの上着はいつの間にかチャールズが預かっていた。できる執事は、やはり何かが違う。
「あ、ですが。先に手を洗ってください。外からの雑菌をマリーに近づけないでください」
「イリヤ……陛下に似てきたな」
「ちょ、ちょっと! 陛下と一緒にしないでください。はい、どうぞ」
ぐいっとマリアンヌをクライブに預けようとすると、彼はちょっとだけ引いた。
「どうしたんですか? マリーを抱っこするんでしょう?」
「イリヤがオレを雑菌と言ったのだろう?」
「ああ、そんなこと。簡単です」
イリヤはパチンと指を鳴らした。ささっと光の粒子がクライブを覆う。このくらいの魔法であれば、心の中で念じなくてもすぐに使える。浄化魔法はイリヤが最も得意とする魔法だからだ。
「これは?」
「浄化魔法ですね。これで雑菌もあっという間にさようならです。旦那様は私の力をご存知なのですから、もう隠す必要もないかなと思いまして。家にいるときも、必要に応じて使っていましたから」
魔法が使えると知られているのに、わざわざ隠す必要もないだろう。
「そうか。だが、魔法は貴重な力。いくらこの屋敷内であっても、信頼のおける者以外の前ではけして使うな」
この場にいたのはクライブとチャールズ、そしてマリアンヌのみ。この者たちは信頼のおける者に該当するようだ。
「わかりました」
イリヤがしゅんとすると、クライブは困ったような顔をする。目が合った。だけど、すぐに逸らされた。
クライブという人間はよくわからない。まだ出会って一日しか経っていないのだから、それも仕方ない。一日で相手のすべてを理解しろというほうが、無理な話である。
「あ~あ~、う~」
マリアンヌがクライブの腕の中にうつっても、彼女はご機嫌なままだった。
「あら、パパの腕も嫌がらないみたいですね」
「う~う~」
両手をぶんぶんと動かして、その手の先がクライブの眼鏡をとらえた。
「あっ」
眼鏡はひゅん向こう側へと飛んでいく。それを慌ててチャールズが追いかけ、拾った。
「旦那様」
「ああ、すまない。だが、マリアンヌを抱くと眼鏡が危険だということがわかった」
片手で器用にマリアンヌを抱くクライブの様子をみていると、子守りの経験があるのだろうかと思えてしまうほど。
「マリー。パパの眼鏡で遊んでは駄目ですよ」
イリヤの言葉に「あ~う~」と返事をするマリアンヌだが、それよりもクライブの表情が穏やかである。眼鏡が吹っ飛ばされたというのに。もしかして、いじめられるのが好きなタイプの人間なのだろうか。被虐性がある、とか。
「着替えたいのだが、部屋に連れて行ってもいいか?」




