第二章:契約結婚? いえ、雇用関係です!(5)
「ごめんなさい」
マリアンヌの効果は絶大であった。急にエーヴァルトはしおらしくなる。
クライブは目の前の書類の山に、黙って手を伸ばす。
最近、増えているのが魔物討伐の依頼である。昔から魔物はちょこちょこと出現していたが、やはり一年前の時空のゆがみが確認されてからは、その数がぐっと増えているように思える。
「ところで、どうする予定ですか? これ……」
依頼には全部応えたいが、それをこなすだけの人がいないというのが現状である。
「困ったよね。被害のひどいところには、騎士団とか魔法使いたちを派遣しているけど、そろそろ追いつかないんだよね」
そのための聖女召喚だったのだ。そしてそれは成功した。聖女が赤ん坊だったということを除いては。
「……マリアンヌは聖女なのだろう?」
「赤ん坊ですが」
クライブは眼鏡を押し上げながら答える。
「赤ん坊だけど、聖なる力はもっているのだろう?」
「聖なる力か魔力かはわかりませんが、少なくとも部屋一つ破壊するだけの力はお持ちかと……」
「困ったね」
「困りましたね」
聖女はいるが、聖女の役目が務まらない。
「マリアンヌの成長を待っていたら、この国は……」
「どうなるかはわかりませんね」
それはあの召喚の儀に立ち会った者たちの誰もが思っている。みな、口には出さないだけで。
だけど、もう一度、召喚の議を行うことはできない。聖女は、同時に二人は存在しないと言われているからだ。
異界からやってくる聖女は、一人のみ。
「もしかして……マリーを異界に戻したら、新しい聖女がやってくる?」
クライブはそう考えた。
「駄目だ……駄目だ、駄目だ、駄目だ。駄目に決まっている。マリアンヌを異界に戻すなど、あってはならない」
エーヴァルトがご乱心である。妄想の酷い男なのだ。仮に、本当にマリアンヌがいなくなったとしたら、彼は国王の職務を放棄するかもしれない。あってはならないことだが、あり得そうで怖い。
それに、マリアンヌを本当に異界に戻せるかどうかもわからない。そして、二度目の召喚の議を行ったとしても、必ずしも成功する保証もない。
それよりも何よりも、クライブ自身が、それをどこかで拒んでいた。
マリアンヌがいなくなったら、イリヤもあそこにいる意味がなくなるだろう。それが気になったのだ。
「自警団にも頼るか、もしくは仕事を探している者をそれとなく使うか、ですかね」
クライブの呟きに、エーヴァルトも思案を巡らせているようだ。
「追加予算。考えたほうがよさそうだな」
「そうですね。各地の魔物討伐費用、これは追加で必要でしょう」
「そうなるな……」
エーヴァルトが頭を抱え込んだ。
*~*~*
イリヤは朝から目が回るほど動いていた。サマンサが言っていた通り、その日は仕立屋がやってきた。採寸され、デザイン案をいくつも見せられたあげく、生地を選ぶ。
クライブがファクト公爵であることを考えれば、彼と(契約)結婚をしたイリヤは公爵夫人となるのだろう。しがない子爵令嬢から大出世ではあるが、やはり公爵夫人として彼の隣にはふさわしい格好で立ちたい。
そうやっていろいろ物事を決めていると、マリアンヌがイリヤを求めて泣いてどうしようもないと、ナナカが助けを欲してきた。泣き止まないマリアンヌを抱っこしながら、次々と話を進める。忙しくしていると、マリアンヌがかまってもらいたそうにして泣くのは不思議である。もしかしたら、クライブよりもいろんな意味で空気の読める子かもしれない。
「奥様、お疲れですね」
この状況で疲れないほうがおかしいだろう。
クライブと出会って、時間的にはやっと丸一日経ったところである。
「あ~、あ~」
やっとソファに身体を預けて休んでいるイリヤの膝の上では、マリアンヌが機嫌よく何かをしゃべっていた。
「お茶が入りました。お疲れのようですので、甘いお菓子を準備いたしました」
「あ~、あ~」
マリアンヌが手を伸ばす。
「マリー、めっよ、めっ。あなたはまだ食べられないのよ。マリーもお腹が空いているのね」
「あ~、う~」
こちらが何か声をかけると、そうやって返事をしてくれるのもかわいい。
「奥様、マリアンヌお嬢様をお預かりいたします」
そう言ったナナカの手には、哺乳瓶がある。
「あ~あ~」
哺乳瓶に手を伸ばすマリアンヌは、やはりお腹が空いていたようだ。
マリアンヌから解放されたイリヤは、白磁のカップに手を伸ばす。このようなカップでお茶を飲むのも、昨日の接待のような場を除いては久しぶりだ。手にしたカップは金で縁取りされ、上品な青で花が描かれている。それだけであっても、紅茶の味が変わるような気がした。
香ばしい匂いに交じって、柑橘系の香りがする。
「……美味しい」
心からその声が出てきた。
慌ただしい昨日から、やっと一息ついた。
思い返すと、本当に怒濤の一日だったのでは。一日前までは、イリヤ・マーベルであったのに、今ではイリヤ・ファクトを名乗る必要がある。
それよりも。安っぽい宿の簡素な寝台ではなく、大きな寝台で眠ることができた。マリアンヌと一緒に眠ったため、寝台は少し堅かったが、寝心地は最高だった。食事の味も量も文句のないほど。むしろ、多すぎて食べきれないくらいである。ただ、それではイリヤの食事量が少ないからだとクライブが指摘した。
そんなクライブは、何を考えているのかよくわからない男なのだ。むしろ、何も考えていないのではないだろうか。いや、それでも宰相としての彼の評価は高い。イリヤでさえも、その名は耳にしたことがあった。マーベル子爵領が国へ納める税金が少し安くなったのは、彼のおかげだと聞いたこともある。
仕事はできるのに、普段の生活がどこかおかしいように感じる。
それにあの年で、チャールズに説教されていたのは、ちょっとかわいらしかった。
サマンサの視線に気がついた。彼女は優しい笑みを浮かべて、イリヤを見ている。頬がゆるんだ瞬間を見られたかもしれない。お茶を飲んでごまかす。





